鬼海弘雄『PERSONA』

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これまで、ロバート・フランクやウイリアム・クライン、ソール・ライターなど、海外の写真家の写真集の話をしてきましたが、今回は日本人です。

 

どの写真集を紹介しようかなと迷ったのですが、やっぱり一番好きな写真集にしました。僕が主宰する「写真のワークショップ」の初回に、必ず皆さんに見てもらう写真集があります。それが鬼海弘雄『PERSONA』です。

 2003年に発売され、2004年にこの写真集で土門拳賞を受賞しています。

 

今では鬼海さんの写真は世界中の美術館に収蔵され、アウグスト・ザンダーやダイアン・アーバスと同列で語られる日本を代表する写真家です。

 

鬼海さんは40年以上に渡り、浅草の浅草寺でポートレートを撮り続けています。写っているのは、浅草寺に来ていたごくごく普通人々。変わった仕草をするわけでもなく、表情が豊かであったりするわけでもなく、美しい光の中で撮られているわけでもない。一般に教えられているポートレートに撮り方とは、正反対。そして背景は同じひとつの壁です。

 

地方に講演に言った際、主催者が用意してくれた何冊かの写真集の中に『PERSONA』がありました。するとある参加者から「鬼海さんの写真のどこがいいのか教えてください」と声があがりました。その方にとって、この写真集は「全然面白くない」というんです。そこで『PERSONA』を開きながら、鬼海さんのことについて話をしました。

 今日は皆さんに向けて、お話ししたいと思います。

 

僕はたまたま鬼海さんと同じ山形県出身ということもあって、直接、お話を伺える機会が何度もありました。

鬼海さんは、写真を専門的に勉強したことはないそうです。ただ、写真家になりたいと思ったときに、現像とプリントを学ぶためにラボで何年か働いたことはあるそうです。

 

山形の高校を出ると、県庁で働くことになったそうです。でも鬼海さんにとって、その公務員の仕事がとても退屈だった。これはご本人がおっしゃっているのですが、「まったく実務能力がなかった」と。

 

それですぐに県庁を辞めてしまいます。では何をやろうかと考えたときに、自分は仕事をしてみて、あまりにも役立たずだったから「役に立たないことをやってみよう」と思い、一番役に立たなそうな学門として哲学を選び、法政大学に入学します。そこで運命の福田定良先生(哲学者)と出会い、それが鬼海さんの人生を大きく変えてしまったそうです。

 

福田先生と鬼海さんは、その後30年以上のお付き合いがあったそうで、鬼海さんが写真の道に進みたいと言った際に、まだ給料が数万円の時代に「これでハッセルブラッドを買いなさい」とポンと30万円を出してくれたそうです。

 

福田先生からは、哲学のこと以外にも多くのことを教わったそうです。特に映画は福田先生のフィールドのひとつだったので、鬼海さんも映画に興味を持ち、特にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(2016年死去)が大好きで、『PERSONA』には、ワイダの文が寄せられています。鬼海さんはワイダに会えたことが人生で一番嬉しかったと僕に話してくれたことがあります。

 

映画監督の道を目指そうと思った鬼海さんですが、映画は大勢の人が関わって、大きなお金も必要なので、なかなか厳しい世界です。その点写真はひとりでできる。

鬼海さんは、1970代の初頭にダイアン・アーバスの写真に出会って、写真家の道に進むことを決めたそうです。鬼海さん曰く、「見ても見ても見飽きない写真がこの世の中にあるんだと知って、衝撃を受けた」と話していました。

 

それから鬼海さんの写真のほとんどは、福田先生からいただいたお金で買ったハッセル1台で撮られています。レンズも標準レンズ1本だけ。被写体によって機材を変えたりすることはなくて、このカメラとこのレンズだけで撮れるものを撮ろうと決めたそうです。フィルムバックも長年、ひとつだったそうです。

 鬼海さんは、今でもそのハッセルを大事に大事に使っています。

 

実は海外の写真集もあり、特に『INDIA』が有名ですが、インドに行くときは35ミリを持っていくそうです。なぜかとうかがったら、一度はハッセルを持って行ったけれども、それが盗まれないか心配で心配で、それで35ミリにしたとおっしゃっていました。

 

