展示は6日から

朝=鶏肉の卵とじ、キャベツのお浸し、納豆、白米、味噌汁/夜=焼き餃子、煮物、白米、卵スープ

中野のギャラリー冬青で6日(金)から始まる僕の写真展の設営。5人がかりでやってもらったので、あっという間に終わった。作家なので写真の並びを決めなくてならないのだが、頭とお尻だけ決めて、箱から出した順番に並べていった。以前は事前に細かく決めていたけれど、最近は順番にこだわらなくなった。

今回の個展には、30年近く前にプリントしたものが並ぶ。どこにも展示したことがないと昨日書いたが、20年前の2002年に、神楽坂のアユミギャラリーで個展をやった際に、何枚か展示していた。その時は、毎日お天気がよくて、たくさんの人が来てくれた。それで、土曜日の夜にはパーティをしようと、いろいろ用意をしていたのに、やって来たのはたった2人だった。まだSNSがない頃で、DMにもパーティのことは記載しなかったのだ。「20人くらいくるといいね」と妻と言っていたのだが、2人(笑)。ワークショップも始めていなくて、『旅するカメラ』も出してなくて、告知ということを知らなかった頃。あの時のパーティのことを久しぶりに思い出した。通りがかりにギャラリーを覗いてくれた近所のおばちゃん数人も引き入れて、料理をお土産に持っていってもらったり、いま思えばそれなりに楽しい夜だった。 

 

<2008年5月3日の日記から>

例によって米沢へ。そして例によっていつもの宿へ。米沢は太平洋と日本海のちょうど真ん中に位置する。日本地図を見ると意外と新潟が近いのが分かる。妻が「日本海を見たい」と言い出し、朝から車を西へ走らせる。いくつも山を越え、米沢から2時間半で日本海へ出た。結構近い。カーナビを見ると「粟島行きフェリー乗り場」とある。島と聞くと行ってみたくなる。粟島まではフェリーで1時間半。甲板でゴザを引いて寝転がっているうちに着いた。ちょうど5月2日は島開きのイベントで市がたっていた。様々な魚やアワビ、サザエが売っている。買って帰りたいが、まだ東京へ戻らないし。焼いた石を入れて瞬間的に沸騰させて作る「ワッパ汁」が旨かった。器がグラグラと煮立っている。自転車を借りて展望台を目指す。きつい坂が続く。久しぶりに自分の身体を追い込んだ気がする。帰りの長い長い下り坂は爽快なことこのうえない。夏に泊りがけで来てみたい。今回はローライを持ってきた。ずっと35ミリモノクロでストイックになりすぎて辛くなってきたのでローライにはネガカラーを詰めた。カラーは楽しい。見るものが変わって世界が広がる思いだ。だったら全部ネガカラーにすればいいかというとモノクロの不自由さも捨てがたいのだ。

 

30年前のアジアの島

朝=けんちんうどん/おやつ=果物いろいろ/夜=キャベツのお浸し、蒸し鶏と香味野菜のレモングラス炒め、大葉とニンニクの玄米チャーハン、豆腐と三つ葉のお汁

6日(金)からの写真展は、アジアの南の島を8年間巡ったものだ。僕がアジアの島に行くきっかけになったのは、1987年にひと月近く滞在したバリ島が素晴らしかったから。それで結婚した1990年に新婚旅行として3週間滞在したのだけど、たった3年しかたってなかった島が随分と変わってしまった気がした。その後、もしかしたら最初に行ったバリ島みたいな場所が、アジアのどこかにあるんじゃないかと思って、タイ、フィリピン、マレーシア、インドネシア、沖縄などに何度も足を運んだ。でも昔のバリ島のようなところなんてどこにもなくて、僕はただの幻想を追い求めていたようなものだった。安宿で外人のバックパッカーが同じことを言っていて、南の島をふらふらしている多くが昔のバリ島を探しているんだと分かった。

当時、島旅を続けていたときは、写真で作品を作るなんて大それたことは全く考えてなくて、ローライフレックス1台とモノクロフィルム20本だけしか持って行ってない。いま思えばいろいろ撮っておけばいいのに、いつも最初の3日間くらいはカメラを出すこともしないくらいだった。モノクロフィルムだったのは、単純にカラーフィルムを持っていくと、何か雑誌に使ってもらおうと邪な考えが出てくるので、誰も興味がない、発表の機会がないモノクロの南の島を撮ろうと思ったのだ。

そんな写真を初めて展示することになった。雑誌には何点か出しているし、写真集にもなっているが、展示はほとんどしたことがない。30年目のお披露目となる。

 

