言葉は外からやってくる

朝 山かけキノコうどん、茹で卵付き

夜 ドライカレー、キャベツ・アボガド・リンゴのサラダ

夜食 塩レモンラーメン

今週末に講演会というか、30人くらいが集まるレクチャーがあって、半日かけて資料作り。メインの話は「写真制作におけるWHAT・WHY・HOWについて」というちょっと変わったもの。「写真を撮る目的ってなんだ?」ということを話そうと思っている。作品を出すようになってからキュレーターに「あなたは写真で何をやりたいんですか?」と聞かれることが多くなって、この質問が嫌いだった。自分でもなんだかよく分からない状態で撮り始めて、それを発表していたから、なんとなく後づけで意味をつけていた。欧米式の、まず枠組みを作って、そこから写真を撮り始めるやり方とは全く違っている。とても生理的なものから始まるから言葉にするのが難しかった。よく、「自分を見つめ直す」とかいうが、散々見つめ直しても何も言葉は出てこない。それが割と明確に言えるようになったのはここ10年くらいで、それは自分の中から出てきたものではなく、外側からやってきた。つまり、今やっていることがどうやって他者と繋がるかを、哲学とか思想の中から引っ張り出してきている。「なんとなく」が言葉によって形が現れてくる感覚はとても面白い。そして繰り返しになるが、その言葉というものは常に外からやってきて、自分の中からはいくら探しても見つからなかった。今回のレクチャーで使うテキストの言葉も、全て外からやってきたもの。そこに自分の経験を当てはめていく。だからいくらでも脱線可能。脱線しない話って聞いてて退屈だからね。

 

<2007年11月8日の日記から>

菊の花のおひたし「もってのほか」という名前だ

パリから帰ったと思ったら、次の日から米沢へ。
母を病院に連れて行く日がちょうどパリ帰国の翌日だったのだ。母はある部分の記憶がフォルダごとなくなっていて僕や妹が自分の子どもであることは理解していない。「いつもよくしてくれているけど、私にとてあなたはお兄さん?」「違うよ、あなたのこ・ど・も」「そおかなあ」でも家事はできるようになってきて、昨夜驚いたのは味噌汁を作ってくれたのだ。おいしかった。
自分の子どものことは記憶から抜けているくせに、孫のことだけはちゃんと覚えている。すべての関心事は孫のことだけ。「僕は孫の親なんだからおばあちゃんにとって僕は息子でしょ」「ああ、そうか」まあ、とにかく元気だから問題はない。でも火の始末と迷子が怖い。この間も家の周りで迷ってしまったようだ。
米沢にもシノゴを持ってきた。今日もしばらく歩いたがシャッターを切ることはなかった。気楽に撮れない分よく見るようになる。明日は帰らなければならないから早起きして撮りに行こうと思う。米沢に帰らなければいけない事情ができたということは、米沢を撮るチャンスができたということだ。