エンブレム問題から見る社会学

昨年東大の講座を受けて修了証をもらったので、今年も座学を聴講できることになった。

 

昨夜は加島卓氏(社会学、デザイン史/東海大学文化社会学部准教授)による「エンブレム問題から考える社会とデザイン」の講義だった。

 

3年前に大炎上した東京オリンピックエンブレム問題について、専門家の立場から資料を集め「似てる、似てない」と白黒つけるのではなく、問題自体を考え直すものだった。

 

この講義の内容は「オリンピックのデザインマーケティング」(河出書房新社)がベースになっている。

 

アートとデザインは何が違うのか?これを日本のオリンピック委員会が理解していなかったためにおこった不幸だと言えるのではないか。

 

アートおいては「作者がどう作ったか」というプロセスはとても大事であり、見る側がどのようにとらえるかについては自由度が大きい。制作の決定権は基本的にアーティストが持つ。

 

一方デザインは「どう使われるか」がもっとも重要であり「作者がどう作ったか」などは見る側には何の関係もない。情報伝達に特化 され、デザインはクライアントが「使うもの 」であり、当然決定権はクライアントにある

 

あのときの釈明会見は「どのように作ったか」を修正案を公開するということまでして説明しようとしたが、炎上しているものにとっては「似てるかどうか」が問題であって、作者が「どう作ったか」を説明されたところで聞く耳はもたなかった。

 

問題となった佐野 研二郎氏のエンブレムは、丸三角四角を使ったモダニズムデザインであり、60年代に流行したものだ。本人も会見で1964年の東京オリンピックのオマージュであると言っていた。

 

東京オリンピックのときは天才デザイナー亀首雄策の「個人の卓越したデザイン」が有効だったが、現在ではデザインの完成度よりも、使い勝手の良さが求められる。

 

作り方の重視から使い方の重視へ、時代は変化しているのに選考委員は作り手の意図を重視しすぎた。実はロンドン大会でもエンブレム問題はイギリスで大炎上を起こしているが、ロンドン大会の委員会はは作り方ではなく、これからの使い方を説得することで沈静化させている。

 

結局、佐野氏のデザインは本人が取り下げ再度選考が行われた。選ばれたものは市松模様を使った一見地味なものだった。

 

市松模様をつかったデザインなど過去に無数にあるにも関わらず、一般的ゆえに似てる」問題とはならなかったのは面白い。市松模様であるがゆえに、誰でも流用可能であり、ユニバーサルデザインの様相を持っている。実に使い勝手がいい。

 

 

 

さて、これを写真制作におきかえてみよう。

 

行政が絡む芸術祭のように広く一般的に作品が使われる場合、作品の強度よりも、フレキシブルで使い勝手の良いものが必要になる。一点もののオリジナル性が高いものは管理上の問題から嫌われる。データでやり取りし、主催者側がプリントを作るのが主流だ。

 

使う側(フェスティバルの主催者つまりクライアしト)は、彼らの欲望を参加アーティストにはっきりさせる必要がある。そして最終的には、みんなが参加したという足跡が求められる。

 

主催者はテーマ(欲望)があるゆえ、作品を言葉、概念を使って見ようとする。「そういう風に見える」という定義づけが大事になる。ゆえに説明力が高いものは評価しやすいことになるだろう。

 

 

一方クローズドな空間、例えばコマーシャルギャラリーでは作品の強度が強いほうがいいし、作者は「どのように使われるか」を意識して制作しなくとも良い。言語的な説明行為もそれほど必要としない。造形の良し悪しが重要視される。

 

造形的な価値の追求は小さい規模で行う方がいいようだ。規模が大きくなればなるほど、私を捨てて私達になる必要がある。競争ではなく参加の意識だ。

 

発表する規模の大きさが作品の質を変えていく。唯一絶対的な作品というものは時代が求めていないのだろう。