なぜ熊谷直子の写真を          「うまい」と言ったのか

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渡部が言う「うまい写真」って何? 

 

今朝、最初に奥さんと話したのはアインシュタインの「E=mc²」でした。

なぜ朝っぱらからアインシュタインかというと、僕がいまオンラインでやっている美術史講座に、思想や哲学編もあります。その資料をつくっていたときに、出てきたのが「E=mc²」です。

どうして美術史の講座に、この物理が必要かというと、科学や宗教、思想などが美術史に大きな影響を与えているからなんです。

 

それと僕自身、なぜ『E=mc²』が原子力と関わるのか、いまひとつわかってなかたんですが、資料をまとめるにあたって、調べてみたら、「あー、そうか!」と納得した次第です。それで嬉しくて朝からアインシュタインの話になりました。

 

さて、今回の本題は『E=mc²』の話ではないので安心してください。

渡部が考える「うまい写真とすごい写真」のお話しです。

 

先日「2B Channel」にこんなコメントをいただきました。

「渡部さんは、『写真集を読む003』の回で、熊谷直子さんの写真を“すごい”“上手い”とおっしゃっていましたが、渡部さんが言ううまい写真とは、どのようなものですか」。

 

とてもいい質問をありがとうございます。これについての話は、現在の僕の写真に対しての考え方、ひいては「2B Channel」の方針とも関わってくる大事なことがと思っています。

 

まず質問された方は、熊谷直子さんの写真を見ても“うまい”とは思えなかたんでしょうね。それなのに渡部は「うまい、すごい」と言っている。「これはどういうことになんだ?!」ということでしょうか。

 

たしかに熊谷さんの写真を見ると、いわゆる一般的に言われる「うまい写真」とは離れているように見えますよね。

 「なにも考えないで、ただシャッターを押しているだけじゃないか」、「全然いいとは思えない」という意見がたくさん聞こえてきそうです。

 

では、なぜ僕が熊谷さんの写真を“うまい”“すごい”いいと言ったのか。

 僕は高校生の頃から毎日写真に触れていて、職業カメラマンとして40年も携わっています。だから、どのように被写体に光を当てて、どのような構図で撮れば見ている人が共感するか、納得してもらえるかといったことは、だいたいわかっています。毎日毎日、仕事でやってきたわけですから、うまい写真は撮れるようになりますよね。

 

ここで言う「うまい」というのは、「エステティック」で考えてみたいと思います。「エステティック」とは、「美しい」という意味ですね。

 「美しさはどこからくるのか」ということは、ほぼ解明されていて、写真の場合は“どこをどうすれば人は感動するか”ということがわかっていると言われています。

それを言語化することもできるので、多くの写真撮影のためのノウハウ本には、そのことも書かれています。

 つまり、エステティックがある写真とはどういうものかということは、だいたわかってきてしまったわけです。

 

ところが、この「うまい」というのは、“味”というものによく似ているんですが、たとえば料理では、同じ味が続くと飽きてしまいますよね。たとえそれが美味しいごはんでも、“味”というのは、常に前に食べた何かとの比較なわけですよね。だから絶対的に美味しいというものは存在しません。

 

写真の「うまい」もそう。

誰かと比べて「うまい」ということなんです。

 さらに、この「うまい写真」というのは、やればやるほど、追求すればするほど、「手癖」がついてしまいます。自分の経験でしか撮らなくなってくるんです。自分の経験値を最大限に発揮して「うまい写真」を撮ろうとします。

 

これがやっかいなんです。

経験を積めばつむほど、自分の首を絞めてしまうところがある。これは長年写真やっている人は、必ず経験すると思います。

 

もちろん、写真がうまくなる途中過程というのは、とても楽しいですよね。モチベーションも意欲もどんどん湧いてきますからね。

でも、ある程度のところまで行くと、「うまいって何だ?」って思うようになってしまう。つまり、一旦うまくなってしまう、どうしても“他人との比較”になってしまうからです。

極端なことを言えば、経験を積んで積んで、一旦うまくなってしまうと、恐ろしいことにその先には何もないんですよ。

「いや、もっと先はあるだろう」と思われるかもしれませんが、なかなかそう感じることはできないんです。

 

経験と知識で作り上げたうまい写真には、限界値がある気がします。あるとき、これに気がついて呆然としてしまいました。

 2014年、僕は写真集『prana』(プラーナ)を作ったときに、本当にそれを強く感じてしまったんです。これ以上何をすればいいんだとね。

モノクロプリントをもうこれ以上積み重ねても、次に新しいことが生まれる気がまったくしなかった。これについて、1年以上悩んでしまったほどです。

 

そのあたりから、僕はうまい写真にはまったく興味がなくなってしまいました。うまい写真をみても、「すごい!」と思える気持がまったく起こらなくなってしまったんです。あれだけ好きだったグルスキーの写真させも面白く見られなくなりました。僕は2000年代の初頭、グルスキーの写真がものすごく好きだったんですけどね。

 

熊谷直子さんの写真集に対して「すごい!」「うまい!」と言ったのは、そこです。つまり彼女の写真には、積み重ねのうまさをまったく感じなかったからなんです。経験に依存していない。上手さを全部捨てている。

 

彼女はプロカメラマンとして大きな仕事もしているとお聞きしました。にもかかわらず、そのうまさや経験の反映がまったく出ていないんです。

 これは、できないんですよ。本当に難しいんです。

一旦うまくなってしまったものを手放すというのは、ほとんど不可能に近いんです。これは、川内倫子さんの回でもお話していますが、そこがとても大きい。僕は、このうまさを消した写真に、ものすごく可能性を感じました。

それは凄いことだし、僕はそれが究極の上手さかもしれないと思っています。

 

「写真は経験が邪魔をする唯一の表現である」と言われることがあります。

「経験をまったく使わない写真をつくれるか」と、僕自身もよく考えていますが、その殻をどうしてもやぶれない。

だから、それをやすやすと超えている写真が目の前に出てきたら、「わー、上手い!」「すごい!」という言葉が自然に飛び出してしまいます。

 

今の若い写真家たちも、それをやすやすとクリアしているように見えます。彼らは上手い写真に全然こだわっていないし、そういう写真を撮ろうとも思っていないのかと思うくらい、編集のときにそれをあっさり捨てている。

単なる時代性では括れないものが、そこにありそうです。だからいつも注目しているんです。

 

僕はモノクロをやっていたせいもあるんでしょうね。

実はモノクロの写真やプリントは、どうしても積み重ねがないと完成しないんです。

だから、モノクロをやっている限りは、そこから抜け出せないんじゃないかという気がしたので、いまの僕の最新作「IN and OUT」シリーズでは、モノクロをやめてカラーにしています。

でも、それでもまだフィルムに依存しています。そこからは抜けられないというのが、自分の中では忸怩たるところ。

 

さて、最後にもう一度言います。

熊谷さんの写真は、知識と経験に依存してない写真をつくることができているので、「うまい」「すごい」んです。

だから、常に新しいことができる、先が広がっている写真なんです。