<2014年5月2日の日記から>

目の手術からもう一ヶ月。徐々によくなっている、といいたいところだが三歩進んで二歩下がるといったところ。まだ目は赤いまま。両目で見るとクラクラするので片目をつぶる癖がついてしまった。時間がたつと、注入してあるオイルが体液と混じりドレッシングのように白くなると説明を受けている。しかし、ある朝起きると右目の視界が真っ白になっていて何も見えなくなっていた。これにはかなり動揺した。どうやら寝ている間にオイルが固まったせいのようだ。しばらくたつと段々オイルが溶けて見えるようになってくる。何か問題が起きた時、起こった当初は割と冷静で受け入れられるものだが、徐々に問題が解決されてくると辛くなってくる。10年前がそうだった。昔の日記を読み返すと、その時々の精神状態があからさまなので、問題解決のための道筋が見えてくる気がしている。だから今回も書いておこうと思った。近頃ろくな夢を見ない。今日も溺れる夢で目が覚めた。寝たのにもかかわらずグッタリと疲れている。起き抜けにiPadでネットを見ていたら「みうらじゅん名言集」というのが出てきた。こういう人に私はなりたい。

 

もう5月

朝=カリフラワーと香味野菜の玄米パスタ/夜=ドライカレー、ルッコラとリンゴとオリーブ等などのサラダ

「え、もう5月なの」という感じ。3月と4月はなにもしてなかったような。事務所部屋がどんどん快適になってきたせいで、外に出る気がしなくなったのもある。来る人が一様に驚くぐらい、部屋がスタジオになっている。配信のセッティングで遊んでいるだけで一日が終わってしまう。残念なのは一通り揃ってしまって、現時点では改善の余地が見つからないこと。何か足りないくらいのほうが人生に張りがあるというか。

5月は6日(金)から、中野のギャラリー冬青で写真展がある。月末までの3週間、ずっと会場にいます。そんな作家は世界中探しても珍しいはず。欧米だと、作家が会場にいることをギャラリー側が嫌がる。作家とそのギャラリーに付いているコレクターと親密になって欲しくないのだそうだ。ギャラリーを飛ばして営業されるのを防ぐためだと聞いた。ギャラリーと交わされる契約書の一文に、“作家が在廊できるのは2日だけ”というのもあるそうだ。ただしプレデーのパーティには絶対出なくてはならない。これは展示のお約束みたいなものだ。

今回の展示ではパーティは考えていないが、もしかすると、毎水曜日だけ、夜の9時まで開けてもらうかもしれない。これはここ数年、ずっと僕の展示のときにだけやってもらっている。仕事終わりに寄ってもらいたいからだ。海外のギャラリーだと週末は深夜までやっているところがけっこうあって、見る人はホッピングといって会場をはしごしながら見ていくことができる。5月は僕自身もいろいろ見たい展示があるけど、まずは自分の写真展に集中します。水曜日の件も含めてまたここで詳細をお知らせします。

 

<2019年5月1日の日記から>

新宿バスタ4Fから午前0時25分発のバスで新潟へ。早朝6時にバスが着くとスタバで時間をつぶし、8時40分に米沢行きの電車に乗る。この電車は米坂線と乗り入れている。先月も撮影に行ったのだが、再度春を撮りに乗り込んだ。これでほぼ材料は出揃ったが、梅雨の時期も撮りたくなってきた。書籍のほうも前書きと後書きを終えて、来週編集者に渡せば、あとは校正チェックくらい。ようやく手を離れる。昨年6月から始まっているから1年がたとうとしている。1年でようやく一冊。年に何冊も出している作家の頭はどうなっているんだろう。米沢市には上杉謙信の博物館がある。そこでは織田信長から謙信公に送られた「洛中洛外図屏風」をたまに見ることが出来る。国宝中の国宝と言っていいくらいのものだそうだ。米沢市の財政がいよいよ苦しくなったら売ったりできるんだろうか? 無理だよなあ。この屏風絵は、小さい頃から何度か見たことがあるのだが、「ふーん」くらいの感想しかなかった。ところが今回新たに見ると、面白さに気がついてしまった。この屏風絵には京都の市中と郊外の庶民の暮らしが細かいタッチで描かれている。シーンごとにドラマが描かれていて、四季折々の風景が見える構成になっているから見ていてあきない。そして画面の中に「陰影、画面の中心点、遠近感」が見事にない。これはいま執筆している本の中で何度も触れている現代アートのロジックだ。そして高解像度で情報量が多く、空が描かれていないのは現代風景写真と同じ。この屏風が制作されたのは1574年。千利休の「佗茶」が最新の現代アートにつながるという話も、僕が今回出す本の中で書いているが、「洛中洛外図屏風」もまた現代に通用する考え方で制作されている。そんなことに気がつけるだけで、見ることがより楽しめるようになった。

 

