『PROVOKE』(プロヴォーク)
今日は、『PROVOKE』を取り上げます。この3冊は、日本の写真界の分節点。非常に大きな切れ目になったものです。
『PROVOKE』は1968年、美術評論家の多木浩二、写真家の中平卓馬と高梨豊、詩人の岡田隆彦の4人が集まって創刊された同人誌です。
第2号目からは、森山大道もメンバーとして参加し、第3号まで続きますが、それで一旦は終了。その後、1970年に総括集『まずたしからしさの世界をすてろ』の刊行を最後に、グループは解散しています。
僕自身、以前から『PROVOKE』の存在は知っていました。しかし、すでに稀覯本となっていて古書店のガラスケースの中でしか見かけることがなく、持っている友人もおらず、「日本の写真を変えたムーブメントだった」と写真史の中で語られていても、中身を知ることは叶いませんでした。
2001年にドイツの出版社シュタイデルから出た『JAPANESE BOX』の一部に、この『PROVOKE』の復刻版も入っていたのですが、これも手に入れることができず、ずっと幻の本でした。
それが2018年、創刊50年を記念して二手舎から完全復刻版が出版されて、僕は始めて3冊の『PROVOKE』を手に取り、その内容をじっくり見ることができました。
ちなみに、2020年4月現在、二手舎のサイトを見たところ、残念ながらすでに販売は終わってしまっているようです。
僕が写真に興味を持ったのは、中学3年生でした。
1875年に初めて『アサヒカメラ』を買いました。きっかけはカメラが欲しくて、その広告を見たかったからです。その雑誌の中で、一番かっこよく見えたのが、オリンパス「OM-1」。それが決め手になって僕にとっての最初のカメラとなりました。雑誌広告の力は絶大だったわけです。
さて、当時の『アサヒカメラ』の記事はというと、いまのように、手取り足取り撮影のノウハウを教えてくれるような感じではなく、いわゆる写真の啓蒙が中心でした。“写真とはどういうものか”“写真が果たす役割は”というようなことが盛んに論じられていましたから、中学生の僕には、その書かれていることの半分も理解できないほどでした。
そんな中でも印象に残っているのが、中平卓馬と篠山紀信の「決闘写真論」。これは毎号巻頭に掲載されていたのですが、文章をいくら読んでも何一つ理解できず。その頃は高校生になっていましたが、何の知識も経験もなかったので当たり前ですよね。それでも「これは読まなくてはならないもの」だという、強いエネルギーのようなものを感じていました。
僕はそれから写真に興味が湧き、毎月『アサヒカメラ』を買うことになります。
その時代に誌面を飾っていたのは、やはり篠山紀信、中平卓馬、高梨豊、そして森山大道でした。ほぼ固定と言っていいくらいです。当時の若手は第一回木村伊兵衛賞を受賞したばかりの北井一夫です。
そして僕がいちばんに影響を受けたのは森山大道。何も知らずとも単純に“カッコイイ”と思えたからです。
僕も森山さんの真似をして、荒れた粒子を出したくて、自分でフィルム現像するようになり、それでますます写真にのめり込み、それが高じて日芸の写真学科に入学したというわけです。とにかく刷り込みみたいなものですから、そこに出ている写真が僕のベースになったわけです。
大学で写真の勉強を始めると、この『PROVOKE』という同人誌がとても重要だと言われていました。しかし残念なことに、その当時で発刊から10年以上経っていたので、実際に見る機会はありませんでした。
それに、僕が大学に入った1980年は、すでにそんな時代ではなかったんです。森山大道も中平卓馬も、友人の間で話題に上がることはありませんでした。それよりも、当時は華やかだった広告カメラマンの話をしていた気がします。
でも僕は、ずっと『PROVOKE』のことは気になる存在で、いつか見たいと思っていました。これが写真史に重要なものだと知っていましたから。
先ほどもお話しましたが、たった3号で終了したこの『PROVOKE』。これがいまでも語られるのはなぜか。今日はこれをお話していきたいと思います。
