『じゃない写真』発売記念トークイベント

『じゃない写真 現代アート化する写真表現』発売記念 トークイベント

2020年2月5日 

銀座蔦屋書店

 渡部さとるx山田裕理 (東京都写真美術館学芸員)

 

  • 「愛について アジアンコンテポラリー」展

 

渡部 こんにちは、渡部さとるです。今日は、僕の『じゃない写真』の出版記念として、東京都写真美術館(以下、都写美)の学芸員山田裕理さんにお越しいただきました。伺いたいことがいろいろあって楽しみです。よろしくお願いします。

山田 よろしくお願いします。

渡部 山田さんは、早稲田大学を卒業後に「IZU PHOTO MUSEUM」に入られたそうですが、留学経験は?

山田 海外作家を担当することが多いので、よくそう聞かれることがあるんですが、実はないんです。

渡部 現代作家を扱うキュレーターの方々はイギリス、オランダ、ドイツなどに留学経験の方が多いようですね。

山田 そうですね、森美術館の館長である片岡真美さん、ブリジストン美術館(2020年1月に「アーティゾン美術館」へ名称変更)の副館長、笠原美智子さんなど、留学していた方は多いですね。

渡部 笠原さんは、以前は都写美のトップとして活躍していた方ですよね。山田さんは、その笠原さんと入れ替わりで入ってきたそうですね。

山田 はい、そうです。

渡部 笠原さんの後任として来たっていうのは、すごいですね。

山田 私は「IZU PHOTO MUSEUM」に3年半ほどいてから、都写美に来たのですが、決まった際に、笠原さんから「あなたは私の後任だから」とお電話をいただいて。もうその時は、「はい」とも「いいえ」ともお返事できず(笑)

渡部 笠原さんにそう言われたらしかたないですよね(笑)。そして都写美で、山田さんが最初に手掛けたのが『じゃない写真』の中でも取り上げている「愛について アジアンコンテポラリー」(2018年10月〜11月)展だったんですね。

山田 はい、そうです。

渡部 この展示の構成スタイルは、僕が2010年ぐらいに海外で見ていた展示とそっくりだったんですよ。実は当時僕は、なんでこの方式が海外でこんなにも受けているのかがわからなかった。写真自体は、地域及び身近な人たちを扱ったポートレートなんですが、どれも無表情で、写真を見ただけでは、なにも伝わってこない。それでテキストを読むとその背景がわかる。だけど、それがわかったからと言って、スッキリはしなくて、何かモヤモヤしたまま終わっちゃうということが多かったんです。海外に行ってテキストを読んでも、細かいところまで理解できなかったこともありますが、「なんでこれが写真なんだろう」とずっと思い続けていました。

 それが、今回出版した『じゃない写真』を書く、ひとつのきっかけにもなったことです。だから、2018年に「愛について アジアンコンテポラリー」をみたときに、「そうか! 都写美もとうとうここまできたか!」と(笑)。

山田 「愛について アジアンコンテポラリー」展は、中国、韓国、在日コリアン、シンガポール、日本、台湾の6つの地域の女性写真家にフォーカスした展覧会でした。笠原さんから引き継いだ企画でしたので、すでに日本の作家以外の5名については決まっていました。私は、そこに日本の作家を1名入れるようにと、笠原さんからのお題をいただき、構成しました。

 笠原さんは、社会学を学んでいたということもあって、ビジュアルよりは、いま、渡部さんがおっしゃったように、みるだけではわからない、その裏にある社会的な背景ですとか、難しい言葉出言うと、コンテクストを重要視する学芸員だなと感じました。

渡部 コンテクストを日本語に訳すと、「文脈」となるのだけど、これが非常に難しい。たとえば、アジアの中で台湾はどういうものなのか、香港はどういうものなのか、そういうことを知らないと読み解けないものが多いですよね。わかりづらいというか、どうみたらいいのかと。この写真展の評判はどうだったんですか? 