「本当に大事なもの」

朝=大根おろしと蒸し鶏のうどん、ゆで卵/おやつ=たこ焼き/夜=温野菜いろいろ、チーズとトマトと胡瓜のサラダ、フルーツサラダ、鹿ミンチと豆のカレー

水曜日の2BChannelライブに出てもらった本田さんの展示を見るために有楽町のエプサイトギャラリーへ。A1からB0のビックサイズプリント。フィルムで撮影したものをエプソンのフラッドベッドスキャナーで読み込んで、さらにフォトショップで画像を4倍にしているそうだ。高画素デジタルカメラの出力とはまるで違う。写っているのは本田さんと奥さんとの普通の暮らし。なのになぜ魅力的か、なぜグランプリを取れたのかというと、すべてはキャプションに隠されていると思う。

 

あるとき喧嘩をして、仲直りをしたあと、彼女は僕に言いました「あなたはまだ、本当に大事なものを失ったことがないのよ」

 

夜、本田夫妻と八戸のワークショップでお世話になっているご夫婦を家にお招きして初個展のお祝い。

 

<2015年4月30日の日記から>

快晴。GW中なのだが、すでに米沢に行ってきてしまったので、いまは東京にいる。腹が減って起きる。一人で外に出してあるテーブルに座る。その前に、冷蔵庫には何にもなさそうなのでラフランスのコンニャクゼリーをヨーグルトと合わせてハンドミキサーにかける。するとスムージーのようなものができあがる。これがおいしい。夜に炭水化物を少なめにすると腹持ちが悪いから、自然と朝が早くなる。血圧とか血糖値とかの話題が多くなる年頃だからね。ちょっと考えないとね。やれやれ。でも好きなものを好きなだけっていう訳にはいかないけど、そもそも好きなものが変わってきた。舌が美味しいと感じるものより、近頃は腸がいい感じになるものがよくなった。野菜とかヨーグルトとかコンニャクに反応するのもそのせいだ。安上がりでいい(笑)。昔はそういうやつを笑ってたんだけどなあ。仕方ないな。あと20年は働かないといけないし。細く長く引張らないと。

 

赤い壁

朝=玄米のトマトリゾット/昼=調布の醤油ラーメン/夜=エノキと胡瓜の胡麻和え、大根とベーコンと油揚げの煮物、インドネシア風の野菜炒め、玄米

自宅の2階の仕事部屋、ちょっと前まではワークショップで使っていたけど、コロナ禍になってからここ2年余りは配信専用になってしまった。最近、本棚の位置を変えたことで、大きな壁面ができたので、ペンキを塗ることにした。用意した色は深みのある「グリーン」、BLACK多めの落ち着いた「赤」、それに「オフホワイト」。壁の一面は思い切って赤に塗ってみた。が、なんとも赤、白、グリーンの壁ができてフランス国旗、いやイタリア国旗みたいになってしまった。ちょっと攻め過ぎたかな。赤い壁は浅草寺の鬼海弘雄壁にも、バーネット・ニューマンの絵画「アンナの光」にも見える。壁の前でモノクロポートレートを撮るといい感じになるはず。

 

<2005年4月29日の日記から>

炎天下と言っていいほどの晴天。この暑さのなかモデルは革ジャンを着ての撮影だった。久しぶりにシノゴで撮った。表紙の撮影だったため、大きなサイズのポラが役に立つ。モデルや編集者にイメージが伝わりやすいからだ。デジカメのモニターは屋外では役にたたない。それにシノゴは撮っていても気持ちがいい。EOS1Dsも用意してあったのだが、操作が理解しきれず、結局使わずじまいだった。東京に戻った後にメイキングモノクローム終了展の打ち合わせでルーニィへ。南の島3点を出すつもりだったが、米沢のシリーズのほうがいい、という意見があり、結局米沢4点を出すことにした。額装したものを見ると結構いい。販売値段を六つ切り1点3万円に設定する。打ち合わせが終わり、ふとギャラリーの棚を見ると、変な箱が置いてある。ピンホールカメラだった。チーク材を使った丁寧な作りで、各種フォーマットサイズがある。その中でロクロクのサイズが気に入った。ピンホールの直径は0.2ミリ、焦点距離は25ミリだ。ハッセルのSWCより超ワイド。お値段16800円。早速購入。これでモンゴルの青い空を撮るのだ。

 

