Photographer’s photographer

‘Musician’s musician”という言葉があると、友人のミュージシャンに教えてもらったことがある。プレーヤーが愛するプレーヤー。「あいつの音はすごい」ともう手放しで感嘆してしまう同世代のミュージシャンのこと。

僕にとっての「Photographer’s photographer」は山下恒夫だと言える。彼の写真展が金曜日から始まる。

山下恒夫 写真展「Fragments of journey 1993-1997 」
ギャラリー冬青
3月2日(金) - 3月31日(土) 11:00~19:00 水曜のみ 11:00~21:00 日曜・月曜・祝日 休廊

http://www.tosei-sha.jp/TOSEI-NEW-HP/html/EXHIBITIONS/j_exhibitions.html

彼とは大学の同級生だ。というのもおこがましいくらいに感じている。『旅するカメラ4』の「普通です」のくだりに出てくるのは山下のことだ。

大学時代、隣に座っている山下のプリントを見て冷や汗が出た。どこをどうやったらこのプリントができるのか、さっぱり見当がつかない。

彼に「どうやって焼いたの?」と聞くと山下は「いや、普通に焼いてるだけ」と不思議そうにこちらを見る。言ってる意味がわからんという感じだ。

東大にいった友人が、授業中黒板に書かれた数式の意味が分からず隣の同級生に尋ねたら「なんで分からないのかが分からない」と返されたと言っていたがが、まさにそれ。

今回展示されている作品は20年前に新宿ミノルタギャラリーで見ている。彼とは同い年なわけだから36歳の時だ。1月に僕が冬青でやったときに出していたライカで撮ったプリントもまったく同じ頃だ。

その頃ようやく山下が大学時代にやっていたことが理解できた。でも山下は当然その先を行っているわけだ。以来ずっとその繰り返し。

今回の展示案内がFacebookのタイムラインに流れてきた。DMになっている写真を見て呆然となった。なんだこれは。なんなんだこの写真は。

Facebookを開くたびにそれが出てきて責められている気になる。

もう観念した。この調子で展示期間中モヤモヤするのは耐えられない。展示準備が終わった頃を見計らって冬青に行き赤いピンを押してきた。もう仕方がないのだ。

これで後でもう一度ゆっくり展示を見ることができる。

 

引っ越しまであと1週間

暗室も来週には使えなくなる。そう思ってプリントすることにした。

事務所スペースは足の踏み場もないけれど、暗室はまだそのまま、いつもと変わらない。

7台ある引き伸ばし機の中で、モノクロはLPLの4x5インチまで焼ける引き伸ばし機を使っている。コントラストがちょうどいい。

イルフォードの印画紙で“demain”の中から3カットを8x10インチ に焼いた。たぶんここで焼くのも最後だろう。いつものようにTBSラジオを聞きながらの作業だった。

これからは人の暗室を使わせてもらうことになるから、プリントが変わるかもな。

隣に住むSの部屋は、ほぼすっからかんになっていた。水曜日の朝8時にここを出てフランスに向かう。

短い言葉をかけ、お別れの握手をした。

10年くらい前に、ビジネスで成功した人から「僕はその人と仕事をするかどうかは、初対面の時の握手で決めてます。これが一番間違いがないんです」と教えてもらった。

叩き上げで、ひとりで大企業相手に渡り合ってきた彼の言うことはいつも面白い。以来僕も会う人ごとに握手する習慣がついた。

握手をするとたしかにその人の性格とか習慣が分かるような気がする。パッと手を握ったときに、ちょうどいい手応えで返してくれる人とはうまくいきそうな気がするし、勢いみたいなものも感じることがある。

Sは親指と人差し指の根元までグッと差し込んでギュッと握ってきた。

勢いがある握手だった。

 

 

鳥の唐揚げに千切りキャベツ

ワークショップの講座のときに、キーワードをプリントしたいなと思うことが多い。

でもPCを立ち上げてフォントを設定し、わざわざA4に印刷するほどでもない。ほんのちょっとでいいんだが。

そう思ってる人は多いようで、ロール状の付箋にプリントできる超小型プリンターを見つけた。日本製のようだ。

スマートフォンやタブレットから無線でデータを送り80ミリ幅のプリントができる。最小の設定で名刺くらいの大きさだ。モノクロ専用のレジのレシートみたいな仕上がりになるのだが、けっこういい具合に写真もプリントできる。

