最後の1枚は何を撮る?

朝=山掛けおろしうどん/昼=鳥唐揚げ丼/夜=牛すじ煮込み雑炊

ひとりのご飯だと、どうしても肉が多くなる。作るのも面倒で。

水曜日の夜は2B Cnannelライブだし、GWの真っ只中にどこかに行く気もしないので、家で映画『浅田家』を見た。映画公開の時はコロナ禍でもあったし、なんとなく気にはなっていたけどスルーしてしまった。3年経ってAmazon Primeの配信が始まった。Twitterとかで聞こえてくる評判がとてもいい。いやー、不覚にも涙してしまった。強要される感動じゃなくて、腕時計のシーンが個人的に完全にハマってしまった。物語なんだろうが、浅田家のことが伝わってくる。浅田さんはお願い上手なんだな。これは写真家にとって重要なスキル「しょうがないなあ」と周りに言わせる「人たらし」の魅力。そして満面の笑みで「ありがとう、助かったよ」というのだ。そうすると頼まれた方は「まったく、今回だけだぞ」と言って助けてくれるのだ。浅田さんを突き動かしているのは、学生時代に先生に言われた「もし一生に後一枚しかシャッターを切れへんとしたら、お前は何を撮る?」という言葉だ。最後の1枚は大事なものを撮るだろう。その大事なものは何かと考えた結果、家族写真になった。GWに見るのにぴったりな映画だった。劇中に赤々舎の姫野さんが出てくる。これもツボでした。

 

<2005年5月5日の日記から>

近頃写真プリントの販売のことを考える機運が高まってきている。日本写真家協会の会報にも細江英公氏が現在のマーケットの動きについて解説していた。それによると、近年オリジナルプリントの値段は上昇し続け、数千万円単位での売買が行われているものもある。シンディシャーマン、トーマスルフなどは評価額をはるかに上回る額で取引され、日本の作家でも杉本博や荒木径推がオークションで高い評価を得ているそうだ。つい最近オークションで、ロベルト・ドアノーの「市庁舎前のキス」が2千万円で落札されてニュースになった。しかしあれは「写真家ドアノーとモデルになった女性本人のサイン入りの一点もの」という希少性につけられたもので、作品自体に値段がついたものではなかった。なぜ、認知度の高いドアノーの作品より、一般にまったく知られていない作家の写真が高値で取引されるのか? どんなに素晴らしい作品であろうとも「流通」していなければ価格はあいまいになる。画商が「作品」を「商品」として流通量をコントロールして購買意欲をかきたてなければならない。作家が勝手に値段をつけて売ってしまっては値段をコントロールすることは不可能だ。写真は1枚のネガから複数枚のプリントを作ることができる。そのため1点のイメージが大量に流通することにもなる。ドアノーの「市庁舎前のキス」も大量に流通しているもののひとつだ。そのため希少性を高めるために1枚のネガから何枚プリントを作るかをあらかじめ設定することも行われる、これは版画のエディション制からきているものだ。作品の端っこに23/75などと書かれているもので、これは75枚刷ったもののなかで23枚目のものだということをあらわしている。写真を商品として考えるならば、画商(ギャラリー)の存在は重要になる。個人的な売買での最大の欠点は、リセールバリューにある。画商を通して流通性のある作品(作家)であれば、数年後購入価格以上の値段で売れることも出てくる。20万円で買ったものが200万円になる夢も作品と一緒に買うことができるのだ。対して作家個人が販売している場合、流通性がないため、20万円で買った作品を、再び購入者が売ろうとしても値段がつかない。売る場所がないからだ。作家個人から作品を購入するということは、「作家を買う」行為に近いと思う。パトロンと言ってもいい。微力ながら作家活動を応援するという気持ちがなければ「購入」という行為までにはいたらないものだ。ここ数年、作品を買う行為を続けての結論だ。なかなか作品の魅力だけでは購入まではいたらない。作品の魅力プラス、画商が保証するリセールバリューなり、作家へのパトロン行為が購入決定には必要になると考える。