その前にまず、戦前から前後にかけての日本の写真について触れておきます。
戦前から戦中にかけて、名取洋之助が設立した「日本工房」というのが、非常に大きな存在でした。これは日本のプロパガンダのための雑誌をつくっていて、後にそのなかで土門拳も働いていました。
その他にも、グラフィックデザイナーの河野鷹思や亀倉雄策といった、戦後の写真やデザインの中心的存在になる人たちがいました。
戦後になると、写真雑誌が次々と創刊され、そのなかで、木村伊兵衛と土門拳が「リアリズム写真宣言」をします。
情報のない時代に、雑誌は絶大な影響力を持っていました。だから戦争中はプロパガンダ雑誌を使って、写真で嘘をついていたわけです。
この「リアリズム写真宣言」は、「写真の真実性を取り戻さなくてはいけない」という運動のひとつだったんだと思います。
そして、“写真を撮る場合には、何か手を加えてはいけない、演出してはいけない”という考え方が、「絶対非演出の絶対スナップ」という言葉になって、広まっていきます。この時期の日本の写真はあきらかに多様性を失い、戦前に関西を中心に盛んだった芸術写真は姿を消してしまいました。
その次に現れるのが『VIVO(ヴィーボ)』です。
これが新しい写真の時代をつくっていきます。
『VIVO』は、川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明、奈良原一高、細江英公が集まって、セルフエージェントグループをつくりました。これは写真家の権利を守るために集まった『マグナム』と同じ発想です。
いまでもそうですが、個人で企業と渡り合うにはいろいろな問題が出てきます。そこで、エージェントシステムを組むことで、個人の権利、写真家の権利を守ろうとしたわけです。
このメンバーの中で、当時もっとも人気があったのは、東松照明。バリバリの若手で、雑誌で非常に人気がありました。彼は、戦前から戦後にかけて写真界のボスキャラ的な存在だった名取洋之助に対して、『アサヒカメラ』誌上で喧嘩をふっかけたことがあります。
その時の論点を要約すると、名取洋之助が「東松の写真はいま人気だけど、主観が入りすぎていて、ジャーリズム写真とは言えない」というものでした。
それに対して東松照明は次号の誌上で「そんなもの、やっているつもりはない」と反論します。
つまり、「写真は雑誌に載せてたくさんの人に情報を与えるものだから、カメラマンの主観は排除すべきだ」という名取の意見に対して、「主観で写真を撮って何が悪い」と反論した東松照明。これが「名取・東松論争」として、けっこう話題になりました。
ここで「主観」という言葉が出てきます。
まず、東松照明が当時活躍していた場所は雑誌です。雑誌における写真の役目というのは、情報を伝えることなので、それをたくさんの人に見てもらうのが使命。だから、その情報を伝えるときに、カメラマンの主観が入ってはいけないというのが、当時の考え方でした。客観的に物事を捉えようということです。
それに対して、『VIVO』の世代というのは、「主観を出していこう」という考え方。わかりやすく言うと、『VIVO』は主観写真の時代と考えていいと思います。
これは世界的な流れとも連動していて、その当時、作品に自分の感情や意識を入れていこうという動きが出てきています。戦前のドイツでは、すでに「主観写真」という言葉が生まれていて、それが日本にもやってきていたわけです。
いまとなっては、当たり前にように思えるかもしれませんが、戦争直後は「主観」は「じゃまもの」と言われていました。なぜなら、日本全体が一斉に復興に向かわなくてはいけない時に、「我が我が」という考え方は歓迎されないですよね。
それが1950年になってくると、一旦落ち着き、そのあとに「主観」という話が出てきたわけです。それが『VIVO』の時代。
さてその『VIVO』と、今回紹介する『PROVOKE』は、完全に連動しています。
というのも、メンバーのひとりである森山大道は、東松照明に憧れて関西から上京し、同じ『VIVO』メンバーの細江英公のアシスタントをすることになります。