転送速度もまあまあ早い。アプリのフォント設定も簡単。けっこう使いやすい。しかも複数台のデバイスからアクセス可能。ワークショップ用にぴったりだ。

とりあえず英語で勉強したことを打ち出してふすまにペタペタ貼ってみる。beとかmakeとかhaveとか並んでいる様子は、ほぼ現代アート。こんな展示見たことある。

それを使って妻に英語を教えてみたのだが「なんでbeがamになったりisになったりwasとかになるんだ。beはいつ使うんだ」と根本的なことを問い詰められた。

しかたがないのでシェークスピアの「To be or not to be, that is the question.」を持ち出すはめになった。

「ハムレットが生まれたのははエリザベス女王の時代でね、、、」という壮大な話に脱線して、収拾がつかなくなってしまったのだった。

ほんとのところ、beの意味はよくわかってないんだな、ということだけはわかった。

 

 

 

 

SLXはファインダーの見え方もいい。

引っ越し準備でカメラをパッキングしていると、ついつい用もないのにファインダーを覗いてシャッターを押してしまう。

もういい加減飽きてもいい頃だとは思うのだが、安い望遠ズームにテレコンバーターをつけて真っ暗なファインダーを覗いてはミロスラフ・ティッシーみたいだなとニヤニヤしている。

デジタルカメラはキヤノンEOS、ソニーα7、リコーGR、シグマdp、オリンパス、フジフィルムくらいだが、フィルムカメラは掘り出すと湧くように出てくる。

その中で一番好きなカメラは何かと聞かれると、やっぱりローライ。二眼レフのフレックスがもっとも使用頻度が高いが、実は一眼レフのSLXが一番好き。1974年に作られた電子式6x6サイズカメラだ。

『旅するカメラ4』にも出てくるが、とにかくシャッター音がいい。バシュとシャッターが切れてジャーと巻き上げる。いかにも、という作動音はテンションがあがるあがる。

それにこのレンズはプリントがしやすい。コーティングのせいだろうか?レンズの構成はハッセルのプラナーとまったく同じだが、いわゆるハッセルぽさはなく、ローライらしいのだ。ローライらしさってなんだと言われても困るのだがコントラストのつき方が繊細な気がしている。

「prana」を作っていた5年前くらいまではよくつかっていたが、数年前にパリに持っていったときに突然動かなくなってしまった。

修理を受け付けてくれるところもなく、そのままにしてあったのだが、また使いたくなった。電池を新しくしたら動くかと思って、バッテリー中身のセルを交換するサービスに出してみた。

期待は外れ、やはり動かず。バッテリーではないとすると本体か。使えないと分かると使いたくなるのは世の常。

ヤフオクを見ると動作不確認、ノークレームノーリターンばかり。そんなものに数万円も出せるわけがない。

問題は本体なのか、バッテリーなのか。それをもう一度はっきりさせたい。

これを解決できるのは2Bでしょ。ということでローライSLXと60002(SLXと同じバッテリーを使う)を持っているのに連絡して持ってきてもらった。

彼のバッテリーを手持ちのSLXに入れてみたら、なんと動いた。

そこで僕のバッテリーを彼の6002に入れてみたら今度は動かない。つまり問題はバッテリーだとこれで特定できた。

しかしセルは入れ替えているのだから問題はないはず。となるとバッテリーについているヒューズの問題か?試しに動かないバッテリーのヒューズと作動しているバッテリーのヒューズと交換してみた。

すると軽快に動き出したではないか。

スッキリした。ヒューズを新しくするだけでもう一度使えるのだ。俄然やる気が出てきた。今週どこかに撮りにいこうかな。

空シャッターを切ってはテンションがあがる月曜日となった。

 

玉こんにゃくの煮物、インゲンのサラダ、小松菜と豚肉に炒め物。

引っ越しまであと12日。

写真集やネガを1時間箱詰めしたら飽きてしまって、お向かいの中華屋にチャンポンを食べに行った。

思えば週に一度はこの店で食べているな。チャンポンもいいがホイコーロがおいしい。熱い麺をすするとお腹も気持ちもちょっと満たされた。

部屋に戻るとすさまじい散らかりよう。途方もないぞ。

3月は誕生月。あたらしいことが起きる月だと思えば。

家では英語の勉強を再開した。東大の講座が終わったので頭を切り替えるにはちょうどいい。今までも電車の中ではずっと英語を聞いている。ある程度聞けるようにはなってきたので、もう一回文法をやってみようと思った。