「遅れてきた新人」

朝=ホットサンド、トマトスープ/夜=小松菜とウィンナーのニンニク炒め、豚肉のキムチ炒め、玄米、卵スープ/夜食=いちごとアイス

4月28日から5月11日まで、有楽町にあるエプサイトギャラリーで本田光写真展「うきま」が開催される(11時〜17時/日曜日休館)。

それに合わせて、本田さんに2B Channnelライブに出てもらった。本田さんは、エプサイトギャラリーのアワードでグランプリを受賞しての展示になる。賞金30万円が出て様々なサポートが受けられる。以前、僕の日記やライブでも「エプサイトは狙い目」と話しているが、通常のアワードにありがちの、展示後に受賞を決めるというやり方ではなく、公募後に受賞が決まるのは、やる方からしてみれば本当にありがたいシステムだ。30万円の賞金は展示プランに大きな幅を持たせてくれる。「やりたい展示方法があるけどお金が」と言わなくて済む。

本田さんは55歳。初めての個展。前回のグランプリは20歳代の女性でキャリアを積んでいる作家だった。年齢とかキャリアとか関係なしに選んでいることがわかる。審査員は写真家の上田義彦さんとTIPの速水椎広さん。本人曰く「遅れてきた新人」を拾ってもらえる場所があるというのは大きい。

以前の日記で「55歳以上の新人賞を」と書いたのは、年齢や性別、国籍で排除されることがないのが理想だが、その前に今現在、年齢による排除があることを認識するために、一度年齢を引き上げた新人賞は必要だと思うのだ。女性写真家展というのも、それまでの男性優位だったシステムに対して疑問を投げかけている行為だと、僕は思っている。そういった排除がなくすためには、一度そのことについて考える時間が必要だ。年齢においても、遅れてきた新人にチャンスが与えられるというのは、今の写真界に必要だと思う。

 

<2004年4月28日の日記から>

台風並みの強風。ビニール傘がひしゃげ、しかたなくコンビニで360円の傘を買うが、ものの1分でホネがよじれてしまった。コダックフォトサロンで9月の写真展の打ち合わせ。だいたいの要領は分かっているので確認だけ。11年前にやった時とフォトサロンの場所は変わっているが、キュレーターの人は同じなので話が早い。コダックのオンラインフォトギャラリー用のデータを持って行ったのだが、ウィンドウズで作った写真データをマックで動作確認したら薄っぺらな画像になってしまった。モニターのガンマ値が違うためだ。モニター設定をマックの1.8からウィンドウズの2.2にしたら絵がしっかりしまっていい感じになった。特にモノクロ画像だったためガンマ値の違いが大きく出たようだ。結局ウィンドウズにあわせることにする。それにしてもその差は大きい。

銀座ニコンサロンで鬼海弘雄、土門拳賞受賞写真展「PERSONA」をやっていたので見に行く。オリジナルプリントの美しさに会場を何周もしてしまう。意を決して写真「PERSONA」を会場で購入。鬼海さんご本人がいたのでサインをいれてもらう。やっぱり「苦手なんだよね」と言っていた。「あなたの名前をいれましょうか?」といってくれたのでお願いする。芳名帳の「渡部さとる」というところを指差して「これです」とお願いした。が、しかし、定価9750円の豪華本には「渡辺とおる」としっかり書かれてしまった。おいおい、2つもチガウよ… 言おうかどうかちょっと悩んだが、まあこれも鬼海さんらしくていいかとそのままにした。その後、印刷の話しになり、「PERSONA」は黒に特色が2つ、最後にニスを引く4色刷りだというのが分かった。どうりで美しいはずだ。おそらく現在の出版では限界近くまでの印刷だろう。「浅草にはまだ通っていますか」と聞いたら「テレビ(昨年暮れの情熱大陸)で顔がばれたせいでやりにくくなっちゃった。しばらくほとぼりをさまそうと思って。テレビに出てもいいことは一つもないなあ。仕事もこないし」。冗談とも本音ともつかないことを言っていた。風雨の中、重い写真集をかかえて「2B」に戻る。箱から出して1枚1枚ゆっくりめくる。何度でも楽しめる写真集だ。最後のページに鬼海さん本人が出ていてもなんの不思議もない。そんな感じの人だった。

 

エプソンRD-1

朝=大根おろしうどん/夜=胡瓜と人参とセロリの和風サラダ、新玉とアスパラのオイル焼き、鮭の香草焼き、白米、豆腐とトマトお汁

我が家に来る人の大半がカメラを持参する。むしろカメラを見せるために来る人も多い。これはワークショップ時代からずっと変わっていない。今日のお客さんはエプソンRD-1という懐かしいカメラを持ってきた。最近使っているんだそうだ。2004年に発売された、600万画素APS-CサイズCCDセンサー。見た目よりずっしり重くて細部も丁寧に作ってある。当時25万円くらいしたような気がする。デジタルカメラなのに、レバーを巻き上げないとシャッターが切れない。撮影枚数やバッテリー残量のインジゲーターには時計の針が使われていて、カチカチと動くのが当時話題になった。完全な趣味カメラ。ライカレンズが使えるので人気があった。僕もしばらく借りて使っていたけど、操作も写りも面白かった。

