朝ご飯を食べながら映画「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」を観る

朝=マフィンのホットサンド、トマトスープ、玄米のドライカレー/夜=玄米でガパオ、半ラーメン/デザート=アイスクリーム

週末に備えて家でじっとしている。玄米食べてお酒も控える。やらなくてもいいのに、なんとなく動画を作ってしまった。週末にアップ予定。内容は『じゃない写真』の中でも触れているが、スライドショーと音楽の関係性について。ピアノ曲をつけた僕のスライドショーを見たフランスの写真家が「なぜ、ピアノの曲を使うんだ。曲と映像の組み合わせで感情移入してしまう。僕は自分の感情を他人にコントロールされたくない」。この言葉に腰を抜かすほど驚いた。目から鱗どこじゃなくて、考え方が根底から覆った感じがした。僕はそれまで、表現とは相手の感情を自分の意図に沿って動かすものだと思っていたところがあった。そこから美術館や展示で行われている映像作品を注意深く見ていった。するとひとつの例外もなく、使われていたのはリズムもメロディも、ハーモニーもないノイズだった。心地よさは全くなく、ただ不安感しかない。でもそれを裏返すと、いかに心地よい音楽と映像によって自分の気持ちがコントロールされていたのかが理解できた気がしてきた。ただそう思ってしまうことで、それ以外は受け付けなくなってしまう。それはそれで居心地が悪い。

 

<2021年8月4日の日記から>

ワクチン1回目。妻はすでに打っていて接種後しばらくは「注射された所が痛い」と言っていたが、僕ははなんともなくて、6時間くらい経ってからちょっと腕が痛むくらいだ。そういえば注射も全く痛くない。針が昔と違うんだろうね。なんかあると嫌なので家に戻ってからはどこも出かけず映画「ララランド」を見ていた。公開直後に一度観ていて、ストーリーは頭にあるので映像を見てるだけ。冒頭の長回しといい、日没直後のシーンといい、とてもフィルムでの撮影とは思えない。2BChannnelで2年前に作った動画をアップ。まだ何も方針は決まっていなくてチャンネル名も「旅カメChannnel」にしようかと思っていた頃だ。カメラはEOS5D3と iPnone7Plus を使っている。編集はiPad。“LumaFusion“というソフトがいいと聞いて使ってみた。結局すぐにPCでの作業になったけれど。1週間以上かけて作ったので、今見てもちゃんとしてた。というよりむしろ今より編集ちゃんとしてる(笑)

 

<2003年8月4日の日記から>

 ファッションデザイナーの撮影中、EOS1nの調子がおかしくなった。バッテリーは満タンなのに1枚切るとバッテリーマークが点滅してシャッターが下りなくなる。しばらくすると復帰するが、シャッターを切るとまたおかしくなる。撮影はEOS1nを2台、D60が1台、ハッセルを2台用意していたから支障はなかった。今後のこともあるのですぐに銀座のキャノンプロサービスに持ちこむ。プロサービス登録をして毎年1万2千円の会費を払うと、修理費が格段に安くなり、代替品も貸してくれる。しかし、ちょっと前までは全部タダだったのに、この頃は決して安くないお金を取られる。ありがたいサービスなので文句は言わないが、つい「昔はよかった」と口をつく。故障したEOS1nのシャッターカウンターを調べてもらったら6万7千回だった。10万回がプロ用カメラ耐用回数だと聞いたことがあるが、それにはまだ早い。でもあんまり褒められた扱いはしていないからなあ。2台ともオーバーホールに出す。ついでに28〜70ミリズームもガタがきているので修理。13日に出来上がるがそれまで代替品を借りる。帰りがけ現像所へ。混んでいて、通常仕上がりより4時間も遅れていた。事務所に戻りコラム本の打ち合わせ。タイトルがまだ決まっていない。難航しているのだ。原稿の戻しと、掲載する写真を選ぶ。50枚のうち、48枚まで決まる。残りの2枚は今週中に手配しなければならない。夜、ホリウチカラーの配達。担当の営業マンが言いづらそうに「このご時世なので配達便を朝一回きりにさせてください」と切り出してきた。此処は本来、配達区域外なのに、わざわざバイク便で持ってきてもらっているのでしょうがない。でもそうなるとますますデジタル化が進んでしまいそうだ。

スライドショー

朝=おろし蕎麦/おやつ=スイカ/夜=「おおた」で和食いろいろ

家にいても暑い。エアコンが効かない。日が落ちてから、そーっと外に出る。日中は動画のアップロードで四苦八苦していた。2020年に作ったスライドショーをアップしようとしたのだが、上がったものをチェックすると音量が小さいので、編集ソフトで調整し、再アップ。すると今度は音割れがひどい。書き出しの方法をいろいろ変えても音がどうしても歪む。かといって小さくすると音量が足りず音の効果がなくなってしまう。数時間あれこれやってようやくアップ。

これは2020年3月末に企画されていたリコー主催の「写真を映画館で見よう」というイベントのために制作したもの。しかし残念ながら感染拡大の時期ともろに重なり中止になってしまった。せっかく作ったものなので今回アップすることにした。これを作るきっかけになったことを解説する動画も明日作ろうと思っている。「じゃない写真」の中でも書いているが「写真と音楽と感情の問題」についてだ。

 

