食後にバスさんから紙巻きたばこを一本もらう。10年ぶりのDRUMだった。

昨夜はバスさんとのトークショーだった。現代アートの先進国オランダでアートを30年以上教えている彼から何が聞けるのか。

30人以上のお客さんでギャラリー冬青の会場はいっぱい。トークショーはバス教授と僕、通訳のかたと司会進行の4人でおこなった。

ところが最初の話題である、レビューの感想というところからつまずいた。バスさんの話は長くて複雑、専門用語も多い。そのため通訳の方が混乱、話がなかなかスムーズに流れない。会場があきらかに硬い。通訳に分からない内容を僕が分かるわけもないからフォローの入れようがない。その淀んだ空気を変えてくれたのは司会進行のMさんだった。

国際会議が豊富な彼がバスさんの話を要約して話がどの方向に向かっているのか説明して観客をリードすると、徐々に流れがもどってきた。進行って大事なんだなと初めて実感した。その後は休憩をはさんで3時間以上トークショーは続いた。参加者の体が徐々に前のめりになるのを見て僕もリラックスして話すことができた。

3時間の話の中から僕が覚えている範囲で書き起こしておきます。>>>の部分は僕の感想です。

今回の冬青でのレビューの感想
40人近くの写真を見て驚いたのがそれぞれが個性的なこと。これがオランダなら、2つか3つのパターンに分類できてしまうでしょう。これはオランダの教育で現在のトレンドを教え込むためだと思う。

オランダと日本の写真の違い
日本の写真家の多くが個人的な感情を写真に撮っているように見える。感じる写真、内面を盛り下げる行為。日記のように目についたものを集めて写真にしている。
オランダの場合は「ヴィジュアルコミニュケーション」というのが前提なのでベースがドキュメンタリーになっている。ドキュメンタリーと言っても古いスタイルのものではない。制作のために必須なのが「リサーチ」。リサーチを重ねてどのように対象にアプローチしていくのか撮る前に決める。考える写真、外に向かって広がっている。
>>>何度も何度もリサーチと繰り返していた。

それは何によってもたらされたか。
私はクリスチャンであり、多くのオランダ人もまたそうだ。我々の行動は聖書によってマニュアルのように決められているところがある。絵画はもともと宗教画であり、画家のスポンサーは教会であった。
一方日本は仏教、神道が人々のベースにあると聞いている。その違いが写真への認識の違いを生んでいる可能性はあるが、それだけとは言い切れず、それは「種」のようなもので多くの環境が影響しているはずだ。
>>>聖書の冒頭に「初めに言葉ありき」とある。言葉というのはロゴス(神の叡智、ロゴスがロジック”論理”へと変わっていく)彼らの行動規範は聖書にあり、論理的であることがベースになっていると推測できる。論理的である→考える→言葉を用いる
>>>仏教国の心情を表している映画のセリフがある。『燃えよドラゴン』でのブルースリーの台詞「Don't think feel (考えるな感じよ)」このセリフはアジア人には何の説明もいらないが、公開当初アメリカ人には理解できなかったという話がある。

ステートメントとナレーション
ステートメントにはリサーチした内容を書き込んでいく。参照した文献など。どのようにアプローチするのか。写真を前にしてなぜ、なぜ、なぜと問われ続ける。写真制作にステートメントは必須であり、事前のステートメント制作が決め手となる。相手に作品を理解してもらうためには言葉はとても大事。作品の背景やアプローチの方法など、より深く作品とコミット(つながる)するために言葉を用いる。
>>>2005年くらいまで、ほとんどの日本の写真家は国内需要だけで生きてきた。発表の場は国内に限られるため言葉をもって説明しなくとも分かり合える部分が多かった。これは言葉、人種、教育がほぼ同じなため。ヨーロッパは地続きでありながら、多民族で構成されており「理解しあえない」というのが前提にあるように思う。お互いの理解を深めるためには明確な言葉を使う必要がある。英語が良い例だがYESとNOが言葉の冒頭にくる。対して日本語での肯定否定は文末。城壁の中と外で明確に敵味方に分かれるヨーロッパに対し、境界が山や川によって曖昧に区切らる日本。

ナレーションとは全体を構成する流れ。言葉を用いる場合もあるし、ない場合もある。会場や媒体によってナレーション「流れ」は変わる。感情を見せるならサイズは大きくなったり小さくなったりするはず。
>>>バスさんはよく「なぜ日本の写真の展示や写真集は同じサイズで統一するんだ?」と言っている。感情を表すのに写真の大きさを変えるべきだとも。たしかに日本の場合、サイズを変えるのはよくないという雰囲気はこれまであったように思う。

