朝 焼鮭、だし巻き卵、納豆、ご飯、味噌汁
おやつ 鮭のおにぎり、肉まん半分
夜 冷やし中華
今日の学生とのzoomミーティングは「問いの立て方」について。
何か表現をしようとするときに、学問であれアートであれ「問い」から始まる。
違和感とも疑問点とも言ってもいいが、自分の中でおこる些細な感情から「それってどういうことだろう?」と考えることが何かを始めるときの動機になるわけだ。
学問であれば非常に細かい、誰も気にとめないことを掘り下げていくのだが、アートにおいてはもっとざっくりした、大雑把な問いを必要とする。
多くのアーティストが人種、性別、地域、環境などや、今問題となっていることを題材にしている。
欧米には切羽詰まった問題が山積みというか、目に見えやすいから、それに対して問題点を再定義したり、疑問を投げかけるものが多い。
それに比べて日本のアーティストは、愛、時間、老い、死、生など非常にプリミティブなことを題材にしている。
例えば、川内倫子は「生死」、杉本博司は「時間」、やなぎみわは「老い」、野口里佳は「高低」を表現に持ち込んで、個人を通して見る大きな物語を映像化している。これは日本において問題点が顕在化せず、見えづらいものになっているせいかもしれない。
ある学生が「ワンウォール」の公開審査を見たときに、ほとんどの説明が抽象すぎて理解ができず、ただひとり「なるほど」と思った作家の評価は「説明しすぎている」というものだったそうだ。
彼に「プレゼンは分かりやすいほうがいいのでは?」と聞かれて、僕はそのプレゼンを聞いていないのでなんとも言えないのだが、たしかに説明が過ぎると、見る側の自由度は下がることになる。
「こういうものを作りました。これはこういう意図があります。だからこのように見てください」と指示出しのようなプレゼンであれば「説明が過ぎる」と思うかもしれない。
現在では見せる側の都合だけではなく、見る側の自由が許されるものが求められている。
奥山由之は「断定しない」「曖昧な」という言葉をインタビューでよく使っている。
海外の作家でそういうことを言っているアーティストはいるのだろうか? イメージとしては、はっきりとした「問い」を立てている。日本人は「レンマの思想」と言って「どちらでもない」という考えを持っていると言われる。
その違いが「問い」を立てる時の違いになっている気がする。