<2005年8月3日の日記から>

モンゴル展がスタート。11時過ぎから会場入りするが、これが誰も来ない。3時までいてわずかに3人。所在なげに関係者がウロウロする。今回、どこにも告知していない。この日記とワークショップの人たちに伝えただけだ。来ないとわかっていたが寂しいぜ。会場から代官山のバーへ。クローズアップマジシャンの前田知洋の撮影。もう7年前になるが、あるパーティで前田氏のマジックを間近に見ることができた。選んだトランプを、山の中に入れても指を鳴らした瞬間に山の一番上に現れるという彼の得意技だ。破ったトランプが僕の手のひらで元に戻ったのも体験した。まだテレビに出る前の頃だったので、目の前でおこることに大興奮。その後3ヶ月くらいはことあるごとに人に話していた。今回の撮影の後でも例のマジックを見せてもらった。何度見ても凄い。
ギャラリーのニエプスが外から目立たないので、A4で20枚を張り合わせたプリントを作る。縦横1メートルの巨大サイズ。外に面したガラスに貼るためだ。近くに来た方は上を見上げてもらえば場所が分かるはずです。

玄米食復活

朝=あんかけ玄米パスタ/昼=新玉のホットサンド/夜=玄米カレー、夏野菜のソテー、ワカメと胡瓜とササミのサラダ

7月は白米食が多くて、玄米離れしていた。一度白米を食べると美味しすぎて戻れない。でも玄米の方が胃腸は確実にいい。なので八戸行きまでは玄米にして体調を万全にすることにした。夜になっても暑くて溶けてしまいそうだ。日中に外に出る気もしない。休養日と諦めてずっと家にいた。今週は木曜日に鈴木心さんの事務所からYoutube配信をするくらい。いったいどんな話になるんだろう。8月4日の20時から。

YouTubeだと話が早い。対談やインタビューがあっという間に決まる。「2B Channnel」は9月で3年目になる。きっかけはYoutubeが雑誌に代わるメディアになるんじゃないかと思ったから。始めた時は、3年後にはもっと盛り上がると思っていたんだけどな。確かに僕自身はYoutubeをやるようになってからは、それに追われる生活になったけど、1年くらいはほとんど見返りもなかった。でも僕にはSNSよりも性に合っていたようだ。

 

<2014年8月2日の日記から>

小豆島へ。昨年の夏以来だ。ちょうどよく小豆島での撮影の仕事があった。スタッフは木曜日入りだったのだが、僕は前乗りして火曜日に東京を出た。四国高松に、できたばかりの知り合いの宿があり泊まってみたかったのだ。「ちょっとこま」という少し変わった名前のゲストハウス(現在は休業中)。旅館じゃなくてホテルじゃなくてゲストハウス。一泊素泊まり2500円。ただし個室じゃなくて二段ベットのドミトリースタイル(個室もあるが)。満員でも10名。

昨年オープン以来泊まる人の多くが外国人だそうだ。しかも女性が多い。今回も3人の海外からの女性が泊まっていた。個室がないからリビングというか広間に皆集まってくる。夜に地酒をもらって飲んでいると隣に座ったオーストラリアから来た女性となんとなく話が始まった。彼女はアーティストで彫刻やペインティングをやっていて創作ノートを見せてくれたり僕の写真をiPadで見せたりして時間を過ごした。オーナーは世界中を旅したバックパッカーで、行ったことのない場所はないんじゃないかというくらい。だからどういうゲストハウスが一番いいかよく知っている。ご飯もいらないし、清潔なベットで寝るだけのスペースがあればいい。風呂はシャワーがあれば十分。その地域の情報が仕入れることができて何より値段が安い。日本にもこういうゲストハウスが増えてきてるそうだ。安く、楽しく旅をするならホテルや旅館よりいいと思えてくる。小豆島では有機野菜農園がやっている宿「コスモイン」に泊まった。昨年泊まって料理がおいしかったので再訪。夕焼けを久しぶりに見た気がする。畑の中を散歩しながらローライで撮る。結局4日で10本。仕事をしながらだからペースとしては1日5本。いつものとおりだ。でもなんとなく撮れている気がする。まあこれはいつものことだけどね。帰り道、現像を堀内カラーに出した。水曜日の仕上がりだ。

 

掌をひらひら

昼=秋田ラーメン/夜=新玉ねぎのダシ煮、ピーマンと豚肉の炒め、水キムチ、白米、シジミの味噌汁

週末の金土日と秋田。リコーのイベント「GRmeet47」に呼んでもらった。「47」ってどういう意味かと思っていたら、なんと47都道府県をすべて回るという壮大なイベントだった。毎月1回としても4年かかることになる。これまでに6県で行われていて、今回は秋田。東北では一番最初の県。

普通、この手のイベントで地方を回るというと、札幌、名古屋、大阪、福岡くらいのもので、東北だと仙台というのが定番。果たして秋田でGRのイベントをやって人が集まってくれるのかちょっと心配だった。でも多くの人が暑い中来てくれた。通常は一緒に歩いてスナップをしてそれを後で講評するというものだが、今回は「僕が全員のポートレートをGR3Xで撮ります。そしてそれをプリントして皆さんに持って帰ってもらいましょう」という提案をした。そうすれば参加者全員と言葉を交わせるし、撮影されることで撮影のポイントも伝えられる。これはどこでやっても大好評で鉄板の持ちネタになっている。