山田 タイトルが「愛について」だったんですが、それがまずひとつの難関。壁を越えなければいけなかった(笑)。女性のアジアの作家で、さらに「愛について」ってどういうことだっていう戸惑いが来場者に多かったのではないでしょうか。

渡部 要は「愛」っていう漠然とはしているものの、皆さんが持っている「愛の写真」とはまったくかけ離れた作品で、見てもさっぱり癒やされないし、心が温かくもならない。どちらかと言えば、冷たい表情の写真が並んでいましたからね。

山田 そうです。愛って人それぞれで、たとえば、荒木経惟さんの写真が「愛だ」っておっしゃる方もいれば、そう思わない方もいる。「愛」という言葉から思い浮かべる作品や作家は人それぞれですよね。さらに、あまり日本に馴染みのない作家を紹介したということもあって、戸惑う方もいらっしゃったかと。いい意味でね。

渡部 僕自身は、あの写真展はニヤニヤしながらみてしまった。たぶんほとんどの人がクビをひねってみて行くぞってね(笑)。なぜかというと、さっきも言ったように、10年前に僕もこういう展示を見たとき、ずっとそうだったから。そしてそれを理解するにも、結構な時間がかかりましたから。

 解決策というわけではないのですが、この展示について、僕なりに仮説を立てて『じゃない写真』の中で、ひとつのコラムとして書いていますので、最初に読んでもらうと、わかりやすいかもしれません。

山田 私たち学芸員も展覧会を構成していく中で、たとえば、「愛について」なら、この6人の作家たちの「愛」はすごく力強くて、何かを超えなければいけないもの、“愛は決して生ぬるいものじゃない”ということを伝えてくれる作家たちだと感じ、どうやってそれが伝えられるかを考えながら構成していきました。

 そういう意味では、『じゃない写真』は、ひとつの手がかりになると思います。実は、私たち自身も常に考えてモヤモヤしていることを、渡部さんが率直な言葉で表現してくださっているので、「そうそうそう」って思いながら読めました。

渡部 評論家の方に「我々には書けない」と言われちゃいました(笑)。あまりにもうかつなことばかりで、こんなふうに物事を切り取っていいのかっていうことなんでしょうね。でもしょうがないですよね、長年写真を生業にしている僕が困ってしまった話なので。率直にこういうことで困ったので、解決としては、こうじゃないかと書いちゃった。

 

  • 杉本博司の「今日写真は死んだ」

 

山田 この本の中で、杉本博司さんのことが書かれた「今日写真は死んだ」のコラムがとても印象的でした。2016年に都写美のリニュアルオープン時に行ったのが、杉本博司さんの展覧会だったのですが、そこでの渡部さんの感想が綴られていました。あらためてお伺いしたいのですが。

渡部 最初にその告知を知ったときには、杉本さんと言えば、日本を代表する写真家なので、当然の人選だと思いましたし、杉本さんの写真は森美術館でクロニクル的な展示を見ていたので、都写美もそうか思っていたんですよ。半分はそれを期待していました。劇場シリーズも自然史シリーズも全部観たいとね。でも、いざ行ってみたら3階には、写真がほとんどなかった。そこは見世物小屋のようになっていたんです。それも、彼がコレクションしているアンティーク物。化石から始まって戦後ぐらいまでの自身のコレクションが展示してあり、迷路のような感じで会場を巡っていく構成でした。

 2階に降りていくと、部屋が斜めにパーテーションで仕切られていて、片方の面には、「新劇場シリーズ」が展示してありました。これは、朽ちてしまった実際の劇場にスクリーンを張って、映画1本分映写するその光で、劇場内を撮っている作品です。

そしてもう片方の面には、京都の三十三間堂の千仏体を撮った作品が展示されていました。周囲の壁には、写真はありませんでした。

 まず感じたのが、片方は映画1本分の“刹那”で、もう片方の千仏体は“永遠”をあらわしていて、これは杉本さんがずっと考えている“時間”という概念を、非常にうまくレイアウトしているなと。

 だから、いまや杉本さんは、世界を代表するアーティストで、自らも「写真家」ではなく「美術家」とおっしゃっている方が、都写美のリニュアルオープンだからといって、クロニクル的なことを唯諾々とやらないということも理解できたし、ちょうど、その頃から僕自身、海外の写真展がどこもお化け屋敷化しているのを観てきていたので、抵抗はなかったですね。

山田 私もあの展覧会は、ある種の出来事的だったと感じています。写真美術館というのは、ある種の「権威」でもあって、ここで展示を行ったというのは、歴史となっていくもの。そういった場で、あのような展示ができたことは、大きな意味があったのだと感じています。

