進歩がない

朝 ぶっかけうどん

夜 大根おろし雑炊

夜食 あんかけそば

前夜、新玉ねぎのサラダを食べたら急に体調が悪くなってしまった。朝になっても胃の調子は戻らない。体調が悪いとすぐにコロナを疑われてしまう。なので一日中おとなしくしていた。コロナ経験者が言うには「喉が痛くなったら間違いない」そうだが、喉は痛くない。熱もない。体調の悪くなった原因はわかっている、妻とちょっと言い争いして気まずくなったせいだ。それが胃にきた。そう思っていたら5年前にもそんなことを長文で書いていた。ああ、進歩がない。そして夜の配信を終えたら体調はいつも通りに回復していた。

 

<2017年4月10日の日記から>

感情ってなんだ?  あんまり怒りっぽい方じゃないと思うけど、たまにはムカッとすることがある。すると身体中の筋肉が硬直して体調があきらかに悪くなる。胃がムカムカしてくるし。それにこの歳になると怒るっていう感情は、悲しいという感情にすり替わってくるものだ。これはこれでどよんとする。当然だが悪感情の反対には、楽しいとか、おいしいとか、嬉しいという好感情も存在する。感情のシステムとは、いったいどうなってるんだろう?色々探ってみて、一番しっくりきたキーワードは「順位づけ」だった。どういうことかというと、通常自我と感じているそれは、世の中の順位付から起きてくるというのだ。人は自分の大事なものから順番をつけていく。何かと何かを比べた場合、こちらのほうが重要と言った具合だ。例えば友人の中にも順列を知らず知らずにつけ、最上位を親友と呼んだりする。この順位づけというは経験によってもたらされ、それよって個性と呼ばれるものが生まれる。個性というのは、すなわち何に重要ポイントを置いているかということと同じなのだそうだ。順列をつけるということは、すなわち生存確率をあげるための方法なのだ。よって自分にとって生きるために有利に働く人は順列があがる。順位付は自分が生き抜くために必要な行為だといえる。一方、我々のDNAには人類が生き延びてきた過去情報がインプットされている。高いところでは足がすくむとか、蛇が怖いとか、焚き火に安堵するとか、教えられたわけでもないのに芽生える感情は、人間が生き抜くために遺伝子上に書き込まれた過去の経験値だ。

おいしいと感じたり、美しいと感じる感情も、それを選択するほうが過去において生存確率が高かったからだと考えられる。美しいという感情の基本は調和であり、いびつなものよりも整っているもののほうが生きるのに役にたったのだ。生き抜くために感情が利用されていると考えることができる。

ところが生きるために必要であるはずの感情は、時として自分自身を苦しめることになる。個は交わりの結び目であると先日書いたが、他人との関わりあいが社会生活の前提になる。これは集団で生活するほうが生存確率がアップすることに起因している。ところがその関わりあいにおいて、自分が優先されるべきはずなのにとか、順位が低いはずのあいつがなぜ自分よりも、といった具合に自分が見積もる順位評価と、世間の順位評価の差が順列の逆転を起こし感情が乱れる。するとそこに憎しみや劣等感という悪感情が生まれるのだろう。生存確率をアップするためのはず感情が、自分を苦しめることになるのだ。それゆえストレスと呼ばれるものの源は、すべて対人関係にあると言われているのだろう。ただし、怒りの感情は物事を変える力があるということも事実だ。過去の社会改革は、民衆の怒りが根底にある。このままでは生存率が低下することが明白なときに集団的な行動になる。怒りは共有しやすいのではないだろうか。

垂直方向の順位づけには問題があるというのが構造主義であり、西洋が遅れた文明と認識していた原始社会が持つ並列的な思考を見直す動きとなった。釈迦は2500年も前に不可触民を出家させるなどカーストによる縦構造の身分社会を覆している。近頃の現代アート上でも、よく耳にするフレーズに「等価」というものがある。全てを並列的に扱い、順序立てをしないというものだ。これも垂直ではなく水平的な思考だ。

とはいえ自分の中から順位づけをなくすことは不可能だ。しかしできるだけそれを減らすことはできる。近頃ムカッとくると「おっ、何かの順番が狂ったぞ。それはなんだ? それは自分の生存率を低くすることか?」と考えるようになった。するとほとんどのことは自分の生存率を低くするものではないことに気づいた。すると「ああ、それならいいや」と思えてムカッ腹が収まる。これからは生存率が低くなると確信できるものだけに怒りの感情を出そうと思っている。