前日にロケハンをしてポートレートにピッタリな場所を探しておいて、当日順番に撮影していった。1時間半、すっとポートレート撮影。それもただ撮るんじゃなくて、なぜこの場所が適しているのかをひとりひとりに説明していく。そして撮ったものをその場で見せると歓声が上がるので、ちょっと気持ちいい(笑)。

「掌をひらひらさせて光を探す」は2B Channnelでも説明していることなのだけど、実際に現場を見てもらうと例外なく驚いてもらえる。講評会では、2年前にコロナで中止になった「GRシアター」というイベントのために作った僕の作品を、プロジェクターの大画面で見てもらう。ひさしぶりに自分でも見た。そろそろ2B Channnelにアップしようかな。

 

<2013年8月1日の日記から>

夏は好きだが今年はなんかだるい。食欲はあるのにやる気がでないから結果的に太った。就活中の娘はようやくひと段落して、いくつかもらった内定からひとつに決めたようだ。はたから見れば大変そうな仕事だが本人は初志貫徹、希望の職種なのだから頑張れるだろう。春から社会人か。

自分が社会に出たのは1984年だから今年で30年目。あらためて30年というと驚くな。写真の学校を出ても一般の企業にはまったく縁がなかった。学内に張り出された求人表がほんのわずかで途方にくれた覚えがある。当時の花形職種はなんといっても広告カメラマンで、成績のいい順に大手の広告制作会社に入社していった。糸井重里をはじめとするコピーライターという職業が注目され「1行書いて100万円」と言われていた、まさに広告の時代だ。広告が社会を変えることができると信じられていた。作家の林真理子も日大芸術学部卒業のコピーライターだったのだ。最大手の新聞社の内定を蹴って広告制作会社を選んだ同級生さえいたくらいだ。広告カメラマンというのはスタジオワークが主になる。企業に入社しても修行に近いスタジオアシスタントを3年間、そこからアシスタントフォトグラファーになり、小さな仕事をこなし、5年目くらいでメインフォトグラファーになるのが一般的だった。企業のカメラマンというのはかなり狭き門だから、そこに入れなければ貸しスタジオで働き、2〜3年の経験を積んでフリーのカメラマンのアシスタントを3年から5年ほどやったのち、フリーカメラマンになるのがひとつのルートのようなものだった。NHKのBSを見ていたら、まさに1981年に放送された糸井重里が司会の「YOU」という番組で「明日を目指すカメラマンの卵」というのを再放送していた。30年前の糸井さんはまだ若者だ。篠山紀信がゲストで、多くのカメラマン志望の若者が集まって番組は進む。過酷なスタジオマンの仕事ぶりが映像で流れ、夢と現実のギャップが浮き彫りになる。怒鳴られても殴られても、そこを乗り越えないと明日はないと彼らは信じている。頑張ればなんとかなると思えたのだから、いい時代だったんだろう。

しばらく見ていたら、何か番組進行に見覚えがある。そうだ当時オンタイムで見ていたのだ。この番組には同級生も数人出ていた。大学3年生の頃だ。そろそろ進路を決めなくてはいけない時期で、真剣に見ていたのを思い出した。僕は学生時代にスタジオマンとフリーカメラマンのアシスタントを経験したが、どちらもすぐに逃げ出した。スタジオアシスタントとして、仕事がきつくても頑張る彼らに大きなコンプレックスをいただいていた。あれから30年、あのスタジオにいた若者は今どうしているんだろう。カメラマンにはなれたのだろうか。おそらくほとんどがカメラマンにはなれたはずだ。そんな時代だったし。番組に出ていた同級生は皆カメラマンとして生きている。カメラマンにはなれるけど、それでずっと生きていくのはとても難しい。若い人に「カメラマンになりたい」と相談されても「やめたほうがいいよ」と意地悪なことしか言わない。それでもなってしまう人じゃないと続かないからだ。もう一度20歳にもどれたら今度はどう生きるかよく夢想する。でも結果はいつも一緒。写真で生きてきた経験しかないからそれ以上のことは想像できないのだ(笑)

「ぽんちゃんラーメン」

朝=ゆで卵/昼=特盛カルビ定食にタン塩/夜=さんまの炊き込みごはん雑炊、豆腐ときゅうりのサラダ、こんにゃくのごま炒め、インスタントラーメン

夏休みっぽく、昼間から焼き肉を食べて、夜はB級グルメ好きから送ってもらった「ぽんちゃんラーメン」を食べる。朝からゴロゴロしていたが、夜は7月最後のライブ配信。今まで「2B Channnel」に寄せられていたコメントに答えていった。美術史の講座でも毎週2回配信の時に質問に答え、「2B Channnel」のライブ配信でも振られたコメントに答えていく。これをずっと続けていったことで、どんな話にも即答できるようになった。ほぼ考えずに答えているので正解ではないが、周辺の事実から仮説を立てるのができるようになった。「これはこうです」とは言わない。「これと、これのことから考えると、こうなのかもしれない」という感じ。学生時代は言葉にするのが苦手だったんだけど。8月はライブ配信も3週間くらいお休みの予定。29日の金曜日からは秋田でワークショップだ。

 