2004年から2010年にかけてデジタルカメラは年々飛躍的に進化していき、新製品が次々と出て、それらがどんどん売れていた。コンパクトデジカメも飛ぶように売れて今の10倍の販売量があった。メーカーも元気で、それに合わせて雑誌もたくさん出てきた。『旅するカメラ』が最初に出たのが2003年で、2004年、2007年、2011年と計4冊出たが、それ以降は急速に業界が冷え込んでいく。逆に言えば、僕が40歳代の頃は面白い時代だったとも言える。

RD−1で撮った画像は意外といい。むしろ好みの色になっている。レンズを選べば面白いものが撮れそうな感じだ。アポズミクロンをつけて撮ったらどうなるんだろう。変な誘惑にかられてしまう。

 

<2010年4月27日の日記から>

最近気になっているカメラはライカX1。APS-C CMOSセンサーを搭載した高性能コンパクトカメラ。コンパクトデジカメなのに20万円!実際購入するにはかなりの金銭的抵抗があるが、どんなものだか使ってみたい。だいたい買おうと思っても、現在1年待ちとうわさされるカメラだ。銀座のライカショップでしか触れることはできない。こんなときワークショップ内で声をかけると誰かが持っている。なので気になるものはほとんど触ることができる(笑)ライカX1は別段興味がなかったのだが、ある写真家に「これ欲しいんだよね」とカタログを見せられてから考えが変わった。その場にいた全員がカタログに釘付け。カタログはハバナで撮られた写真で構成されているのだが、HDRをつかったんじゃないかというくらいシャドーからハイライトにかけてのトーン。車のルーフのハイライトと空のグラデーションが出ているにもかかわらず、日陰の建物の細部も確認できる。カメラのカタログは基本的に後処理はしないことがお約束となっている。もしX1のカタログもそうなら信じられない描写をするカメラということになる。知人がメーカーに問い合わせたら「何も処理はしていません」という回答だったそうだ。それ以来、気になってしょうがなかった。実際に撮影してみた色はというと、M8に似ている。特に赤の発色に特徴が出る。日本の看板やノボリには赤色が使われることが多い。特にパチンコ店や不動産広告に顕著だ。その赤が朱色に転ぶ。色が飽和したような朱色になるのだ。これはM8でもそうだった。直そうと思っても難しい。
あらためてカタログを見るとその色は画面上に使われていない。というより海外でその手の赤が外看板に使われることはないといっていい。これは日本独特の色で、海外の赤はもっとくすんでいる。アジアにもない日本独特の赤だ。ということは、海外の人にはその色に免疫がないのかもしれない。開発は日本の技術者だそうだが、ライカの色の考えにのっとっているのかな。モノクロモードにすると、かなり力を発揮するのはM8と同じ。コンパクトカメラでモノクロをやりたいのならおすすめ。日々の記録的なスナップにはどうかなといった印象。僕がデジタルカメラで好きなところは新製品が出ること(笑)これで何ができるのかを想像するのだ。

 

目覚めスッキリ

朝=肉豆腐、納豆、味噌汁、白米/夜=会食

3年越しのワイン会。5人で集まったのだが、久しぶりに飲んだ。駅から家まで千鳥足になって、リビングのソファーに突っ伏してしまった。でも翌日、お酒は体に全く残っていない。目覚めすっきりでびっくりした。ワインの話は何を書いても野暮になるので書かないけど、美味しかったというか盛り上がった。

 