オランダの教育システムについて
最初に出た言葉が「戦略(strategy)」。どのように対象に、そしてマーケットにアプローチしていくか。毎年カリキュラムはどんどん新しくなっている。マーケットを正確に予想するのは難しい。5年先のことは誰にもわからない。学生は年3回のテストがあり、ひとつずつクリアしないと先に進めない。卒業時には最終テストが待っている。学生への課題の量はとても多くて遊ぶ暇などまったくない。タスク(課題)に対してチェック項目がずらりとシートに書かれていてそれらを毎週毎週クリアしていかなければならない。以前は35人で始まったクラスが卒業時に5人ということもあったが、大学の経済的な理由でそれは緩和されている。生徒が一人やめてしまうと入ってくる収入が減る。写真学科で入った生徒が他の学科に移るということはよくある。卒業後も大学院、その先、そしてまたその先のと大学に残ることができる。上に行けばいくほどペーパー(筆記)の量が増えて写真を撮る機会が少ないのは皮肉だ。スター教師が自分勝手教えることはなく、綿密に組まれたカリキュラムに基づいて授業は勧められる。
以前写真学科には大きな暗室があり60台の引き伸ばし機があったが、今は2台だけ。その代り超高性能のフィルムスキャナーが10台ある。ただし使うのは入学した頃と卒業する頃くらい。フィルムで撮影するのは失敗することを覚えるのにはいいが、毎週の課題には到底ついていけない、なので大学の授業はすべてデジタルであることを前提として組まれている。タブレットやwebでプレゼンするための先生がいて技術的なことをフォローしている。商業印刷機や活版印刷機もある。大事なのはそれを使いこなせる先生がいること。じゃないとただの骨董品になるから。
>>>具体的にどのようなタスクがあるのかと聞いてみたが「多すぎて一つ上げろと言われても難しい。すべては繋がっているので」と横にいた僕にだけiPadにいれてあったタスク表を見せてくれた。びっしりとやるべきことが書き込まれていて各項目にはチェックマークを入れるところがある。学生は毎週出されたタスクをクリアしなければならず、そうしないと試験が受けられない。「拷問のような授業だ」と笑っていたがこれをこなすには相当の覚悟がいりそうだ。
たまたま大学で写真を教えている知り合いがトークショーを聞きにきていたので日本の大学ではどう?と聞いてみた。「渡部さんや僕がいた30年前とあんまり変わってませんよ。2年生ではシノゴを使ってモノクロがメインだし」。これにはちょっと驚いた。大型カメラとモノクロを勉強しても卒業後使う機会はないだろうな。

写真のオリジナル性について
現在では、ギャラリー冬青のようなコマーシャルギャラリー、美術館、フォトフェスティバル、雑誌、写真集、webと様々な発表様式がある。写真のサイズやプリントの材質はそれぞれで大きく変わる。冬青社の高橋社長は原版のプリントよりクオリティの高い印刷をすることのできるマスターだ。その場合、写真集を手に取った人にとって写真集こそがオリジナルになる。フィルムで撮って印画紙に焼いてという時代ならいざしらず、デジタル時代に「マスターピース」と呼ぶものが何なのか難しい問題だ。
近い将来印画紙にプリントするような技術は写真学科ではなく、絵画の分野で教えることになるかもしれない。写真はどんどん変わっていく。

>>>「将来ペイント学科で印画紙プリントを教えるようになる」は衝撃的だった。写真で何ができるかを常に考えているオランダの教育がある。現在では印画紙プリントではないと考えているようだ。その件では「オランダのマーケットにおける印画紙プリント作品の割合は?」というものがあった。「How many percent?」と聞くと彼は紙に「1/1000」と書いて「パーセント(百分率)」では表せないほど少ないと言っていた。「プラチナプリントのようなものは?」には「ファン(楽しみ)でしかない」。
これはあくまで学生がマーケットに参入する際の話。プラチナプリントや銀塩プリントを好むコレクターやマーケットはある。あるにはあるが、極めて小さいパイでしかない。そこに若者が参入していく必要性はないということだ。
これには思い当たる節がある、2012年のレビューサンタフェに参加した100人のうち、日本人は7人と多かった。全体の90パーセントがデジタル。残り10パーセント、つまり10人が銀塩。その10人中6人が日本人だったのだ。これには正直びっくりした。うすうすそうだろうと思っていたが、現実に日本とアメリカの写真に対するとらえ方の違いを見たような気がした。そしてやはり彼らの作品はドキュメンタリーが下敷きになっていた。その背景を説明するため身振り手振り泡を口から飛ばしてれビュワーを説得していたのが印象的だった。

最後にバスさんは、写真を理解してもらうには説明行為が必要になる。僕は昨年からたくさんの日本人写真家と接してきて「日本の写真」を徐々に理解し始めている。今回レビューを受けた人の作品はオランダやヨーロッパの関係者に責任を持って見せ、そして私が直接写真家に会って受けた印象を説明する。そうすることで彼らも興味を持ってくれるに違いないと言っていた。

>>>知ってもらうことが大事。これは僕が香港のブックフェアで実感したことだ。知ってもらうために言葉を使うというのが現在の方法論ということになる。


帰り道僕はバスさんに「pranaの写真集の後書きの意味分かった?」と聞いてみた、すると「もちろんだよ。僕は君のことをよく知っている。そしてtraverseもda.gasitaも見ている。これはpranaを理解するための大きなアドバンテージなんだ」。知ってもらう手段のひとつは見せ続けるということだ。