<2010年10月28日の日記から>

国内の推薦者としてお願いしている方から推薦文をいただく。今回はあちこちにお願いばかりしている。応募書類には一通り必要事項を記入してみた。研修目的と研修方法は「アメリカにおける写真ワークショップ文化の調査、研究」を軸にした。アメリカではアンセル・アダムスやダイアン・アーバスをはじめ、写真家が写真を伝えるワークショップが古くから存在する。現在アメリカでは各自治体や大学、写真フェスティバルで多種多彩なワークショップが開かれ、著名な写真家も自らのワークショップを開いている。僕がワークショップを続けていて気がついたのは、ワークショップは写真家を育てるというよりも、写真を見る側を育てているのではないかということだ。アートを鑑賞するには知識と経験が要求される。「自分が感じたまま」で見ることは基本だろうが、より深く楽しむためには作品の背景を知る必要がある。なぜそれが生まれたかを知ることはアートを見る楽しみのひとつだ。ステージに上がる人は必要だが、それと同時にステージを観客席から見る人も必要だ。アメリカのワークショップはそれを担っていると考えられる。アメリカの写真文化を支えているワークショップがどのように生まれ、発展し、今後どのような方向に向かうのかを調べるのが留学の目的だ。アメリカは東の文化と西の文化がある。その両方を体験したい。そしてそれに伴う移動は自らのテーマ「traverese」に通じることになる。

昨年の「売りましょ買いましょ3000円展」で作品を購入した小山浩司さんの 写真展「遊牧家族」が小川町オリンパスギャラリーでやっている。中国四川省のはずれに住むチベット族の遊牧民一家を記録したものだ。遊牧民ということでモンゴルと似ている。彼の撮るチベットの写真は3000円展で一番目を引いた。結局彼が3000円展のグランプリだったようだ。その彼の個展とあってとても楽しみだった。3000円で買ったのは作品ではなくて作家の将来なのだ。2008年に3000円展で買ったのがまだ無名のころの大和田良、池谷友秀、PhotographerHAL。なので翌年の会場では「渡部が買った若手写真家は成功する」という伝説が生まれた(笑)小山浩司もちゃんと買っていたのでちょっと自慢である。

「すべての始まりは福引から」

朝=明太茶漬け、おにぎり/夜=肉じゃがもどき、味噌漬け鶏胸肉炒め、サンマの炊き込みご飯、わかめの味噌汁

ひさしぶりに「2B Channnel」の写真家インタビュー。お相手は田中ヒロさん。今年初めにヒロさんの写真展を見て、その写真のかっこよさに驚き写真集を購入。本人がいたので話をしたら「写真界のわらしべ長者伝説」そのもので面白いのなんの。

ショッピングモールの福引で拾ったレシートを集めて福引を回したら、見事特賞のフィジー旅行が当たる。でもフィジー島に何の興味もない。そのチケットを友人がアメリカ行きのチケットと交換してくれる。念願のパンクバンドのライブを見るためにアメリカに。そこでメンバーと意気投合。そのままツアーにくっついていくことに。でも英語が喋れないからポツンとしていたらメンバーの一人が「ひまなら写真撮ってよ」とカメラをくれる。初めて触るカメラに戸惑いながらも段々と写真の面白さに惹かれて言って、その後もアメリカと日本を往復する生活に。

撮り溜めた写真を写真集にしようとバンドメンバーやレーベルが動いてくれて、初の写真集を出版。アメリカやヨーロッパツアーに帯同している中で、撮影した写真をまとめたダミーブックが、アルルとイタリアのダミーブックアワードを受賞して写真集が2社から出版。その後もその写真集がきっかけで各地のレジデンスや写真展を開催。現在日本でも売れっ子写真家として活躍している。

「すべての始まりは福引から」なのだが、人生は全部つながっているというの見せてくれる。衝動から始まって、その衝動が次々といろんな人を巻き込んで大きくなっていく。動画では写真をふんだんに紹介しながら田中ヒロを紹介しています。本日アップ予定。

 

<2005年7月25日の日記か>

スタービルの大家さんのお許しを得て、2Bと隣の2Cとつなぐ壁を取り払った。あまりの開放感にしばし唖然。いままで使っていた2Bがとてもせまく感じる。液晶プロジェクターがあれば、パソコンをつないだり、デジカメで撮ったものをそのまま映せるので便利だなと考えていた。いまは15型の液晶テレビを使っているのだが、小さくて皆で見るのは不便なのだ。新品が10万円以下で売っていると聞いたので見に行ってきた。ところが10万円以下だと光量が足りず鮮明さにかけ、20万円以上の機種に比べ色もくすんでいる。悩んでいたら、店員が型落ち展示品ということでソニーの定価70万円の液晶プロジェクターを安くすると言ってきた。実際に点灯したのは2時間の新品同様品だ。映してみたらとてもキレイに見える。なにより明るい。これに決めることにした。早速2CでプロジェクターにミニコンポとDVDビデオプレーヤーを繋いだ。で、夜「スターウォーズ・エピソード2」を上映。2Cの白壁にドーンと映した。映画の出来はともかく、迫力はある。さすが「定価70万円ソニー製」小型で熱も出ず、ファンの音も小さい。これで、ゆったりとしたソファーがあれば言うことなしだ。でもなんか、ギャラリーとは違う方向だな。