そして、中平卓馬は、左翼系思想雑誌『現代の眼』の編集者で、東松照明に原稿を依頼したことがきっかけで写真家になります。どちらも東松照明に大きな影響を受けていることがわかります。
1960年代、中平卓馬と森山大道は常に行動を共にしていたくらい身近な存在で、お互いに影響を与え合っていたそうです。
先ほど、中平卓馬は思想雑誌の編集者だったと言いましたが、1960年代は日本でも思想と哲学の時代だと言えます。
フランスの哲学者サルトルが、来日して講演を行ったことがありますが、まだインターネットのない時代なのに、3回の講演はすべて超満員だったそうです。サルトルの話を皆が熱く聞いていたそうです。1960年代というのは、思想や哲学が非常に有効なものだったんですね。
そしてその時代に新たなる思想として、「構造主義」が生まれます。この構造主義は物事の見方、考え方をひっくり返してしまうんです。
サルトルが「主観」だとすると、「構造主義」は「客観」。
これは非常にざっくりした言い方ですが、そこで物事の捉え方が変わるという時代が1960年代に起こります。
この時代、ニューヨークではポップアートが盛んになり、アンディー・ウォーホルが一躍時代の寵児になります。このポップアートは、それまでの美術の考え方をガラリと変えてしまいました。
そして、同時期につくられたのが『PROVOKE』です。
そう、彼らも間違いなくそれまでの考えをひっくり返そうと考えて出したはずです。そうでなければ、『PROVOKE』を発行する意味がないんです。商業的に儲けようという考えでつくったのではないでしょう。“いちばん新しいことを写真でやってみたい”ということだったのではないかと思います。
ただ、『PROVOKE』の発行当時、多くの人に受け入れたれたかと言えば、おそらくそうではなかったでしょう。
世の中というのは、どの時代においても、新しいことをすぐには受け入れないし、馴染みのないものに、人は拒否反応を起こしますからね。
それでも、“いちばん新しいことをやらなければならないない”という時代の中にあって、動かざるを得なかったのではないでしょうか。
さらに日本の1960年代というのは、10年に渡る学生運動がおこった時代でもあります。政治も思想もそして写真も変わろうとしている時代だったわけです。
以上のことを踏まえたうえで、ここからようやく本題です。
まずは『PROVOKE』の判型からご紹介します。A4よりひと周りくらい小さい簡易製本の小冊子です。1号目は正方形のサイズですが、2号目と3号目は縦長サイズになっています。
本の副題には「思想のための挑発的資料」とあります。
序文には、なぜそのような副題がつけられているのかを、参加者連名の形で書かれています。
冒頭の数行を紹介しましょう。
「映像はそれ自体としては思想ではない。 観念のような全体性をもちえず 、 言葉のように 可換的な記号でもない。しかし、その非可逆的な物質性 ————
カメラによって切りとられた現場————は言葉にとっては裏側の世界にあり 、 それ故に時に言葉や観念の世界を触発する。」
「可換的な記号」というのは、たとえば、「カメラ」と言った場合、聞いた人は、カメラの形と機能を思い浮かべますよね。つまり発語することで、何かと結びつくということです。これを「記号」だとすると、“そういうものは写真にはない”と『PROVOKE』の冒頭で述べているんです。
これが『PROVOKE』を見るときに、重要なキーワードになっているようです。
創刊号に森山大道は参加していません。初期メンバーは高梨豊、中平卓馬、多木浩二、岡田隆彦の4人で、首謀者はどうやら中平卓馬だったようです。
高梨豊、中平卓馬、森山大道は写真家ですが多木浩二は批評家で、岡田隆彦は詩人です。しかし多木浩二は3号とも写真で参加しています。
1号目は、岡田隆彦の文章から始まっています。何度も読みましたが、非常に難解で未だにその意味を把握することはできていません。
続いて多木浩二の写真で、タイトルは『1968・夏・1』。同じタイトルで『1968・夏・2』で高梨豊、『1968・夏・3』で中平卓馬と続きます。タイトルに意味がないということですね。ただの年代と数字が書かれています。