<2017年4月26日の日記から>

そういえば昔々、外車のドアの閉まる音に憧れてたな。ワークショップの撮影実習でハッセルブラッドやライカを貸し出すと例外なく「シャッター音がいいですね」ということになる。ボシュッとお腹に響く音はテンションが上がる。テレビで流れるシャッター音は、いまだにフィルム時代の一眼レフカメラの音が多い。"カシャ"だけでは物足りないとみえて、"ギュン"という巻き上げ音が足されている。いわゆるモータードライブの音。これはもはや記号音と言っていい。ところが最近「シャッター音ってダサくないですか?」という若い人が出始めた。デジタルカメラネイティヴの彼らにとって、カメラの記号音に親しみはないし、音がすることがむしろ気持ち悪いというのだ。確かにiPhoneの甲高い後付けのシャッター音はイライラするし、そういえば僕自身もコンパクトデジタルカメラの取って付けたような合成音はどうかと思うので無音に設定している。件の彼らが選んだカメラはソニーα7Sだった。7Sは一眼レフでありながら電子シャッターを採用しているからまったく音がしない。そして今回発売されたα9も同様だ。ミラーレス、裏面照射式CMOSセンサー、電子シャッターの組み合わせにより無音、ブラックアウト無し、秒間20コマのAF追従が可能になった。ミラーを使っているカメラでは物理的に不可能だ。秒間20コマっていうのはもはや動画。連続で300枚以上連続撮影できるそうだから最大で15秒間記録できることになる。ということは理論的には常にバッファメモリに記録し続けることによって、シャッターを切った数秒前に遡って記録することが可能になる。α9にはその機能はついていないがゆくゆくはそうなることは想像に難くない。となるとシャッター押すというは単にきっかけを与えるだけの行為になる。秒間20コマの画像がシャッターを押した前後に記録できるならシャッターチャンスという概念は霧散してしまう。ピントが撮影後に選択できる技術もすでに実用化されているし、それが一般的なカメラに搭載されるのもそんなに遠い未来ではないだろう。エレクトニクスデバイスの様相を呈してきたデジタルカメラ。それは使う方の心理を変えてしまい、ひいては写真そのものの概念を変えてしまうことになる。そういう時代になって、ようやくオールドデジタルカメラというジャンルが生まれてきたように思う。「CCDセンサーのデジカメ最高!」っていうのは、車でいうと「インジェクションじゃなくて、やっぱりキャブレターだよね!」というのに似てそうだ。エプソンRD1も良かったけど、最近触った中では初代ペンタックス645D。55ミリのレンズがついて30万円以下で手に入るそうだ。このカメラ、以前スタジオで使った時は黄色に引っ張られるような色で難儀したが晴天自然光ではとても素直な色を出すCCDゆえフェーズワンに似ている気がする。それに645Dのシャッター音、嫌いじゃない(笑)

 

段ボールとマジック片手に

朝=玄米フィットチーネのカルボナーラ/夜=玄米のドライカレー、アスパラとズッキーニのソテー、スープ

昨日送られてきた雑誌『IMA』をずっと眺めている。柴田敏雄と鈴木理策の対談が面白くて、気になるところを段ボールにマジックで書きつけていった。最近気になるものは、そうやって手で書くことにしている。誰かと話をしている時も、段ボールとマジック片手に聞いている。

柴田敏雄と鈴木理策が話しているのはセザンヌのこと。二人とも始まりは絵画なので共通点が多い。僕が積極的に絵を見るようになったのは10年前くらいから。長い間写真と絵画は違うものだと思っていた。写真は写真だと。でも考えてみればその出発点から絵画の影響は受け続けているわけだし。見るようになって楽しみが増えた。妻や娘と美術館に行くことも多い。共通の話題にもなっている。妻に美術史講座の配信を手伝ってもらっているので、妻も美術にかなり詳しくなってきた。さあ、季節も良くなったしゲルハルト・リヒターも来るし、見たいものが5月に揃っている。

 

<2005年4月25日の日記から>

ここ2年、米沢以外はどこへも行っていない。そこへ突然モンゴル行きが浮上してきた。ワークショップの参加者で、モンゴルの研究をしている人がいる。彼がモンゴルへ行っている間に押しかけようと思っているのだ。去年「ラクダの涙」というモンゴル映画を見た。今年のアカデミー賞にもノミネートされているドキュメンタリーだ。馬頭琴を奏でると子育てを拒否していたラクダが涙を流し母性を取り戻すというストーリーだ。ゲルでの生活や習慣が描かれていてとっても興味深い。僕のモンゴルへの認識はその映画だけ。後は椎名誠の紀行文くらいなものだ。今回行かなければおそらく一生モンゴルへ行くことなどないだろう。「行ける時に行け」が旅の鉄則だ。今放映中の木村拓也「富士通FMV本屋編」のCMに僕の写真が使われていて、昨日テレビを見ていたら突然出てきたのでびっくりした。

 

 

『IMA』が来た

朝=ササミ肉のあんかけそば、茹で卵/おやつ=プリン/夜=ポークカレーと玄米、

宅配便で写真雑誌『IMA』が届いた。存続の危機などと言われていて、今年も定期購読の申し込みをしたのだけど、なかなか来なかったので心配していたのだが。届いたものは今までよりも紙面も多くて、内容も素晴らしかった。まだちゃんとは目を通せてないが、インタビューも充実しているし、情報も満載。4月29日から始まるアーティゾン美術館での柴田敏雄x鈴木理策展の対談もあった。タイトルが「写真と絵画 セザンヌより」というもの。