 もちろん、実際には賛否両論があったのですが、「これは写真じゃない」「これは写真だ」の境目がだんだんなくなってきている中で、現代アートの中の写真として位置づけていく第一歩だったのかなという印象はありました。

渡部 あれから、都写美がどんどん現代アート化していくのがみえて、いますごく好きなのが、2階に上がると、現代アート化している展示で、3階に行くとコレクション。地下は、いわゆるみんなが楽しめる写真を用意しているところ。みたい場所を選べるのがいいですね。

 

  • 展覧会は5年という期間をかけてつくりあげる

 

山田 渡部さんは、都写美のことをよくご存じでびっくりします。でも渡部さんのお話を聞いていると、ただここの展示をみているだけでは、絶対にわからないことですよね。海外のフェスティバルなどにもずいぶん行かれているからなんでしょうね。

渡部 香港で毎年行われているアートバーゼには5年間、写真だけではなくて、現代アートを含めて見に行っています。それからアルルのフォトフェスティバルも好きです。2020年も行く予定ですが、ここを体験すると、いま何が起こっているのかわかりやすいんです。美術館と違って、フェスティバルは、比較的すぐに開催できるものですから。先ほど、山田さんがおっしゃったように、美術館は権威あるものだから、企画にも時間がかかりますよね。どのくらい期間をかけるんですか?

山田 都写美では、5年前ぐらいに企画を出します。そこから徐々に展覧会に向けて動き出します。美術館によってばらつきはあるのですが、作家との関係を築いていくには、そのくらいの時間が必要になります。

渡部 2007年に海外の美術館関係者と会ったとき、同じ質問をしたことがありますが、やっぱり「短くて3年、普通は5年ぐらい」と言っていました。ただし、その年月をかけて作家と作品を作り上げていくので、「出来上がっている写真はいらないのよね」って衝撃的な話をされて、びっくりですよ。当時の僕は、完璧なプリントを目指していたので、完璧な作品をつくってプレゼンしようと思っていたら、「そういうのはいらない」って言われちゃったんです。

 「いまここにあるものを面白いから使わせて」っていうのがフェスティバルだとしたら、美術館は長いスパンを考えている。つまり、いま出来上がっているものは5年後には古くなってしまうから、その間に一緒につくっていきましょうというスタンスだった。それにすごくびっくりしました。

山田 作家を選ぶ段階で、その方が、5年後にもしっかり作品をつくっていけると判断しているということですよね。

渡部 都写美で毎年やっている新進作家展についても、5年前に作家を選ぶんですか?

山田 企画自体やコアな作家は5年前ぐらいに決めるますが、そこから変更したり追加したり。フィックスされるのはだいたい1年ぐらい前ですね。

 

  • テキストレスとお化け屋敷化する写真展

 

山田 渡部さんは、2007年から、そうやって海外で様々なことを見聞きされていましが、いま行かれると、また変わってきていますよね。

渡部 そですね。「愛について」のときはまだテキストがあったけど、最近ではこれがなくなってきた。読み解きを個人にゆだねることが多くなってきていますね。2018年の新進作家展「小さいながらもたしかなこと」は、テキストレスになっていましたよね。

山田 はい。ご覧になってどうでしたか?

渡部 実は、自分でやっているワークショップで、少し前に「これからはテキストレスの時代がくるぞ」って断言していたんですよ。それで見に行ったら、そうなっていた(笑)

山田 すでに先を読んでいたんですね(笑)。

渡部 なぜかと言えば、海外の展示がファンタジー化しているのを感じたていたからなんです。それまでは、先ほども言いましたが、社会的背景をベースにして、テキストをはっきりさせた作品が多かった。それがどんどん曖昧になってきて、いわゆる、現代アートというか、いろいろなものに依存しないタイプのものが増えてきた。何にも依存していないのであれば、テキストはいらなくなる。たとえば社会とか概念などに依存していると、それをカバーしていくようなテキストが必要になるけど、それをまったく無視しているから、「次が来た来た」って感じがしていたんです。