多木浩二の写真は、キャプションを読むと、どうやら東京のドヤ街、山谷を撮ったもののようです。
冒頭の文章で、「可換的な記号ではない」と述べているにもかかわらず、1号目では、何が写っているかは、まだはっきりわかるような写真です。
写真のトーンはコントラストが高くて、黒っぽいものが多いです。これは、当時の印刷のクオリティの問題もあるのでしょうが、中間調があまりなくて、ハイライトとシャドーがはっきりわかれたような写真です。
続いて2号目。表紙は白からグレー、判型は縦長に変わります。そして、この2号目だけ、黄色い帯がついています。そこには「大股びらきで堪えてさまよえ! 特集エロス」とあります。
紙質については、1号目はマット系に対し、2号目は光沢のあるコート紙になっていて、そのせいで前号より印刷は良くなっています。
この号から、森山大道が参加しています。ページの順番は中平卓馬、森山大道、高梨豊、多木浩二、そして岡田隆彦のエッセイと続いています。
中平卓馬と森山大道の写真は黒が基調で、高梨豊、多木浩二はハイライトが目立つような印刷になっています。
2号目は、1号目の延長のような感じがします。2冊を比べてみても、特別変わったようなイメージはありません。ただ、1号目よりも2号目のほうが「何を撮っているのか」「どこで撮っているのか」「何の意味があるのか」というものが徐々に消えています。そして、いかにきれいに現像するかを考えていた時代に、ザラザラとした粒子のノイズ感が、確かに1号目より目立つようになってきます。とはいえ、当時から見ても“挑発”とまではいかない気がします。
ところが3号目になると様相は一変します。
表紙は赤となり、まさに「PROVOKE」の意味するところの、“挑発感”が増してきます。紙質も2号の光沢紙から、完全なマット紙になり、中間調をまったくなくしたといってもいいぐらい、手にインクがつきそうな真っ黒な印刷になっています。
写真が写真としての機能をほとんど果たしていない感じで、白と黒のふたつのトーンしかない。
これは、おそらくですが、プリントしたものを当時のゼロックス(コピー機)に何度もかけることで中間調を削って、黒と白だけの荒れた画像を作り出しているのではないでしょうか。
これはなんでもそうですが、コピーを何度も繰り返すと情報量は減っていきますよね。それを利用して写真の情報量を減らしているということです。
そのため、写真のグラデーションは消えていきます。情報量を失うごとに「何かを伝える」といった写真の役割もどんどん失われていきます。
当時、写真は「何かを伝えるもの」と考えられていたときに、そうした写真の機能・役割を、どんどん削っている。それが失われるギリギリの部分はどこかということを模索しているように見えます。
多木浩二は執拗に顔のアップの写真を並べます。わざわざ「観音開き」という、印刷上コストのかかることまでして、連続性を重視しているように思われます。
「顔」というのは、顔認証というくらい、その人を特定するもの。本人を特定するものとして使われますよね。つまり顔写真は、特定の人と結び付けるというのが写真の役割なわけですが、それを壊しているのが、多木浩二の写真です。
情報量を消して、白と黒だけにすることで、顔として認識できなくなっている。ある写真では、風景にすら見えてきます。
森山大道はスーパーの棚に整然と並んでいる缶詰を撮っています。缶詰に貼ってあるラベルが、わかるかわからないかギリギリのところまで情報量が落とされています。商品のラベルというのは、中身がどんなものであるかを現す、いわば「記号」なわけですが、ここでもその役目を消そうとしています。
これを見ると、アンディー・ウォーホルの「キャンベルのスープ缶」を思い出さざるを得ません。彼は1960年代、当時のアメリカで大量に消費されるものを、多くの作品に残していて、キャンベルのスープ缶の絵もそのひとつです。
これを森山大道が知らないわけがないし、その後、森山大道はシルクスクリーンでも作品をつくっています。このシルクスクリーンも、アンディー・ウォーホルがアートの中に持ち込んだもののひとつです。