夏休み気分

朝=イワシとキャベツのパスタ/夜=きゅうりとオクラと茗荷と帆立の和物、冷や奴、きんぴらごぼう、唐揚げ、白米

部屋の模様替え。対面ワークショップが終わったので、部屋のレイアウトを元の配信専用に戻した。

今週の金曜日に秋田入り。https://www.grblog.jp/article/18182/

リコーGRのイベント。日本各地をいろいろな写真家が回るそうで、僕は秋田担当。初日の金曜日はイオンラインライブで、土曜日がワークショップ。日曜日も会場に顔を出して交流会と盛りだくさん。こんな時期ですが、感染予防をしながら、皆さまが楽しめるように考えています。秋田近郊の方は是非ご参加ください。週末のオンライン講座の配信も最終回を終えたので、気分は夏休み。秋田や八戸は仕事だけど、なんだか林間学校みたいな感じで楽しもうと思っている。

 

〈2013年7月26日の日記から〉

新国立美術館へグルスキー展。1枚の写真では史上最高値(2012年落札当時3億3千万円)の作家グルスキーの日本初個展ということで話題になっている。世界でもっとも有名な現代写真家のひとりだ。2001年MOMAの大規模な展示から日本でもグルスキーのことを耳にするようになり、僕は2006年東京国立近代美術館でのドイツ新興写真のグループ展で初めて目にした。今回の展示では最高額で落札された「ライン川」を見られるのかと期待していた。あるにはあったのだが、幅数十センチの小さなサイズでの展示でちょっと肩すかし。以前は8x10インチの大型カメラを使って撮影し、現像後にフィルムスキャンでデータを作り、加工後銀塩プリントしていると聞いていたが、現在では中版デジタルカメラを使っているそうだ。初めてグルスキーの写真を目にしたときは、まだデジタル写真という発想が自分の中になかったので、写真が持つコントラストと彩度の高さを不思議に思っていた。当時のアシスタントに「なんでこんなにピカピカしているんですか?」と聞かれて答えに窮した覚えがある。グルスキーは、最初期からデジタルを積極的に利用した写真家で、「ライン川」も対岸の建築物は後処理で消していると解説にあった。年代ごと、シリーズごとではなく、インスタレーションに近いランダムな構成になっている。なぜかほっとするのが2000年以前のデジタルを多用していない作品だった。予想通りのすごい展示だったが、不思議と感動はなかった。

その足で竹橋の国立近代美術館のプリントスタディへ。今回はエドワードウェストンの息子ブレッドウェストンの作品を見せてもらう。エドワードウエストンは写真の教科書の最重要ポジションを占めるくらいの大御所。次男エドワードは写真の才能を受け継いだようで、小学校を出るとそのまま父について撮影旅行を重ねていたそうだ。父と息子が同じカメラを使い、同じ場所でアングル違いで撮影しているものが残されている。インタビューを読むと父親をとても尊敬していて、お互いが理解者であり、父親はブレッドのことを「ブラザー」と呼んでいたとあった。ちょっと衝撃的だったのが「父はずっと貧乏で、僕はそれになれてしまった」ということが書いてあったこと。教科書に載るほどの作家がずっと貧乏だったというのだ。このプリントスタディというシステムは素晴らしい。額やガラス越しではなく、生のプリントを直に触れんばかりの距離で見ることができる。この生を見る体験は美術館で見る写真とまったく違うものだ。そういえばグルスキー展では床の線が引いてあるところより前に出ると警報音がピーピーなる、皆、細部を見たいからついつい近寄りたくなるのだ。

『Photographer’s Playbook』

朝=とろろそば、納豆/昼=ドライカレー/夜=香味園で台湾ごはん

対面ワークショップも、オンラインの写真史講座も終えて肩の荷が降りた感じ。最近、時間がある時に読んでいるのが、米国の書籍『Photographer’s Playbook』。多くの写真家に「写真家になるためには何をしたらいい」というインタビュー集だ。右ページにインタビュー、左ページに具体的に何を撮るかが書いてある。英語なので翻訳しながらなのだが面白い。誰一人として「個性やオリジナリティを出せ」とか言っていない。むしろ逆。自意識をどうやって抑え込んで撮影するかのノウハウが書いてある。

「車を走らせ、10分ごとに止めてそこの風景を撮る」「晴れても曇っても夜に月のある方向を撮る」「無地の背景を選んで見知らぬ人を撮る」とか。要するに自分の認識の外側にどうやってアクセスするのかということが延々と繰り返し書いてある。

そういえば、現在葉山の美術館でやっているアレック・ソスも、あらかじめ何を撮るかを言葉でリストアップしておいて、車を走れらせそれに合致したものを取るという制作を続けている。視覚情報の前に言語がある。これを日本でやっている写真家はおそらく極少数だろう。衝動で物事を捉えるか、言語化して対象を認識するかということだ。

 

