「55歳からの新人賞」があってもいいのに

昼 「太田」の日替わり定食

おやつ いただきもののケーキ

夜 石焼ビビンバ、春雨チャプチェ、新玉のサラダ

近頃、大学時代の先輩が遊びに来てくれる。先輩はご飯を奢ってくれる。それがなんだかすごく嬉しい。最近写真が趣味になったという先輩は、写真集を買ったり写真展にも足を運び、京都グラフィにも行ってみると言っていた。写真って趣味として優れていると思う。いつからでも始められるし、知識欲も刺激される。

日本にはあまり根付いていないが、海外には「セカンドライフ」をアーティストとして生きる人たちが多い。ひとつのキャリアを終えて、次はその経験を活かしてアーティストとして活動する。人脈もあるし、資金面での心配も少ないし、いいことづくめのような気がする。「応募は35歳まで」みたいなアワードがあるけど、むしろ、「応募は55歳以上」という新人賞があってもいいのに。「55歳」にしたのは早期リタイヤを見込んでね。

毎年、ドラえもんの映画の新作が公開されると、必ず家族と観にいくという知り合いがいる。なにがそんなに面白いのか、興味が湧いたので、過去作をAmazonプライムでちょとずっと観ているが、今夜は2016年制作のもの。ご飯を食べながらプロジェクターで鑑賞。見終わった感想を書こうと思ったら、急に吐き気に襲われる。どうやら新玉サラダの食べ過ぎのようなので、今日はここまで。

 

<2018年4月9日の日記から>

「右」を写真に写すとすれば、、、  江古田から阿佐ヶ谷に場所を移して初めてのワークショップ。実を言うとまだ手探り状態で、はっきりしたカリキュラムはない。初回は写真雑誌『IMA』の最新号と本年度の木村伊兵衛賞のふたりを引き合いに、現在の写真の状況を説明していきながら、参加者が持参した写真を見ていった。このへんは2Bのときとあまり変わりはない。ひとつ大きな違いと言えば宿題があること。「iPhoneでも構わないから次回まで3枚写真を撮ってくる」だ。

そのお題は「右」

なんでもいいから右だと思うものを撮ってきてもらう。右って左の存在なしに説明するのは難しい。男を説明するのに女を抜きに語れないのと同じだ。当然撮った写真に正解などない。どう撮るかというより、どう考えるか。対話型美術鑑賞というのがあって、作家の意図や背景を抜きにして作品から感じるものをグループで話あうものに一度参加したことがある。「作家の意図はこうでした」という正解を探るものではなくて、自由に発想して発言しあう。とはいえ、自由にというのが意外と難しい。へんなこと言ったら恥ずかしいという気持ちもある。でも正解はないのだ。とっぴであればあるほど、対話はもりあがるし、他人の意見の面白さを受け入れることができる。MOMAがすすめているプログラムで、最近は学校や会社内でも行われているんだそうだ。条件さえよければiPhoneと最新ミラーレス機の違いはほぼない。誰が撮っても写真は撮れる時代だ。テクニックはAI化がすすめばすぐに陳腐化する。そのときに必要なのはむしろ撮ることよりも、見る力のような気がしている。100年前に「20世紀の文盲は写真を読めないことだ」と言ったのは誰だったっけ。そんな時代がきてるのかもね。新しいワークショップでは新しいことをやってみようと思っている。