浅草寺に40年間通っているという男

2Bでは撮影実習として浅草寺に行く。目的は露出のおさらいなのだが、もうひとつ「鬼海さんの壁」詣でをかねている。

鬼海壁とは、写真家の鬼海弘雄さんが40年間ポートレートを撮り続けている浅草寺社務所の壁のことだ。モノクロポートレートを撮るのに完璧な条件が揃っている。

2B講座の初回には必ず鬼海弘雄写真集「PERSONA」を見せる。初めて鬼海さんの写真に接する人でも、何か特別なものだという印象は残る。それがどうやって撮られているかというのを実習を通して理解していくのだ。だから浅草寺実習は総仕上げの意味合いもある。

浅草寺に行くたびに鬼海さんいないかなと思うのだが中々会えない。数年前に「渡部さとるさんではないですか」とちょっと東北訛りのアクセントで話しかけてくる人がいて、顔を向けると鬼海さんがいて驚いた。

鬼海さんは写真はもとより人間的に大好きな人だ。なんだろう、話していると気持ちがよくなるというか、同じ山形の出のせいか親戚のおじさんのように思えてしまう。

昨日も浅草寺実習で境内を歩いているとまたしても「渡部さとるさんではないですか」と声をかけられた。鬼海さんだ。

近頃体調が思わしくないのではという噂を聞いて心配していたのだが、とても元気そうだった。

もう嬉しくて嬉しくて。人にあってこんなに嬉しくなったのは久しぶりだ。鬼海さんは「山形帰ってるか?帰ってないなら決着をつける意味でもまた雪の写真撮りに行けばいいんじゃないか」と言ってくれた。その表情は米沢から離れている僕を優しく諭す親戚のおじさんそのものだ。

鬼海さんの持っていたハッセルを見せてもらった。40年間使い込まれているだけにあちこちメッキが剥げ落ち、風格すらある。

「鬼海さんお願い、写真撮らせて」と例の鬼海壁の前に立ってもらった。ローライフレックスで2枚だけ撮った。それで十分だ。

とてもいい日になった。存在するだけで人を幸せにするなんて。大人ってこういう人をいうのだろうなと思ったのだった。