こうして見ていくと、『PROVOKE』が3号通してやろとしていたのは、「写真が何かと結びつくことを拒否する」「何者にも依存しない写真をつくりだす」ということだったのではないかと思います。
写真が写真として自立するにはどうしたらいいかと考えたときに、彼らは情報量をどんどん削っていって、写真的な役割から離れようとしていたように思えます。実はこれは、現在においても常に考えられていることです。
繰り返しますが、『PROVOKE』は3号目で終わり、1970年に総括集『まずたしからしさの世界をすてろ』の刊行を最後に、グループは解散しています。
確かに、もうこれ以上やっても、次に繋がるものは見いだせないようなものになっています。これ以上情報を削ってもしょうがないところまで3号目は来ています。これで終わりにするしかないという感じがします。1号、2号の延長ならいくらでもできたでしょうが、3号目をつくったことによって、『PROVOKE』は終わってしまったのでしょう。
ところが、皮肉なことに、次世代にとって、『PROVOKE』がやろうとしていたこの“荒れ、ブレ、ぼけ”という反写真的な行為が「カッコイイ」スタイルになってしまいました。写真のことをまだ知らなかった高校生の僕にとっても、森山大道や中平卓馬の当時の写真というのは、真似をするほどかっこよかったんです。
『PROVOKE』は反写真的なことをやりたかったのに、これは皮肉なことですね。
『PROVOKE』終了後、中平卓馬は、1973年に『なぜ植物図鑑か』という評論集を出します。彼は、写真が写真として存在するには、「植物図鑑のようなものがいい」という言い方をしています。つまり、これまでの「荒れ、ブレ、ボケ」といった主観的な写真から、客観性が求められる、図鑑写真のような写真を目指します。
とはいえ、この「客観性」は、その前の世代がいう「客観」とは違います。
“新たなる客観性”を中平卓馬は考えようとしていたんです。当時、その片鱗はあるんですが、中平卓馬の写真は、やっぱりかっこいい写真でした。
その後、中平卓馬は泥酔して昏倒、記憶のほとんどをなくしてしまいます。あのレトリックに満ちた文章は二度と書けなくなります。そのかわりというのもへんですが、『なぜ植物図鑑なのか』で語られているような写真を撮っています。それは、彼が記憶を失う前に模索していた“新たなる客観性”というものがわかるような写真だと僕は感じます。
森山大道も『PROVOKE』終了後、床に落ちていたネガや偶然映ったものなど、自分が意図してないものを集めてつくった写真集『写真よさよなら』を出します。作家の主観や意識をすべて取り払って写真を成立させることはできないのかと考えてつくったものです。
森山大道はその後、長いスランプに至りますが、それも必然と言えるかもしれません。つまり、作家の存在性自体が必要とされなくなるわけですから。それを取り戻すのに、長い年月がかかっています。
『PROVOKE』は、いまでも日本の写真を語るときの分節点として必ず出てきます。海外の評論家も日本の写真を紹介するときに、『PROVOKE』を引き合いにだします。
2020年木村伊兵衛賞を受賞した横田大輔もそうだと思います。彼の写真を語るときには、必ず『PROVOKE』が出てきます。“『PROVOKE』がやろうとしたことを、横田大輔さんが受け継いでる”といったようなことを、評論家たちが語っているのをよく目にします。
ですので、この『PROVOKE』の存在を知らないと、横田大輔の写真は面白く見られないということになるかもしれません。
『PROVOKE』がやろうとしたこととは、「新しい写真の客観性」です。
『PROVOKE』が終わったあと、日本の写真界はそのことについて言及しなくなります。そして、長い長い時間を経ていま、2020年になって再び『PROVOKE』の延長をやろうとしているのかもしれません。
僕は、現代写真を理解するには、この『PROVOKE』から始めるのが一番わかりやすいような気がしています。