午後、友人が用事があって近くまで来たついでに、家に寄ってカレーを食べて帰っていった。たまに、カレー目当てにくる人もいるから、我が家でカレー屋さんができるのではないだろうか(笑)。「渡部さん、対面のワークショップもうやらないんですか?」と聞かれたが返答に困る。もう丸2年やってないし、やろうと思うと「マンボウ」が出るしで。1回途切れてしまうと元に戻すのが大変に思えてしまう。5月は1ヶ月間、僕の写真展があるので、6月に始めようかなとずっと思っているのだが。まずは単発でやってしまえば何かが変わるかな。この2年の間に僕の写真に対する考えも変わってきた。写真を教えるというより、“カレーを食べながら写真の話をしよう会”の方がいいような気がしてきた。

 

<2015年4月24日の日記から>

久しぶりに米沢へ。昨年は一度も行かなかったから2年ぶりになる。最後に帰ったのは母の納骨の時で、GWの桜が満開の頃だった。今年は三回忌ということもあって墓参りをしておこうかなというのと、久しぶりに米沢を撮ろうと出かけることにした。GWをさけて行ったのだが、運良く桜が満開だった。初日に6分くらいだったのが、3日後には盛り上がるように花をつけていた。いつもそうなのだが、米沢に帰ると昔と変わらないところを探してしまう。新しいものを見つけるのではなく、知っているところを確認して安心していることがある。そういったものを見つけては撮っていたのだが、そんなものはそうそうない。加えて母が死んでしまい帰る理由も、きっかけもなくなった今、米沢への興味はほとんどなくなってしまった。もちろん嫌いになったわけではないが、以前のようには撮れなくなってしまった。米沢を撮ることが、記憶を食べているような気がして嫌になってしまったのだ。モノクロで正方形の画面は今の自分にはセンチメンタルすぎて使う気になれず、ペンタッックス67Ⅱにネガカラーを詰めることにした。それでもできた写真はセンチメンタルになってしまうんだろうが。ここ20年くらい、いつも泊まっている一泊3500円の温泉宿は、今年で85才になるお婆さんがやっている(湯ばあばと勝手に呼んでいる)。いつも元気で予約も精算の計算も湯ばあばひとりでやっている。温泉効果で肌はつやつや。帰り際、湯ばあばを撮らせてもらうことにした。台所に入り込む薄い光の中に立ってもらい数枚だけ撮った。今回一番手応えがあったのに、車に戻ってフィルム交換しようと裏蓋を開けたらまだ巻き取られておらず、フィルムがむき出しになっていた。そんな失敗は数十年経験したことがない。でもさほど落胆することはなかった。なんだかそういうもんだと思えてしまった。次に行くのはいつになるのか。向こうであった友人に「またすぐに来るから」と言ったら「この間もまたすぐに来るって言っておいて2年もこなかったぞ」と笑っていた。

本棚の大移動

朝=炊き込みご飯の出汁茶漬け/夜=キャベツとりんごのサラダ、ニラ冷奴、鹿挽肉のボロネーゼ/デザート=たい焼き

事務所の本棚がついに写真集でパンパンになってしまった。昨年本棚を整理して、大きな衣装ケースと段ボールふたつ分を外に出したのだが、もう限界。本を横にして本棚の隙間に突っ込むようになると赤信号。意を決して本棚の整理。ついでに本棚の場所も変えることにした。本を全て取り出してから本棚を移動。そこから本を入れ直す。2B Channnelで写真集紹介を始めてから気になる本はすぐに買うようになってしまって、あっという間に本が積み上がる。整理していたら、今までいくら探しても見つからなかった本が出てきたのは収穫だった。それでもショアの『 Uncommon Place』だけは見つからない。2Bの引っ越しの時に持っていた写真集の3割を、ワークショップの人たちにあげてしまったので、もしかしたら紛れて譲ってしまったかもしれないな。30歳の頃から写真集を買い始めているから、今までに1000冊くらいは買っている。その中でずっと本棚に残り続けるものが自分にとっての大事な写真集になる。最後の最後まで残る本はなんだろう。本棚の場所を変えたことで、部屋の雰囲気が変わってスッキリした。来週はペンキを塗ろうと思っている。

 