<2006年7月25日の日記から>

銀鏡胴のテッサー45ミリの60周年モデルだけがずっと手元にあった。どうにかしようと思っていた矢先にハワイ行きの仕事が決まったので、コンタックスをメイン機材にしようと決めた。薄いテッサーのレンズに似合うのはやっぱりAriaしかない。新宿マップカメラに、程度がまあまあのものが5万円で出ていたので衝動買いしてしまった。レンズは1本でいいと思っていたのだが、もう1本気になるレンズがあった。ミロター500ミリF8だ。反射望遠タイプのものでミラーレンズと呼ばれている。鏡を使って光軸を折りたたむため、全長がコンパクトになる。ただし絞りはF8固定で、独特のリング状のボケがでる。ミラーレンズは30年前に一時流行ったものの、今では忘れられた存在だ。400ミリまでのズームが普通に売っているのにわざわざ使いづらいミラーレンズを使う必要性がない。でもそのコンパクトさに妙に魅かれる。中野のフジヤカメラで見つけたミロター500ミリ6万7千円也を前に考え込んでしまった。果たして使いではあるのか? ここ10年望遠レンズを使う機会はめっきりなくなってしまった。ハワイに持って行って何を撮るつもりだ?
悩んだあげく見送り。ミラーレンズなんてそうそう売れるもんじゃなし、欲しければまた来ればいいと思っていた。ところが気になって翌々日フジヤカメラに行ってみたら、ミロターは忽然と姿を消してしまっていた。唖然、ミラーレンズを欲しがる人が他にもいたとは。いったいなにを撮るつもりだ。なくなると欲しくなるというのが人情。新品が9万8千円で売っている。でもさすがにその値段は高すぎる。悶々としていたらアシFがこともなげに言う「中野の日東商事にタムロンの500が置いてありましたよ」。でかした!Fよ! ミラーレンズが欲しかったわけで、コンタックスのミロターが欲しかったわけではない。すぐさま日東商事に行って、きれいな状態のコンタックス用タムロン500ミリを1万6千円で買ってきた。
ハワイに500ミリは合っていた。45ミリで撮ったものと組み合わせても、なんの違和感もない。何より良かったのは発色で、コンタックスにまったく引けをとっていない。ミラーレンズは通常の望遠レンズよりも性能が高いと聞いていたがそれを実感してしまった。中古とはいえ。とても1万6千円の品物とは思えない。我ながらいい買い物であった。

最終回

朝=トマトリゾット/夜=青菜炒め、粗食

昼は対面ワークショップの最終回で、「コラージュ」を実際にやってもらった。出来上がったものはスキャナーでデータ化して、トートバックに印刷。紙以外にも印刷できるということを実感してもらう。コラージュは毎回楽しい。意外なものが出来上がる。

夜はオンライン講座で、こちらも写真編最終回。美術史と写真を合わせると全19回、5ヶ月にわたるロングラン講座だ。ご参加いただいた皆さん、本当にありがとうございました。2010年くらいから、ずっと現代写真について考えてきて、多くの人に話を聞いてきたことが、今になって仕事になっているのは不思議な感じ。最近は、どの分野の人と話していても、話が通じるというか、質問することができるようになった。質問って実は「わかっていることを聞く」のだ。そうすることで、自分のわかっていることをさらに深く知ることができるから。そもそも知らないことは、質問にもならない。来週からしばらくオンライン配信もお休み。秋田と八戸、2ヶ所でのワークショップに出かけたあと、8月は撮影中心に動きたいと思っている。

 

<2015年7月24日の日記から>

欧米の写真において「センチメンタルとノスタルジア」は嫌われるということはわかった。なぜ個人の感情を前面に出したものが否定されるのか? 昨日ある写真雑誌の編集長と小一時間話しをする機会があった。「渡部さん、近頃の若い人が持ってくる写真っていうのが判をおしたように実家のお爺ちゃんやお婆ちゃんを撮ったものか、非常に個人的な身の回りの写真ばかりなんですよ。思い入れとかはよくわかるんですけど、こう感情的なものをずっと見せられ続けるとこっちがまいってしまって。多い時は1日4、5人と会うんだけど辛いですよ。そういう人たちって、その感情がいかに大事かって延々と説明してくるし。ドライな写真を見るとホッとしちゃって。なんか近頃の若者の歌聞いても、僕には歌詞が同じに聞こえてしまうのに似ていて。こういう写真は掲載を断るのが大変なんですよ。写真の否定がその人の人格の否定になっちゃうから」

これは以前オランダの教授に「なぜ論理的な写真をヨーロッパでは好み、感情的(センチメンタル)なものを嫌うのか」と質問した時の答えと符合する。彼の答えは「我々の文化では、個人の感情は全面的に尊重されなければならない。これは絶対なんだ。だから相手の感情が全面に出た写真を前に、我々は尊重はするが、肯定も否定もできない、何も話すことはできない。そんなのつまらないだろう?」

同じだ。感情的な写真はそれについて語り合う要素が少ない。同じ感情を有するものにはリンクするが、それ以外の人には話題にするきっかけすら与えない。写真はヨーロッパで生まれ、戦後はアメリカを中心に育ってきた。それを主流とするなら、日本は長い間独自に進化してきたところがある。ガラパゴス化だ。歴史もあり、膨大な写真作品が作られ続けているが、欧米とはまったく違う理論で語られてきた。同じ写真とはいえ、まったく日本と欧米では違う意識、考えで進んできた。どっちがいいとか、正しいとかではなく、違うのだ。

今年のアルルの公式展示の第一会場は、日本人8人(細江英公、深瀬昌久、内藤正敏、森山大道、須田一政、猪瀬光、野村佐紀子、横田大輔)によるグループ展だった。キュレーションはロンドンテートモダンのディレクターであるサイモン・ベーカー。この展示のタイトルが欧米から見た日本の写真を端的に表していた。

「Another Language」(別の言語)