山田 写真は特に難しいですよね。私たちは、文字の情報に強い。たとえば、よくわからないポートレートがあったとして、そこにたとえば、「愛」とタイトルがついていたら、これはなにか「愛」を表現している写真なんだと思ってしまうものです。でも、私は、そういう見方はもったいないかなと感じていて。もちろん、作家さんの意図するものがあって、そういうふうに仕向けたいという場合もあるとは思いますが、そうではない場合は、まず文字から入ってしまうのは、もったいないと感じています。

渡部 実はね、我々の世代には呪いの言葉があってね(笑)。それが「あなたはこの写真で何をやりたいんですか」。これ、ずっと言われ続けてきたんです。そんなものはないのに、ムリムリ言語化が必要で、それを説明する行為が必要だと言われてきました。でも、最近の若い作家たちがいとも簡単に「ないです」って答えるようになってきましたね。

山田 たとえば、小説家は文字を書き言葉によって何か伝えるプロ。であるなら、写真家は言葉ではなくて、ビジュアルのイメージから何かを伝えるプロだと思います。もちろん、写真家の方で、言葉が上手な方もいらっしゃるんですが、それがマストではないと私自身も感じています。

 

  • 未来を予測し、いまの展示を考える

 

渡部 いま、都写美では写真をどのように考えているんですか? 先ほども「権威」という言葉がでてきましたけど、都写美に展示される写真は、もっともよい作品だと皆が思うし、たとえば、新進作家展に選ばれるということは、次世代を期待される写真家だと思ってみに来るわけですよね。都写美は、どういう基準で作家を選考しているんですか?

山田 現在、都者美には、13名の学芸員がいます。その中で写真、映像、それから、ワークショップなどを担当する教育普及と、大きく3つの部門に分かれています。展覧会は皆で関わりますが、作家選定については、学芸員にほぼゆだねられています。学芸員それぞれによって基準といったものは違っていると思いますが、私自身は、まずは美術館である以上、写真の歴史を作っていかなくてはいけないと思っていいます。

 ですから、金子隆一さん、飯沢耕太郎さんなど、近代写真のメイストリームをつくってきた方々は大事にしたい。加えてそこからこぼれ落ちているところは何かを考えて、それを拾い上げる作業も大事にしています。

 平行して、現代の作家のなかで、今後、何十年経ってから重要になってくる作家は誰だろうと考えながら選定しています。未来を想像しながら、いまの展覧会がどうあるべきかを意識して、現代作家の展覧会をやっていく必要があると私自身は考えています。

渡部 新進作家展は、毎年気になってみに行っています。

山田 新進作家展は、学芸員によっては、ベテランの方を選ぶ年もあれば、本当に新進の方を選ぶこともあるんです。写真家の方々にとって、登竜門的な展覧会になればと思っています。

渡部 2019年末の新進作家展「至近距離の宇宙」展では、わかりやすく言えば、ゲームの中のデジタル画像をキャプチャーして、それを一度モノクロネガに起こしてからゼラチンシルバーに焼き付けるという手法を用いた作家がいましたね。つまりこれは、現実を撮ってないわけですが、トークショーでこの作家の相川勝さんに「今後、あなたは写真家としてどのような活動をしてきますか」といった旨の質問をしたらしいんです。すると彼は驚いたように「僕は自分のことを写真家だと思ったことはないです」って答えたそうです。だからもう、写真家とか現代アーティストとかの概念がぜんぜんなくなっている感がある。それはある意味、ずっと写真を続けてきた者からすると、戸惑うというか、恐怖すら覚えるようなこと。これから写真はどこへいっちゃうんだってね。

 

  • 再び“記憶する、記録する写真”から離れようとする作家たち

 

山田 写真は、芸術や美術の中でもとても特殊なメディアですよね。なぜなら、何かを記録したい、記憶したいという欲望によって生まれたものなので。19世紀の早い段階で芸術としての写真は出てくるんですが、普通の方々にとっては、本当に記録するものでしかない。そういった環境のなかで、現代アートがはいってきて、どう一緒に考えていかなければいけないか、難しいですね。

渡部 だから写真は、過去に何度も何度も、“記録する”ということから抜けよういった試みがありましたね。昨年都写美でやっていた「山沢栄子 私の現代」展(2019年11月〜2020年1月)でも、自分で紙を折ったり絵の具を使ったりしたものを撮っていましたね。抽象画の方法論ですが、“現実を捉える、記録するものが写真だ”ということから、離れようとしているのがわかって、すごく面白かったです。

