中国のSF小説が面白い

昼=穴子天蕎麦と小マグロ丼、煮物/夜=おにぎり、唐揚げ、ポテトフライ

門前仲町に用事があったので、木場の現代美術館へ寄ってみた。いま、「クリスチャン・ディオール 夢のクチュリエ」をやっているのだが、人気らしくネットでのチケットはとれず。当日券があるというので開館30分後くらいに行ってみたら、すでに当日券も売り切れ。館内には、入場者の長い列ができている。なめていた。みんなディオールが大好きなんだな。

でも、現美は常設展が充実しているし、そっちにはほぼ誰も来ないので、ガラガラでゆっくり見ることができた。同時に3階では、Tokyo contemporary Art Award2021-2023受賞記念展「さばかれえぬ私へ」をやっていた。受賞者は志賀理江子さんと竹内公太さん。これはとてもラッキーだった。無料です。

先日、日本の現代アートコレクターの第一人者の方とお会いすることができた。僕は、9月にある大学の経済学部大学院の講義を担当するのだが、そのゲスト講師のお願いにあがったのだ。なぜ経済学部なのかというと、社会人経営幹部を対象にしたコースのため。内容は「現代アートとビジネス」のさわりを話すのだけど、ゲスト講師を招いてもいいということだったので、その方にお願いにあがったのだった。実際に美術品を数多く購入している方の話は生々しさもあって、それこそ僕の知らない言葉がたくさん出てきたりして本当に面白かった。

その後、担当教授とお茶を飲んでいるときに、中国のSF小説が面白いという話になって、劉慈欣「三体」を教えてもらった。そこで早速Kindleで購入して、いま3分の1ほど読んだところだが、量子論の科学者の話でめちゃくちゃ面白い。量子論かじっておいてよかった。おかげでリアリティが増してくる。

<2021年5月13日の日記から>

シグマ「fpl」を持って妻と高円寺を散歩。近頃はひとりでカメラを持ってウロウロしていると、周囲からあまり良い感じには見られないので、妻にお願いして一緒に歩いてもらう。健全ですよ、というアピール(笑)。いろいろ組み合わせて見た結果、外付けEVFよりも液晶モニターにラバー製ルーペをつけたほうが使いやすいことに気が付いた。リグも外して素の状態。ライカズミルクス50mmf1.4とfplの6100万画素センサの相性は抜群。開放で撮っても画素数が高いので情報量が豊富。比べてしまうと2400万画素のfpはちょっとがく物足りない感じ。カラーモードは新しく追加されたパウダーブルーがとても気に入った。ホワイトバランスは「色残し」というのがあったので使ってみたら、パウダーブルーと相性が良かった。昨夜の「2Bchannelラジオ」のライブ配信では、その時撮った写真をアップしている。その配信で、僕が長年書いているブログ「写真生活」の話をしてみたら「考えが短絡的すぎて残念」っていう内容コメントがつけられていた(笑) 。たしかに。人に見せる前提ではあるけど、日記だからねえ深くはない。ああそうか、日記だから滲み出てるってことか。水曜日は、この「2Bchannelラジオ」が終わると学生向けにzoom講義。今回は「テーマとコンセプト」。なぜ日本では写真作品にコンセプチュアルなものが少ないのか?  それは切羽詰まった問題がほとんどないから。人種や宗教やジェンダーで悩む人の量が他国では身近な問題として抱えているが、日本では見えづらい。徐々にそこにフォーカスするものが出てはいるが、どうしても問題提起というよりも日常が多くなる。昨夜は男子学生6名が参加していたが、意見も出るようになってきて1時間の予定を超えての講義になった。

<2018年5月13日の日記から>

同世代の写真家と今年の木村伊兵衛賞の話になった。「受賞展見に行ったんだけどさ、床に敷いてある写真踏めなくて。ありゃどうかと思うよ。いただけないね。あんなの写真じゃないよ」。バライタ印画紙を踏むことはできないというので「じゃあRCペーパーは?」と聞いたら「バライタよりもいいかも」。「インクジェットだったら?」と聞いたら「ちょっと抵抗感は減る」という。どっちも変わりはないだろうと言うと「バライタは踐めない。いや踏んじゃいけないんだ」。そういえば昨年のロバート・フランク展では、展示していたものを最後に全て廃棄するというパフォーマンスをやっていたな。あの時も廃棄することに抵抗感があるっていう同世代がいた。この感覚ってなんだろうと考えてみた。我々の世代特有の「写真におけるアウラ性への信仰」みたいなものがあるんじゃないかと思えてくる。アウラっていうのは「いまここにあるもの」という意味で、存在の絶対性を指す。「あの人にはオーラがある」っていう時のオーラも、もともと発音は一緒らしいから意味も似ているんだろう。つまりプリントに「オリジナルプリント」という名前をつけて複製可能なメディアなのにユニーク性を持たせたのだ。ここで言うユニークとはお面白いという意味じゃなくて「単一の」という意味。ネガ(データ)lからプリントは物理的には無限に近く作れてしまうわけだが、そこに1枚であることの意味づけをするのだ。70年代の写真のありかたは、複製可能であることをいかに利用するかであり、プリントにユニーク性をつけて販売しようなんて考えられていなかった。当時の自主ギャラリーの展示ではプリントは壁に無造作にピンで止められていて、床にもばらまかれていたそうだ。「写真なんていくらでも焼き直しが可能なんだから」ということだ。それがバブル期の前後に「プリントは売れるもの」になった。丹念にプリントされたものは数百年保存が可能だとギャラリーが写真に商品価値をつけ扱うようになる。そんな中を生きてきた我々の世代は「バライタプリントは神聖なもの」っていう思い込みが出来上がっている。僕も同じイメージならインクジェットプリントよりもバライタプリントのほうを買ってしまう。自分のプリントもインクジェットは簡単に捨てられるがバライタプリントは捨てるのをかなり躊躇する。バライタプリントは神聖なもの、それはただの思い込み。でも我々の世代は人生の多くをその思い込みで生きてきたわけだから、時代が変わったからといって、はいそうですかと変えることは難しいんだろう。「こんなの写真じゃない」って言葉を繰り返しながら写真は新しくなっていく。