フレーズを丸々暗記して使うには限界があるし、なんでそういう言い方になるのか興味が出てきた。

夜にノートに英文を書き留めているのを妻が見て「まだ英語やってるんだ」呆れていた。

という妻は横で「どうぶつの森」をやっている。昨年暮れからずっとだ。僕からすれば「よく飽きずにやってるよね」と言いたくなるんだけどね。

 

 

豚肉と野菜の蒸し鍋。

来月上旬に引っ越さなければならない。これはもう決定事項だ。

途方にくれている。

まず2Bの本棚をいるものといらないものに分類して箱詰めしてみた。

中ぐらいのサイズのダンボールに30冊くらいづつ詰めていく。捨てに捨てて10箱詰めた時点で、まだ半分以上本棚に残っている。

隣に住むSも引っ越しで2Bに荷物を置くもんんだから、2Bは片付けられない人の部屋のようになっている。

今日は2Bに行かず、受け入れ先である自宅を整理することにした。30年間のカメラマン仕事で撮影したプリントや雑誌の切り抜きのファイリングを全部捨てることにした。

昔のものにまったく未練がない。どんどん捨てられる。年齢を重ねるごとに加速化してるような。身軽でありたい。

それでも捨てられない荷物はまだまだ多い。

ぼんやりとしたイメージでしかなかった2Bの引っ越しが現実となってきた。

 

 

 

最近のブームは豆。乾燥したのを戻してコトコ煮るとじわっとくる

だるい。

なんか体が重い。頭がぼーっとする。肩がこる。風邪?

熱を測ってみてが平熱。そして鼻がむずむずする。

花粉が飛んでるのだ。今年も律儀にやってきた。さっそく部屋に空気清浄機を出す。これで少しは落ちついたが1ヶ月は調子はあがらないな。やれやれ。

今日は日本写真家協会主催のセミナーに出てみた。「デジタル時代のモノクロプリント」。講師はプリンターの松平光弘さんだった。

松平さんは、周りにいる写真家の多くががプリントをお願いしているのでお名前はよく聞いていた。

講座前半1時間はレタッチについての概要で、後半1時間はピエゾグラフィーというアメリカで開発されたモノクロ専用インクをエプソン のインクジェットプリンタに搭載。特別なプリンタドライバで出力する高品質のモノク ロプリントの話だった。

ピエゾグラフィーは10年前くらいから知っていて、気になっていたので講座を受けてみた。結論からいうと個人が手を出すのは難しいようだ。

膨大なトラブルにひとつひとつ対処する必要があり、それなら松平さんにプリントをお願いするほうがいい。餅は餅屋ということだ。

デジタルプリントの講座に出てわかったのは、銀塩プリントって楽だなっていうこと。メカニカルトラブルということがほとんどない。

一度松平さんにプリントを頼んでみようと思う。雪のプリントや、demainの犬とか、ピエゾグラフィーでプリントするとどうなるか興味がある。

 

 

最後も赤門前の一番餃子でナスの揚げ物

昨年7月から通っていた現代アート講座の最終プレゼンテーションが終了。

2日間の発表会の後、シドニー行きをかけた優秀プレゼン賞2名が決まった。発表の際は会場に緊張感が漂っていた。

残念ながら選からはもれたが、最後までその場の中にいることができたのはとても幸せだった。56歳の挑戦は、これでひとまず終了。

半年間ずっと現代アートと社会の関わりあいを考えてきた。講座に出て展覧会を見てレポートをまとめて。たまに皆んなと飲みに行ってちょっとした連帯感が生まれて。最後に賞を取ったひとを素直に祝福できる。

これってなんかに似てるなあと思ったら2Bのグループ展そのものだった。やっぱり半年間作品作りをして、搬入ギリギリまでジタバタして展示。苦労があるからパーティでは笑顔と開放感にあふれている。