 それから同時期に、先ほども話した「至近距離の宇宙」(新進作家展)をやっていたんですが、この中で、作家の濱田祐史さんが、アルミホイルでつくった“山”を撮っていましたね。実はこれは、「山」とはこういうものだという概念を、皆がもっているから、それが“山”としてみえてしまう面白い展示方法でしたが、僕は、山沢さんと濱田さんがやっていたことは、地続きというか、しきい値が非常に低いように思えました。

 『じゃない写真』の中でも書いていますが、森山大道さんも中平卓馬さんもそれをやろうとしていたんじゃないかと僕は思っています。

山田 そうですね。やっぱり記録するものから離れたいという意識はすごく強かった人たちなんだと私も思います。

渡部 でもわからないのは、森山さんが「記録」という写真集を連続で出していること。そのへんが矛盾しているように思うんですが、それでも『プロヴォーグ』(3冊目で廃刊)を見ていると、あきらかに写真から離れようとしていたようにみえます。2018年に『プロヴォーグ』が再版されて、はじめて3冊をじっくりみることができました。それで3号目になると、もはや写真が写真として成立する限界のところをつくっているのがわかります。情報量を減らして減らして、たぶんコピーを重ねているんでしょうか、物であるかどうかわかるかわからないか、ギリギリのところで、止めている。

山田 それは、どの時代もありますよね。

渡部 それが最近、また強くなっているのを感じています。『じゃない写真』でも取り上げていますが、横田大輔さんの写真も、『プロヴォーグ』と同じ考え方なんじゃないかと。何度も何度もプリントを複写して、情報量を落としていくことをやっています。だから、また写真から離れようとしているんだなと。

 

  • “何事にも線を引いて右左に分けない”

 

山田 都写美で、昨年「イメージの洞窟 意識の源を探る」(2019年10月〜11月)と題した展覧会を行いました。企画・構成したのは、当時学芸員だった丹羽晴美(2020年より、東京都現代美術館に在籍)で、私が実務的なことに落とし込んでいくという役割で関わりました。6名の作家の作品を展示していましたが、その中のオサム・ジェームス・中川さんの作品は、沖縄の洞窟を撮影した「ガマ」でした。観に来てくださった方は印象に残っていると思いますが、入り口すぐの天井から、墨を染みこませたりサビをつけたりした和紙に「ガマ」がうっすらとプリントされている作品を半円状にして吊しました。実は、ジェームスさん自身もおっしゃっていましたが、来場していただいた方から「これは写真じゃない」って言われること多かったですね。

 では、何をもって写真と言うのか、ということがすごく難しくなっている時代なのですが、今後も、版画と写真だったり、和紙と墨だったり、違う物がミックスされているハイブリッドの作品はたくさん生まれてくると思います。でもそれを「写真じゃない」と否定したところで、何も生まれないですよね。

 『じゃない写真』を読んで感じたのは、タイトルは「じゃない写真」なのに、読んでみると、すべてを受け入れている。否定的な意味で「じゃない写真」を使っていないんですね。そこが現代的だなと。

渡部 それは、たぶん、ずっとわかなくていろいろと調べていくうちに、先ほども言ったように、ヨーロッパの写真を知るのは、宗教の勉強をしないとわかないと思って宗教を調べたていくと、今度は哲学を知らないといけなくなる。それで哲学を勉強していくうちに現代思想までたどり着いた。そしたら、ここで言われている唯一のことは「線を引かない」だったんです。

 だから、現代思想の根幹のようなところで感じた、“何事にも線を引いて右左に分けない”ということが、僕は一番の本質だと思ったんです。ということは、写真もそうなんだなって。「至近距離の宇宙」では、ついに写真ですらない作家がいましたよね。

山田 はい、そうですね。

渡部 観た方います? 八木良太さんという方の作品の中に、パンチングメタルの立方体があったんですが、これ、ただ置いてあるだけだったんです。その視覚効果が面白くて、これも写真だなって思ったら写真になってしまった(笑)。

山田 そう考えてみると、新進作家展や先ほどお話しした「イメージの洞窟」などは、「視覚芸術」なのかなと。

渡部 そうね、写真とはとらえずに視覚芸術と言ってしまったほうがわかりやすいですよね。

山田 最近は、体験型インスタレーションも増えてきていて、耳から入る作品もたくさん扱っています。私たちも現代写真寄りの展示では、視覚って何だろう、写真ってなんだろうと、問いなおしている展示が多いんです。