これは否定的に使われているわけではなく、日本の写真の大きな特徴である「革新的で多様」を表している言葉だと書かれている。従来1970年代に作られたものが大きく取り上げられることが多かったが、今回はもっと幅広くといったところだ。8人の展示作品は全て「銀塩モノクロ」。アルル全体の展示で国としてグループで取り上げられていたのは日本だけ。おそらくだが、個人で展示をしても理解が難しいのかもしれない。なにせ「別の言葉」を話しているから。現在は「多様性」を軸に日本写真の在り方を知らせている時期だろうし、そういった動きは随所で感じられる。僕がレビューを受けたときに言われたのが「日本人っていうとモノクロだよねえ。プリントが丁寧だし品質は一級品が多い。この影。影がいい」。実は「影はセンチメンタルだからダメ」というまったく別の言われ方をされていた。欧米写真の進化は感情を排し、論理的に物事を構築する流れになってきた。しかしその先にあるものに対し、行き詰まりを感じている面も見える。欧米でポートフォリオレビューをすると、ある一定の枠に収まったものしか出てこないと、前出のオランダの教授が言っていた。彼が日本写真を取り上げる理由はやはりその多様性にあるという。多様性にこそ可能性があるというのだ。独自に進化してきた日本写真はガラパゴス化によりまったく違う言語を話すようになってきた。近頃は海外で勉強する若い人も増えて、国際語を理解する人も増えてきている。それがまた新たな多様性を生んでいる。

「写真はセンチメンタルであってはならい」と彼らは言う。これは写真の進化からから考えるとまっとうなことだと分かった。でもセンチメンタルな部分に対し憧憬を抱いているのも事実。「影がいいよね」と目を細めたレビュワーは「僕らの世界ではできないけど、君ら日本人ならやれるんじゃない」と言っているような気がするのだ。この際なので僕はノスタルジアをもう少し深く考えてみようと思う。どんなときに感じて、どのような写真にそれを思うのか。手法は? 手段は? 状況は? 影ひとつとってもその入り方は? サンタフェで気がついて、アルルでより深まった気がする。

「犬をつなげ」

朝=まぐろ漬け茶漬け/昼=ホットドック/夜=レタス豚しゃぶ

雑誌社から、以前僕がモンゴルで撮った、青いピンホールの写真を10ページの特集で使いたいと連絡があった。旅に出られない時代だから「旅写真特集」なんだそうだ。

データをアップしようとしたら、ファイルを入れてあるHDDの電源が見つからずちょっと焦る。クラウドに上げていたものは少々サイズが小さいのだ。そこで、3台あるMacbbokProを探したら奇跡的に一番古いMacにTIFFファイルが残っていた。ZERO2000というピンホールカメラに、タングステン光用のフィルムを使っているので、青が強く出てくるのだが、モンゴルだとむしろその方が自然に見える。写真につける2000字のテキストを一気に書き上げた。タイトルは「犬をつなげ」。

僕は2005年、2006年、2010年と3回モンゴルに行っている。考えもつかないような面白いことが毎回おきた。これまで行った国で一番印象に残っている。お世話になったゲルの人たちは今どうしているだろう。隣の家が20キロも離れているような暮らしだから、もしかして何も変わってないかもしれない。一方で羊飼いをやめて都会で暮らしているのかもしれない。原稿を書きながら、次に海外に行けるのはいつだろうなと考えてしまう。行くならアジアだな。早く落ち着いてくれないかな。

 

<2008年7月23日の日記から>

映画「クライマーズハイ」を観た。あの事故現場に行った僕は、観る前から怖かった。冒頭から30分は心臓がドキドキとなって落ち着かず、脚を何度も何度も組み替えた。

この映画は日航機墜落を題材にしているが、内容は地方新聞社デスクの苦悩だ。僕自身、3年しかいなかったのに、もう20年以上前の話なのに、その細部が手に取るように分かる。編集と販売のせめぎ合いで、15分、たった15分下版を遅らせただけで販売が血相をかかえて怒鳴り込んでくるシーンは懐かしいとさえ感じてしまった。そしてあの記者のデスクに対する物言いは現場の雰囲気そのもので、あの当時、自分も新米ペーペーのくせに上に食ってかかったことを思い出した。事故現場に登った記者が無線を導入してくれと懇願するくだりは、まさしく自分が現場でデスクに何度も電話で訴えたことだった。当時はまだ携帯電話がない。かろうじて自動車電話があったが、超高級品で手に入れるのは難しかった。たった24年前の話だ。携帯があれば何の苦労もないことを走り回って連絡を取ろうとしていた。そして電話がない場所では、すべて自己判断を求められる。「どうしたらいいですか?」とお伺いをたてることはできないのだ。今、目の前にあることを自分で判断しなければならない。たとえそれが新人であっても現場に頼れる人はだれもいない。周りにいるのはライバルだけなのだ。もしあの事故がなければ、僕はおそらくもう少し新聞社に留まっていただろう。そしたら新聞社の面白さが分かっていたかもしれない。そんなことずっとありえないと思っていたが「クライマーズハイ」を観て気持ちが動いた。
でもないだろうな。あの人たちは新聞が大好きなのだ。元旦にしか休まないという人までいた。家に帰るのは毎日下版が終わる11時30分。家に着く頃には日付が変わっている。それでも次の日は早朝から取材がまっている。それでも面白いと感じる人がたくさんいる。そんな世界だ。実はいまだに新聞社の夢を見てうなされる。PTSDのようなものだ。刺激的で面白くて辛い日々だった。

『世界劇場』

川田喜久治の展示「ロスカプリチョス」をPGIに見に行った。不思議なタイトルだなと思っていたら、それはスペインの画家ゴヤの版画集から影響を受けてのものだった。晩年の黒のシリーズもそうだが、ゴヤの版画も怖い。見てはいけないものを描いているのだけど、やっぱり見たいというか。「呪われた眼」を感じさせる。