現代アートは結果ではなくプロセスにより重要性がある」というが、まさにそれ。何ができたかより、何を作ろうとしたのか。それを考え続けることを2Bでは求めてきた。

いつもはオーガナイザーだが、今回はプレーヤーだった。参加する大変さも楽しさもあらためて知ることができた。やっぱりプレーヤーはいい。

家に帰ると妻が、発表会に出た子供に言うように「今日は楽しかった?」と聞いてきた。

そんな顔をしていたんだろうな。

「ああ、すっごく楽しかったよ」

 

H1期の募集は3月上旬を予定

2B最後の58期が先週終了。14年と9カ月か。

ワークショップは続けていきたいので、4月からの新たなプログラムを考え中。暗室が使えないから2Bをベースにしながらも新しいことを考えないと。

2Bを始めた2003年から15年がたち、ちょうど新しいスタイルを考えなくてはならない時期なんだな。

露出の考え方が変わるわけでもないけれど「感度分の16」一本やりでは足りなくなってきた。

写真ができること、できないこと

これが新しい講座の1回目のプログラムで、Hの決意表明みたいなものだな。

 

ワークショップ2Bは、H(エイチ)と名前を変え2018年4月から新しくスタートすることになりました。場所も江古田から阿佐ヶ谷に変わります。

14年間58期まで続いたワークショップ2Bは、ビルの建て替えにともない2018年3月をもって終了することになりました。2Bは暗室ワークを中心にしたプログラムでしたが、Hではこれまで培ってきたことをベースに新しいことを考えています。

撮影実習では、お手持ちのデジタルカメラまたはフィルムカメラの好きなほうを使用できます(ハッセルブラッドローライフレックス、ライカなど多数の貸出機あり)

毎週土曜日と日曜日の午前10時から阿佐谷を中心に行います。

H1期の初回は4月7日土曜日8日日曜日から。
募集は3月上旬を予定しています。

参加費 各回5400円(税込) 当日支払い

予定されるプログラム (若干の変更あり)
1回目 座学 写真ができること、できないこと
2回目 撮影実習「ものの形」阿佐谷
3回目 撮影実習「ものの名前」阿佐ヶ谷
4回目 撮影実習 露出の考え方「町撮影 高円寺周辺」
5回目 ざっくり写真史 阿佐谷
6回目 撮影実習「ポートレート新宿中央公園
7回目 撮影実習 「浅草寺
8回目 プリント実習 デジタル1 阿佐谷
9回目 プリント実習 デジタル2 阿佐谷
10回目 セレクト実習 阿佐谷
11回目 ビューイング 作家のオリジナルプリントを見る「オリジナルとはなにか?」 写真のマーケットについて「写真はどのように扱われているのか」阿佐谷
12回目 座学 現在の写真の流れについて「なぜ4億円で売れる写真が誕生したのか?」阿佐谷

 

 

暗室番長フランスへ

2Bにはアシスタントじゃなくて、暗室番長という勇ましい呼び名のついた小柄な女性のSがいる。

Sは6年くらい前にワークショップに参加した後に2Bのあるビルに住むことになった。というか僕がそそのかした。

「ここに住むと暗室をいつでも使っていいよ」

その頃Sはあるカメラマンのアシスタントをしていてプロになることを目指していた。カラープリントがいつでもできて、撮影機材がなんでも使えるのは彼女にとって便利だったし、僕も荷物の受け取りや暗室の管理をおねがいできるのはありがたかった。

お互いの利害が一致して彼女は暗室番長となった。そういえば誰が暗室番長と言い出したんだろう?たしかにぴったりな愛称だった。

2Bのとなりに住むようになると、翌年彼女はワークショップのグループ展で作った作品をまとめてニコンサロンに応募して、東京と大阪で展示することができた。

アシスタントから一本立ちしてフリーカメラマンとなり、料理と人物を専門とした。パリやアルルでのグループ展や屋久島フォトフェスティバルの招待作家にもなった。フランスには多くの知り合いができて、中には超有名な写真家もいる。

彼女のスキルと人脈は同じ年齢の時の僕と比べると段違いに高いし、運もいい。おそらく同じ時期に生きていたら嫉妬してることだろう。

2Bのあるビルがなくなってしまうという状況に、Sが選んだのはフランスへの移住だった。1年間働きながら住むことができる、とても倍率が高いビザの申請を、フランスに住んでいた人の手助けもあって見事手にいれた。