渡部 いまの若い現在作家は本当に面白いことをしていますね。「こんなの写真じゃない」って言わないで、食いついて噛んでみるとすごく楽しいですよ。

 

  • イメージを壊したティルマンスの『コンコルド』

 

渡部 現代写真がわかりすらいと思っている方は、この本の「ティルマンス」のコラムを読んでほしいです。彼の写真は、写真的にとても美しい。自身で写真を撮らない写真家として有名なトーマス・ルフが、「僕もティルマンスぐらいうまかったら、自分で撮っているよ」といった冗談めいた発言があったくらいティルマンスの写真はすごいんです。

その彼の写真集『コンコルド』が、書店に山積みされていた時代がありました。90年代中盤の頃で、僕は当時、商業カメラマンで作家としての活動はしていませんでした。だから、「コンコルド」と聞いたら、機体の美しさとか、メタリックな輝きなどを写した写真かとおもきや、なんと、コンパクトカメラで撮ったもの。しかも、ブレてるし、写っている機体はとても小さい。「なめてんなこいつ」って思ったら、当時の学生がこれにものすごく食いついていたんです。のちに僕のアシスタントになった子から、「学生の頃にコンコルドブームがあって、みんなこぞってこの写真集を買い、展示があると若い子たちで一杯でしたよ。でもある一定の層からから上は誰もいなかったんです」と聞かされて驚きました。

僕はこれがね、現代写真の「黒船」的な存在だったんじゃないかと、いまは思っています。そこに最初に飛びついたのが学生だった。なぜかというと、彼らはまだ写真のコンテキストを持ってなかったから。「これが写真だ」という言い方をしなくてよかったからね。加えて、ティルマンスは、ストリートファッション雑誌で有名なカメラマンだったんで、学生が知っていたというのもあるんでしょうけど。

山田 “かっこいいコンコルドの写真”と思ったら違ったといういまの渡部さんのお話、まさにそれが写真の面白さだと思います。普段、自分たちが持っているイメージが壊される(笑)。日常と写真に写っているものが、相互に関係していく面白さですね。

渡部 そう、コンコルドって言われた瞬間に、僕たちの世代が頭に思い描くのは、かっこいいコンコルドの機体ですよね。でもその情報が裏切られてしまう。

山田 いい意味でね。

渡部 そうそう。実はこの写真集をみてから、僕は実際にロンドンでコンコルドをみたことがあるんです。ヒースロー空港の端のほうに小さくね。そうしたらね、本当にティルマンスのコンコルドに見えちゃった(笑)。僕の頭のなかで、コンコルドに対するイメージを見事に書き換えてしまったという意味では、ティルマンスの力、恐るべし(笑)。

 

  • 新しい写真の流れは、実はひとつ下の世代から始まっていた

 

渡部 僕は1961年生まれです。僕と同じ世代の尾仲浩二さんは、「CAMP」という森山大道さんたちがやっていたワークショップの最終メンバー。つまりここが境目で、僕たちは、ある世代の一番下なんだと思っています。というのも、ひとつ下にホンマタカシさん(1962年)、ふたつ下が鈴木理策(1963年)さんがいて、皆さんご存じのように、彼らはこの世代の先端になるわけですよ。

山田 過渡期の世代なんですね。

渡部 そうね、それを意識するようになったのは、僕の下の世代が、あきらかに今までと違うことをし始めたからです。だから気にはなっていたけど、ホンマタカシさんたちの世代が、90年ぐらいからやろうとしていたことが、僕にはなかなか理解できなかった。2000年あたりから、それが薄ぼんやりとわかり始めてきてきた感じです。

 面白いのはね、ホンマさんも初期作ではタイの少年ボクサーを撮った、ストレートなモノクロポートレートがあるんです。それは旧来のドキュメンタリー風たけど、そこからずいぶん変化していきましたよね。