鬼海さんは、たくさんのフィルムを使いません。大学を出てからしばらくは肉体労働をしていたそうで、その時に遠洋のマグロ船に興味をもって、280日も乗っていたのだとか。それなのにフィルム8本しか撮らなかったそうです。

ところが、このときの写真が『カメラ毎日』(現・廃刊)の編集者山岸章二さんに認められ、写真家になるきっかけのひとつになったそうです。

 

インドも同様に、半年以上も撮影に行っていたのに30本も撮らなかったそうですが、撮った写真の半分は作品になっています。

 

そういえば以前、鬼海さんと話している最中に、僕のカメラに興味を持ったようで、「触らせてくれ」とおっしゃったときがありました。

そのカメラにはフィルムが入っていたので、「鬼海さん、撮っていいですよ」と声をかけると「いや、減るからだめです」というんです。

思わず「何が減るんですか?」と訪ねたら「人間はシャッターを押せる回数が決まっている。無駄なシャッターを押したら、肝心なときに押せなくなる」と真顔でおっしゃった。

 

鬼海さんは、なんとなく撮った写真は1枚もないそうです。“撮って撮って撮りまくる”というのが当たり前だった時代でしたが、鬼海さんの場合は、“考えて考えて、考え抜いてシャッターを切る”ということを真剣にやっていた。ノリで撮るようなことはしないんですね。

 

「撮りたい物を探し当てるのが一番大事で、それが決まったら、あとは淡々と撮るだけ」という鬼海さん。

 

浅草寺のポートレートもそうで、浅草寺の境内で撮りたい人がやってくるのをずっと待っているそうです。

この「やって来る」とはどういうことかと言うと、鬼海さんはわざわざ探しに行かない。ある所で待っていて、そこにやって来た人を見て、「あ、この人撮りたい」と思ったら声をかける。でも、成功する確率は10回トライして1、2回だそうです。

 

わざわざ電車賃を払って来ているから、何か収穫をあげないと思うのが人の常ですが、鬼海さんは撮れない日が続いても、我慢する。この我慢が「凄く大事で絶対に妥協はしない」と。

 

面白いのはね、1日で2人撮れたらその日はおしまいにするんだそうです。そして浅草寺裏のお店に行って、煮込みで一杯やって「あー、今日はいい日だったな」と思って帰るのが楽しいとおっしゃっていました。2人以上撮らないのは「運は使い尽くしてはいけない」というポリシーからだそうです。

 

撮影スタイルは至ってシンプル。最初に声をかけ、二言三言話しかけると、ハッセルブラッドを構え、たんたんと撮る。ハッセルのフィルムは1本12枚撮りですが、1本で2人を撮っています。初期の頃は、1本につき3人撮っていたそうですから、シャッターを切る枚数は一人あたり4枚。ほとんど撮ってないですよね。撮影は5分もかからないぐらい短い。

 

ポーズはつけません。ただ立ってもらうだけ。立ち姿勢にだけはこだわるそうです。鬼海さんに「ポートレートで大事なのはなんですか?」と聞いたことがあるのですが、「首が大事だ」とおっしゃっていました。「首の座り方を見るとその人がわかる」とね。

 

鬼海さんは絵画も大好きで、特にイタリアの画家アメデオ・モディリアーニの話をよくしていました。

モディリアーニの描く絵は、首に特徴がありますよね。「あのろくろっ首のような長い首に、その人の人生が隠れている」と鬼海さんから聞いたことがあります。

浅草寺で鬼海さんが撮影している場所は、数カ所あるそうです。でも主によく使っているのは、中門横の社務所がある建物の壁。

当初は、境内のあちこちでスナップ写真のように撮っていたそうですが、あるとき、その壁の前で撮ったら、人物がものすごく映えたんだとか。それ以降は、この壁を使ってポートレートを撮り続けています。

 

『PERSONA』をずっと見ていると、あることに気がつきます。背景にしている壁にある柱が、人物の右横になっている場合と左横になっている場合があります。

ここに鬼海さんの写真の重要なポイントが隠されています。

 

実は、この壁は、とても撮影条件がいい場所なんです。上は中門の張り出した屋根が被さっていて、なおかつ社務所建物の軒下。でも、左右からは大きな光が入り込んでくる。これはポートレートを撮るには、うってつけの光が入ってくる場所です。

