掌をひらひら

昼=秋田ラーメン/夜=新玉ねぎのダシ煮、ピーマンと豚肉の炒め、水キムチ、白米、シジミの味噌汁

週末の金土日と秋田。リコーのイベント「GRmeet47」に呼んでもらった。「47」ってどういう意味かと思っていたら、なんと47都道府県をすべて回るという壮大なイベントだった。毎月1回としても4年かかることになる。これまでに6県で行われていて、今回は秋田。東北では一番最初の県。

普通、この手のイベントで地方を回るというと、札幌、名古屋、大阪、福岡くらいのもので、東北だと仙台というのが定番。果たして秋田でGRのイベントをやって人が集まってくれるのかちょっと心配だった。でも多くの人が暑い中来てくれた。通常は一緒に歩いてスナップをしてそれを後で講評するというものだが、今回は「僕が全員のポートレートをGR3Xで撮ります。そしてそれをプリントして皆さんに持って帰ってもらいましょう」という提案をした。そうすれば参加者全員と言葉を交わせるし、撮影されることで撮影のポイントも伝えられる。これはどこでやっても大好評で鉄板の持ちネタになっている。

前日にロケハンをしてポートレートにピッタリな場所を探しておいて、当日順番に撮影していった。1時間半、すっとポートレート撮影。それもただ撮るんじゃなくて、なぜこの場所が適しているのかをひとりひとりに説明していく。そして撮ったものをその場で見せると歓声が上がるので、ちょっと気持ちいい(笑)。

「掌をひらひらさせて光を探す」は2B Channnelでも説明していることなのだけど、実際に現場を見てもらうと例外なく驚いてもらえる。講評会では、2年前にコロナで中止になった「GRシアター」というイベントのために作った僕の作品を、プロジェクターの大画面で見てもらう。ひさしぶりに自分でも見た。そろそろ2B Channnelにアップしようかな。

 

<2013年8月1日の日記から>

夏は好きだが今年はなんかだるい。食欲はあるのにやる気がでないから結果的に太った。就活中の娘はようやくひと段落して、いくつかもらった内定からひとつに決めたようだ。はたから見れば大変そうな仕事だが本人は初志貫徹、希望の職種なのだから頑張れるだろう。春から社会人か。

自分が社会に出たのは1984年だから今年で30年目。あらためて30年というと驚くな。写真の学校を出ても一般の企業にはまったく縁がなかった。学内に張り出された求人表がほんのわずかで途方にくれた覚えがある。当時の花形職種はなんといっても広告カメラマンで、成績のいい順に大手の広告制作会社に入社していった。糸井重里をはじめとするコピーライターという職業が注目され「1行書いて100万円」と言われていた、まさに広告の時代だ。広告が社会を変えることができると信じられていた。作家の林真理子も日大芸術学部卒業のコピーライターだったのだ。最大手の新聞社の内定を蹴って広告制作会社を選んだ同級生さえいたくらいだ。広告カメラマンというのはスタジオワークが主になる。企業に入社しても修行に近いスタジオアシスタントを3年間、そこからアシスタントフォトグラファーになり、小さな仕事をこなし、5年目くらいでメインフォトグラファーになるのが一般的だった。企業のカメラマンというのはかなり狭き門だから、そこに入れなければ貸しスタジオで働き、2〜3年の経験を積んでフリーのカメラマンのアシスタントを3年から5年ほどやったのち、フリーカメラマンになるのがひとつのルートのようなものだった。NHKのBSを見ていたら、まさに1981年に放送された糸井重里が司会の「YOU」という番組で「明日を目指すカメラマンの卵」というのを再放送していた。30年前の糸井さんはまだ若者だ。篠山紀信がゲストで、多くのカメラマン志望の若者が集まって番組は進む。過酷なスタジオマンの仕事ぶりが映像で流れ、夢と現実のギャップが浮き彫りになる。怒鳴られても殴られても、そこを乗り越えないと明日はないと彼らは信じている。頑張ればなんとかなると思えたのだから、いい時代だったんだろう。

しばらく見ていたら、何か番組進行に見覚えがある。そうだ当時オンタイムで見ていたのだ。この番組には同級生も数人出ていた。大学3年生の頃だ。そろそろ進路を決めなくてはいけない時期で、真剣に見ていたのを思い出した。僕は学生時代にスタジオマンとフリーカメラマンのアシスタントを経験したが、どちらもすぐに逃げ出した。スタジオアシスタントとして、仕事がきつくても頑張る彼らに大きなコンプレックスをいただいていた。あれから30年、あのスタジオにいた若者は今どうしているんだろう。カメラマンにはなれたのだろうか。おそらくほとんどがカメラマンにはなれたはずだ。そんな時代だったし。番組に出ていた同級生は皆カメラマンとして生きている。カメラマンにはなれるけど、それでずっと生きていくのはとても難しい。若い人に「カメラマンになりたい」と相談されても「やめたほうがいいよ」と意地悪なことしか言わない。それでもなってしまう人じゃないと続かないからだ。もう一度20歳にもどれたら今度はどう生きるかよく夢想する。でも結果はいつも一緒。写真で生きてきた経験しかないからそれ以上のことは想像できないのだ(笑)