<2003年4月23日の日記から>

江古田大勝軒のラーメン、11時開店と同時に並ぶ。去年の暮れにサイトのコラムを通じてアシスタントの募集をしたところ、数人の応募があってめでたくTにやってもらうことになった。しかしその後、サイトのコラムをまるっきり更新していないので(この日記にかわったせいだ)、今年に入ってからも数人からアシスタント希望のメールをいただいた。「残念ながら…」という返信だけでは、なにか申し訳ない気がしてしまう。少なくとも僕の写真が気になって応募してきているのだろうし、メールの文面からはどれも必死さが伝わってくる。それで、つたないまでも今後カメラマンとしてやっていくための参考になればと、応募してくれた人と会うようにしている。応募してくる人は、今撮っている写真がどうなのか客観的な話を聞いてみたいと思っている場合が多いので、これまで撮ってきた写真を見せてもらい、僕が思ったことを話すスタイルをとっている。それと実際に仕事としてやっていくためのノウハウ。こればかりは経験してみないと分からないことだから、聞いているほうも真剣になるようだ。写真を見ることが好きな僕にしてみれば、事務所にいながらにして写真を持ってきてもらえるのだから、これほど面白いことはない。こんなことを思いついたのも、飯沢耕太郎の「写真評論家」という本を読んだせいかもしれない。僕は評論家になるつもりもなければ、なれるとも思わないが、本を読んで飯沢さんの写真好きに触発されてしまった。作者を前に写真を見せてもらうということは、エネルギーをたくさん使うが、その分、得るものも大きいし記憶にも残る。写真集や写真展を見るのとは、こちらの緊張感も違う。見せるほうの心境がどんなものかも容易に想像できる。なにせ僕は、毎度見せるほうの立場なのだから。

プリンス・ジャスィ

朝=肉あんかけうどん、鯖寿司ひと口/夜=胡瓜とトウモロコシとミョウガの和物、新玉ネギバーグ、人参1本炊き込みご飯、キノコの味噌汁

2B Channnelライブで京都グラフィーの総括。振り返ると今回はプリンス・ジャスィだったなあ。ガーナのアーティストでカメラとかパソコンが買えないからiPhoneで撮って、アプリで加工しているらしいのだが、それが衝撃的にかっこいい。ピンクの空に緑の海なんて絶対に想像つかない。写真を見て初めて「空はピンクでもよかったんだ」と気がついた。

ジャスィは共感覚の持ち主で、外からの刺激が別の器官にも影響する体質なんだそうだ。実は僕の娘も音を聞くと色が出てくるらしくて、小さい頃はピアノの音符に色をつけていたことがある。ジャスィがどのような共感覚であるかは語られていなかったが、彼の発想に大きく影響しているとテキストにあった。雑誌で紹介されていたら、スルーしていたかもしれない。生で見られて本当によかった。京都から帰ってきたら、机の上に送られてきた本が何冊も積まれていた。ライブで紹介したい本ばかりなので、しばらくはネタに困らない。ようやく配信のスタイルができてきた。

 

<2011年4月21日の日記から>

占いってあんまり好きじゃない。おみくじは20年以上引いてない。でも星の巡りっていうとなんだかありそうな気がしてくる。守護霊って言葉は中学生の頃ツノダジロウの「うしろの百太郎」で覚えた。近頃、「前世」って言葉が流行っている。美輪さんが言い出してから、なんだか市民権を得た気がする。ほかの人が言うと「胡散臭い」なのに美輪さんが言うと「そうかもしれない」ってなるのが面白い。妻が「前世見てくれる人がいるって。見てもらおうよ」と言ってきた。妻の友人が紹介してくれるそうで(僕も妻も連絡先を知りません)、その筋では有名なんだそうだ。そういうのって… 嫌いじゃない。見てもらう場所は駅前のスタバ。隣の人に丸聞こえ。びっくりしただろうな、結構すごいこと言ってたから。その人が見えるのは守護霊と、ついている近親者。それと前世で経験したイメージが映像で見えるんだそうだ。
で、僕の守護霊は正座した日本の武士と、浅黒い色のアジア人で、周りに本をうず高く積んでいる人らしい。性格は、「一人じゃいやだけど、つるむのは嫌いで、人と同じことをするのは大嫌い。会社勤めはまったく向いていない」そうだ。3年間勤めたといったら「それはすごい」って言われた。カメラマンだって言ったら、今の仕事は合っているんだそうだ。「文章書くといい」「人に教えるのが向いている」とも。

実をいえば、会う前は半分「???」という部分もあって、自分の情報はほとんど伝えてなかった。でも流石にその辺は当ててきた。本当は全部自分のことを晒すともっとわかるらしい。なぜ自分があちこち行きたがるかは僕の母の父親のせいだとか。『旅するカメラ3』に書いたスーパーイコンタの持ち主の祖父だ。若くして満州で亡くなった祖父が、もっといろいろなところに行きたくて、僕に指令を出しているんだそうだ。これには納得(笑)。過去のことはわかっても未来のことはわからないはず。だから「将来どうしたらいいですか」といった質問はしなかった。そもそも聞きたいことがなかったというのもある。僕のことに関しては、何も驚くべき事実というのは出てこなかった。視てもらった結果は、一言で言うと「このままでいい」とありがたいような面白くないような結果。その後に視てもらった妻の前世には、何やら悲しい出来事が。非常にドラマチックな話に聞き入ってしまう。それが原因なのか、確かに思い当たる節はある(笑)「魂に傷を持つ女」というのが今の妻のお気に入りのキャッチフレーズだ。