特に、晴れた日は、向かって左側の壁にきれいなグラデーションが生まれます。人物がとてもかっこよく撮れるんです。

 

でもそういうとき、鬼海さんはあえて右側の壁で撮っています。そうすると、光がフラットになって、人物の陰翳がなくなります。なぜなのか。

 これが『PERSONA』で最も大事なポイント。

もし1枚のポートレートとして成立させるのであれば、グラデーションが豊富な左の壁を使うほうが圧倒的にいいんです。

 

でも『PERSONA』は、長い時間をかけて作り上げている作品です。あるときはよく晴れて、すごくいいグラデーションでかっこよく撮れる人物がいた。でも、ある人は曇り空だったからそうは撮れなかった。そんな差があってはいけないんです。いつも一緒にしたい。40年の時間を積み重ねるためには、1枚1枚が同じほうがいいということです。

 

鬼海さんは常々「人間を撮りたい」とおっしゃっています。

とても哲学的な話です。

人間を撮りたいということは、ある特定の人物ではなく、人間そのものですから、ひとつひとつに差異をつけない。この人はよくてこの人はよくないというような序列を付けず、「すべてを等しい価値にして扱いたい」ということ。これを「等価」といいますが、この考え方は哲学では非常に重要なキーワードになっています。

 

人間を「等価」に撮影するためには、距離も光も常に一定の条件化にすること。もちろんカメラもフィルムも、印画紙も常に同じす。おそらく露出もほとんど一緒なはずです。これによって、一人ひとりに差を付けない撮り方ができる。

 

実はこれ、ドイツの写真家として有名なベッヒャー夫妻が撮った給水塔や工場のシリーズとまったく同じアプローチです。

ベッヒャー夫妻も、それぞれの写真に差が出ないように天候を厳密に選んでいるし、被写体に対しての角度も同じになるようにアングルを決めています。

 

鬼海さんが浅草に通い始めたのが1973年からで、この壁をバックにポートレートを撮るようになったのは1985年頃からだそうです。

 

ベッヒャー夫妻が、世界的な評価を受けたのは、1975年。ジョージ・イーストマン・ハウス美術館で行われた「トポグラフィクス」展でした。

 

物事を「等価に扱う」という考え方は、脱近代美術の中でも非常に重要なポイントになっています。

 

鬼海さんの作品は、こうした世界の写真の動向と同じように作り上げています。人の写真はほとんど見ないとおっしゃっていたので、直接の影響はないのでしょうが、時代がそうさせたのかもしれないですね。

 

僕は、これまでに運良く2度、浅草寺で鬼海さんにお会いしたことがあります。僕が主宰しているワークショップのカリキュラムの中に、浅草寺実習という講座があって、そのときには「鬼海さんの壁」でポートレートを撮るのを恒例にしています。そこでばったり遭遇し、鬼海さんの方から「渡部さとるさんではないですか?」と、どこか山形訛りで声をかけていただきました。

 

2度目に声をかけていただいたときには、こんなチャンスは二度とないと思って、鬼海さんに「鬼海壁」に立ってもらい僕のローライで撮らせてもらいました。

 

その日は晴天でした。僕は鬼海さんに「右、それとも左ですか?」と尋ねるとニコッと笑って「今日は右」とおっしゃいました。「露出は?」と尋ねると、「1/125秒で11と半くらいかな」とも。

 

でもね、僕は1/125だとブレそうな気がしたので、1/250で絞りは8と1/2で撮りました。慎重にピントを合わせ、シャッターを切ったのは4枚。

緊張というよりも、何かが溢れてくるような感じで鬼海さんを撮影したのを今でも覚えています。

 

さて、『PERSONA』の楽しみ方のもうひとつ重要なことは、写真1枚1枚に添えられている文章です。

文字数で言えばわずか数十字。でもそれを読むと、写真がとても深く見えてきます。その背景が、その数十文字で伝わってくるんです。

 

たとえば、“中国製カメラ「海鷗」を持った青年 1986”という写真があります。これだけで見ればなんの変哲もない1枚ですが、その隣り合うページに“四十歳になったという、中国製カメラを持っていたひと(15年後)2001”があります。

まるで別人のようですが同じ人。ふくよかだった青年は随分やつれて見え、15年の間に、いったい何があったのかと思わざるを得ないような変貌ぶり。そこに流れた時を考えてしましまいます。