山田 ええ、2011年に新宿のオペラシティで、個展をされたときには、「ニュード・キュメンタリー」というタイトルが付いていましたね。

渡部 従来のドキュメンタリーじゃなくて、もうひとつ別のドキュメンタリーを考えようとしていたのが、ひとつ下の世代からというのが、ちょっと面白いなって思っています。

先ほど、ホンマさんが2011年に刊行した写真集『その森の子供 マッシュルーム フロム ザ フォレスト』の新装版を見ていたんですが、彼は本当に写真が上手いなぁとあらためて感心してしまった。だから、僕たちのように、美しさを追求した世代の写真をちゃんと受け継ぎながらも、違うものを入れ込めた最初の人なんでしょうね。

山田 渡部さんが、先ほど、最近の人はコンセプトを聞かれても「そんなのない」って答えるというお話がありましたが、ホンマさんもそういう方ですよね。「これ、どういう意味ですか?」って伺っても、「なにもないよ」ってはぐらかされてしまうことがあったりします。

渡部 あ、そうかもね(笑)。そう考えると、実は新しい写真の流れって、僕のひとつ下の世代からもうすでに始まっていたんだよね。

 

  • 「あ、これ、じゃない写真だ」

 

渡部 現代アートをみるときは、いろいろな人と一緒に見て話すほうが楽しいですよ。僕のワークショップの講座の中にも、「美術館めぐり」として7〜8人で都写美に行く日があります。そのための知識として、こんな作家がいて、こういう作品があるということを話した上で行くんですが、そうすると、みんな会場で話をはじめます。自分の感想と違うことを誰かが言うと、「あ、そうか」と、もう一度写真を見直す。そうするとまた違った感じに思えることもあったりして、会場を行ったり来たり(笑)。これがひとりで見に行くと、いまの都写美の2階の展示はつらい(笑)。クビをひねって帰ってくることになる。だから少なくとも、3人以上でいくと、かなり楽しいです。なぜかというと、答えがないから。

山田 答えがないっていうことがわかるからですね。

渡部 そうそう。それがわかっちゃうとすごく楽しくなります。だけど皆さん、どうしても美術館の作品には、答えがあるものだと思い込んでいでる。これはたぶん、僕らは、名画の解説とかをずっとみていたからかもしれませんね。たとえば、テレビでやっていた「美の巨人」を知っていますか? あれは、こういうストーリーがあって、作家のこういう思いがあって、心血を注いだ作品がこれですっていう番組なので、そういうものが現代写真にもあるって考えてしまうのかもしれませんね。そうなると、理解できないような難しい作品を鑑賞したら、苦しくなっちゃいますよね。

山田 そこが博物館と美術館の違いですね。博物館は歴史的なことで、私たちがまだ知らないたとえば西洋についての解説があったりして、そうした知識を得られる楽しさがある。一方美術館というのは、感覚的に愉しむ場でありたいと私は思っていて、その作品自体の面白さを得られる場が美術館ではないでしょうか。

渡部 昨年の新進作家展はまさにそうで、あれは、本当に楽しかった。さっきも言ったパンチングメタルの立方体などは、目を近づけたり離したりすると、干渉という現象で、模様が見えるんですよ。

 現代写真をみるキーワードのひとつは、これは「視覚芸術」だと思って、思考をちょっとずらして考えること。額面どおりに「何が写っているんだろう」と思いながらみると、怒りだす方もいる(笑)。では、どうやって思考をズラしたらいいか。頭が堅いとなかなかズレないんですよね。だから、いろいろなことを見聞きすることが大事だ。僕がいまの都写美の展示をみていて面白いと感じるのは、ずらすことに成功したからだと思います。

山田 現代写真と呼ばれるような展覧会では、「こんなの写真じゃない」ではなくて、「あ、これ、じゃない写真だ」と思ってみていただいたら、すごく面白いと思います。

 

 

山田裕理 (やまだ ゆり)
千葉県生まれ。東京都写真美術館学芸員。専門分野は現代美術史、近現代写真史。早稲田大学文学研究科修士課程修了。IZU PHOTO MUSEUM(静岡)にて「フィオナ・タン アセント」展(2016)、「テリ・ワイフェンバック」展(2017)、「永遠に、そしてふたたび」展(2018)を企画。東京都写真美術館にて「愛について アジアン・コンテンポラリー」展(2018)を笠原美智子と共同企画した。共著に『ロベール・ドアノーと時代の肖像 喜びは永遠に残る』(ベルナール・ビュフェ美術館、2016)など。