川田さんの新作写真集を買おうとブックショップのほうに行ったら、1998年に私家版で作られた『世界劇場』が新品で置いてあった。中身を見てしまったらどうにも後にひけなくなって購入してしまった。値段はとても言えないw 中古ならもっと安く手に入るだろうが、ここで買わないと縁がないと思ってしまったのだ。僕が持っている写真集の中では特別なものになった。いまは「2BChannnel」で得た収益はすべて写真集につぎ込もうと決めている。出会ってしまった写真集は手に入れる。それを読み込んで紹介するのを続けていこうと思っている。

来週からは「2BChannnel」で写真家のインタビューが続く。ソニーα7Ⅳと55mmf1.81本でやってみようかな。

 


<2008年7月22日の日記から>

ワークショップでは不定期で写真家のビューイングを行っている。ここでいうビューイングとは作品を前に、作家自身に来ていただき、作品を説明してもらうことにある。
先月は平間至さん、先週は北井一夫さんにお願いした。

平間さんには今年5月、塩竈のフォトフェスティバルで初めてお会いした際にビューイングをお願いしていた。平間さんには田中泯「場踊り」のシリーズの大全紙作品を40点以上見せてもらえた。ライカで撮る理由やプリントの黒について、そして撮影のエピソードを作品を前に聞いていく。一見ただの黒に見えるイルフォードに焼かれたプリントのトーンは、しかるべきライティングの元で見ると何層にも折り重なっているのがわかる。普段「イルフォードの印画紙は黒が締まりづらい」などともっともらしいことを言っていたが、この作品を見て認識を新たにした。黒い、しかも深い。あらかた作品を見たところで撮影シーンをムービーにしたメイキングビデオを大型プロジェクターで見る。どのようなアプローチで田中泯に迫るのか興味深い。お互い無言のまま、普通の撮影のテンションとは明らかに違うであろうということが画面から伝わってくる。ご本人は撮影中のことをほとんど覚えていないそうだ。現像が上がって初めて知るカットばかりだったと言う。その後もう一度プリントを見直すと、もっともっと面白く見えてくる。ビューイングの楽しさはこういうところにある。ゆっくりと静かに語る平間氏の口調からは、どこからあのアグレッシブな写真が生まれてくるのか不思議な感じだった。青い炎という言葉を思い出した。

一方、北井さんのビューイングはあの静謐な写真からこれまた想像もできないようなテンポの良い口調だった。しばしば脱線しながら2時間半ずっと話は続く。ビューイングというよりトークショーのようだった。北井さんは「歩く昭和写真史」だと常々思っている。30年前、僕が写真を始めた高校生のころ北井さんは第1回木村伊平衛賞を受賞したばかりの大スターだったのだ。始めて手に入れたライカは出版社の経費で買ったものだと教えてくれた。凄い時代だ。北井さんは20歳の時に日芸在学中でありながら自費で写真集を出している。『抵抗』と題された学生運動を撮った写真は、ネガに派手な傷が入り、フィルムの劣化によるムラがあったり、ザラザラのハードトーンで何が写っているのかさえ分からないものがある。
やってはいけないとされた見本のような写真ばかりだ。当時はまったく無視されたというが、森山大道より数年前に「アレ、ブレ、ボケ」を形にしていたのだ。そして40年後そのシリーズはいま海外で大注目を浴び、大きな話が具体的な形になるようだ。そして『抵抗』から『三里塚』とつながり『村へ』。そして今回冬青で展示している「ドイツ表現派」へと繋がる。系列で見て、話を聞いていくと、なぜそうなったか腑に落ちてくる。ビューイングの面白さのひとつに時系列での作品鑑賞がある。その作品の生まれた前後を見ることで理解できることが多い。これは大がかりな回顧展以外、普通の写真展にはないことだ。しかもご本人の説明付き。疑問に思ったことはその場で質問できる。『ロッキングオン』の渋谷陽一氏は「100回の飲みより一度のインタビュー」と言っているがビューイングはそれに近い行為かもしれない。

月末は秋田からの八戸

2週間も日記を書くのをやめてしまったら、再開のきっかけがなかなか見つからなくなってしまった。web日記というのは人に読んでもらうことが前提の個人的な話なので、あらためて書こうとすると何を書いていいのかわからなくなってしまって。でもこのまま終わってしまうのもなんなので、とりあえず再スタートします。

とはいえ、大したことはやっておらず、今週は月曜日に新宿の北村写真機店2周年トークイベントに呼んでもらって、水曜日は2B Channnelライブをやって、金曜日はちょっと緊張する人と会食予定。そして週末は「写真史」講座の配信と対面ワークショップ。どちらも今週で最終回。そして、今月末の7月30日に秋田でリコー主催のワークショップに参加します。https://www.grblog.jp/article/18182/

秋田に行くのは久しぶり。『da.gasita』や『prana』を撮っていた時は、冬の秋田に行っていたけど夏は久しぶりだ。今回は秋田のギャラリーをお借りしてのイベント。プリントの展示もできるとよかったんだけどね。プロジェクターで写真を投影することにしました。秋田近郊の方は是非。翌日の31日(日)もギャラリーに在廊しますのでお気軽にどうぞ。さて、そろそろPGIに川田喜久治を見に行く時間だ。外は暑そうだな。