 

これを見てびっくりした僕は、鬼海さんに「よく同じ人だと分かりましたね」と尋ねたら、「最初は気がつかなかったけど、ちょっと右足を引きずるような歩き方やしゃべり方、そして一度撮られたことがあると言っていたので、後日、ネガを探して顔をアップにしてプリントしてみたら、同じところに傷があった」そうです。

 

鬼海さんは常々「写真にできることは時間の堆積だ」とおっしゃっています。この堆積をよく現しているのが、まさにこの2枚の写真だと思います。

だからこそ、常に同じ条件で撮られているということが、非常に重要になる。

 

たとえば、青年のときにいい光の下でかっこよく撮れていて、40歳のときにはいい条件のもとで撮れなければ、その差が出てしまう。でも、同じ条件で撮られていたら、そこで変わるのは時間だけということ。

この2枚の写真の面白さというのは、同じ条件で撮られているからです。

 

そのほかにも、“真新しいスニーカー履いている男 2002”とか“二十八年間、人形を育てているというひと 2001”などなど、様々なキャプションがついていて、それを見ていると本当に楽しくて、見飽きることがない写真集です。

鬼海さんは文章も上手で、著作も残しています。ストレートな表現なのに、その奥に潜んでいるものが浮き上がってくるような文章です。

 

僕は鬼海さんにお会いするたびに言われるのは、「写真家というのは、写真が写らないというのを自覚しなければいけない」ということと「1本の川の流れのように生きなさい」ということです。

「雨が降って小さな流れになって、それが合わさって川になって、それが上流から下流までひとつの筋になっている、そういう写真を撮るのが大事だ」とおっしゃいます。

 

僕はこれを、本当に重い言葉として受け止めています。

 

実は、このチャンネルをはじめるときに、いちばんに話を聞きたかったのが鬼海さんでした。今なら鬼海さんの言葉が少しは理解できるかもしれないという思いです。

残念ながら体調を崩されていて、それは叶わなかったのですが、鬼海さんの体調が戻られたら、是が非でもインタビューしたいと考えています。

 

そういえば「鬼海さんって、どうやって食べているのですか?」と、ぶしつけな質問をしたことがあります。

 そんなときも真剣に「写真で食べていこうなんて思っていなかったから続けてこられたんだよ。ずっと新卒の会社員より稼ぎ少なかったから」と答えてくださいました。

 

写真集はwebで見ても、なにも伝わりません。

これで見た気にならず、是非とも実際に手に取って見てみてください。残念ながら、『PERSONA』は絶版になっていますが、2019年に『PERSONA最終章』が出版されています。これも非常にいい写真集なので、手にとって、その重みやページの感触や印刷の良さといったものを感じてください。

 

鬼海さんが、ダイアン・アーバスの写真は「何度見ても見飽きない写真」とおっしゃっていますが、僕にとっての『PERSONA』が、まさにそれです。

 

おまけのお話です。

僕が持っている『PERSONA』は、鬼海さんが土門拳賞を受賞されたときに行われたニコンサロンでの記念写真展で、ご本人から直接買いました。

値段は1万円程で、それに見合った印刷のクオリティとボリュームなんですが、

「こんな高い本買ってくれてありがとうね。サイン入れるよ」と言っていただいたので、僕は芳名帳に書いた自分の名前を指さして「渡部さとるです」と言ったら、鬼海さんは「渡辺」と「部」じゃなくて「辺」の方を書きました。

 

「まぁ、しょうがない、よくあることだし」と思っていたら、なんと鬼海さんが続けて「とおる」と書くではありませんか。

 

まったく違った名前になってしまいました(笑)。

鬼海さんらしくていいか、とそのまま何も言わずに受け取りました。

 

すると翌日、ある編集者から電話がありました。

その方は鬼海さんと僕の共通の知り合いで、「鬼海さんから、渡部さんに名前を間違えてごめんって謝ってほしいと電話がありましたよ」と笑って伝えてくれました。

 

そうです、鬼海さんは名前を間違ったのは気がついたのだけど、1冊1万円の本ですから、引くにひけず、そのまま渡しちゃったそうです。

 

僕はその電話に爆笑してしましました。

それから鬼海さんの大ファンになりました。

鬼海さんとお話する機会が増えたのも、この『PERSONA』のおかげです。