笹巻きをいただく。初夏だなあ。

同世代の写真家と今年の木村伊兵衛賞の話になった。

 

「受賞展見に行ったんだけどさ、床に敷いてある写真踏めなくて。ありゃどうかと思うよ。いただけないね。あんなの写真じゃないよ」

 

バライタ印画紙を踏むことはできないというので「じゃあRCペーパーは?」と聞いたら「バライタよりもいいかも」

 

「インクジェットだったら?」と聞いたら「ちょっと抵抗感は減る」という。どっちも変わりはないだろうと言うと「バライタは踐めない。いや踏んじゃいけないんだ」。

 

そういえば昨年のロバート・フランク展では、展示していたものを最後に全て廃棄するというパフォーマンスをやっていたな。あの時も廃棄することに抵抗感があるっていう同世代がいた。

 

この感覚ってなんだろうと考えてみた。我々の世代特有の「写真におけるアウラ性への信仰」みたいなものがあるんじゃないかと思えてくる。

 

アウラっていうのは「いまここにあるもの」という意味で、存在の絶対性を指す。「あの人にはオーラがある」っていう時のオーラも、もともと発音は一緒らしいから意味も似ているんだろう。

 

つまりプリントに「オリジナルプリント」という名前をつけて複製可能なメディアなのにユニーク性を持たせたのだ。

 

ここで言うユニークとはお面白いという意味じゃなくて「単一の」という意味。ネガ(データ)lからプリントは物理的には無限に近く作れてしまうわけだが、そこに1枚であることの意味づけをするのだ。

 

70年代の写真のありかたは、複製可能であることをいかに利用するかであり、プリントにユニーク性をつけて販売しようなんて考えられていなかった。

 

当時の自主ギャラリーの展示ではプリントは壁に無造作にピンで止められていて、床にもばらまかれていたそうだ。「写真なんていくらでも焼き直しが可能なんだから」ということだ。

 

それがバブル期の前後に「プリントは売れるもの」になった。丹念にプリントされたものは数百年保存が可能だとギャラリーが写真に商品価値をつけ扱うようになる。

 

そんな中を生きてきた我々の世代は「バライタプリントは神聖なもの」っていう思い込みが出来上がっている。

 

僕も同じイメージならインクジェットプリントよりもバライタプリントのほうを買ってしまう。自分のプリントもインクジェットは簡単に捨てられるがバライタプリントは捨てるのをかなり躊躇する。

 

バライタプリントは神聖なもの、それはただの思い込み。

 

でも我々の世代は人生の多くをその思い込みで生きてきたわけだから、時代が変わったからといって、はいそうですかと変えることは難しいんだろう。

 

 「こんなの写真じゃない」って言葉を繰り返しながら写真は新しくなっていく。