うらやましくて目がくらむ。

彼女は50歳になったときにこう言えるのだ「パリもすっかり変わっちゃって、変わらないのはこのお店の味だけね」って。

僕は若い頃海外に住まなかったことに大きく後悔している。なんで行かなかったんだろう。でもその時はいろいろ言い訳を考えて「だから行けないんだ」と自分で納得していた気がする。

さてビザは取れてもどこに住むかは大きな問題だ。フランスは家賃も物価も高い。手持ちのお金には限りがある。でも彼女が「フランスに住む」と決めて、そのことを周りに話すと「僕の母のところに住みなよ」という人がすぐにあらわれた。

運がいい。でもこの運は偶然転がりこんだわけではないし、生まれつきのものでもないだろう。運がいいというのは自分が足りてない部分に、それを埋めてくれる人があらわれること。だから人見知りだと運が良くなるのはかなり難しい。

昨夜送別会があった。暗室でせわになった人たちがたくさん集まって海外移住を祝ってくれた。

そりゃ運も良くなるわけだ。そしてそれは6年間彼女が積み上げたものだ。

フランスでは楽しいことだけじゃないだろうが、おおむねはうまくいく。

なぜなら彼女は運がいいからだ。

駅弁はやっぱり「牛肉どまんなか」

なんで米沢へ行こうと思ったかというと、周りが「もう米沢を撮らないんですか」ということに反発している自分に反発したからなのだ。

ややこしいな(笑)

「はいそうですね」とは素直に言えないから、反発するようなことを言ったりしてしまうわけだが、それにさえ反発してしまおうということ。

すると元に戻るから言われたとおり米沢を撮るということになったのだ。それとアルル行きの計画が中止になったときに「これは国内だな」と思ったのも大きい。

米沢を撮ることを数年間やめていたのは『da.gasita』(2012年冬青社)以降、何を撮ってもその真似をしてしまうからだった。

これはやっていてうんざりする。枠組みから抜け出せないと自分で決めてしまっていたところがある。写真集は売り切ったところで大儲けできるわけでもないから、常に新しいことをやりたいというのが前提だ。

「旅するカメラ」は商業的にうまくいったので、そのフレームを使って8年間で4冊作ることができた。その構造体も時代の変化によって徐々に機能しなくなってくる。

『da.gasita』を出してからすでに5年たっている。その間に随分と世の中も変わったし、自分も変わってきた。

もしかしたら米沢を撮って新しいフレームを作ることができるかもしれない。これは直感だ。

列車で移動しながら、温泉に入りながら新しい本の形を考えていた。

二泊三日 da.gasitaの旅

そうだ、米沢へ行こう。

と思いついたので高校時代の友人に電話してみた。雪がすごいらしい。

とりあえず時間ができたので新幹線にのって無計画ながら昼はラーメンを食べることだけは強く決めて出かけたのだった。

東京でラーメンを食べるたびに、米沢ラーメンが食べたくなるのよ。鶏だしの醤油味に縮れ麺。

うまい、というか馴染むというか、これがノスタルジーなんだろうなどと思ってしまう。旅の間、毎日でも大丈夫だ。

用はないし外は寒いしで、ローカル線に乗って終点でいって折り返してまた戻ってと、とりあえず移動はしているが生産的な行動ではないことを繰り返す

泊まるのはいつもの小野川温泉1泊3000円の素泊まりの宿。食事は自炊場があるので町で買い込んできたものを食べる。温泉に入ってポカポカになってコタツで地酒を飲むのはこれ以上ない幸せ。

結局何をしに行ったのかわからないまま2泊後ローカル線で米沢から坂町まで出て、そこから新潟経由で東京に戻った。

米沢と坂町を結ぶ米坂線は、いつ乗ってもいい。町から山を抜け谷を渡り何度もそれを繰り返し平野に出る。季節ごとの良さがあるが、冬は見事な白一色の風景が続く。

見ていて飽きることはない。これに乗るだけでも米沢に行く価値があるくらいだ。

 

収穫はローライフレックスでトライXを8本。1本あたりの撮影経費は相当高いな。