120万円の投資だった

朝 イワシと野菜のベーグルサンド

夜 新高円寺「香味園」


僕が結婚したのは1990年。つまりバブル絶頂期ということだ。前年の1989年12月29日に株価は3万8957円にまで跳ね上がっていた。

フリーランスになったのが1987年だから、運がいいとしか言いようがない。選ばなければ仕事はいくらでもあったし、意外かもしれないが、翌年1991年から景気は一気に後退してバブル崩壊と言われたが、仕事には全然影響なかった。

 

でも写真の仕事、クリエイティブとか言われる職業には厳然たるヒエラルキーが存在していて、予算があって大きな仕事は、それを動かす人の周りにいないと一生回ってこない。

たとえば雑誌の表紙にタレントを起用する場合は、その雑誌の記事ページで一生懸命仕事をしているカメラマンが撮るのではなく、表紙のアートディレクターが連れてきたカメラマンが担当する。だから、表紙でタレントを撮るには、やり方を変えなければ、そこの撮影は貰えないということを、仕事を始めてから気がついた。

 

さて、どうやって今の枠から抜け出して、上のレイヤーのカメラマンになれるのだろうか? 結婚した頃の僕はまだ雑用のような撮影仕事ばかりだった。

この時、アシスタントをしてこなかったことを後悔した。まったく「ツテ」がないのだ。先生がその界隈にいるのなら、自分を知ってもらうチャンスもあるし、どういう仕組みで動いているのかをリスクなしで見ることができたはずだ。

やってこなかったことを悔やんでもしょうがないので、まず友人の水谷充のスタジオに毎月10万円を払って事務所を間借りさせてもらった。バリバリの広告カメラマンだった水谷くんのそばで、彼の仕事の作り方を横で見るためだ。そのための投資が毎月10万円だった。

それから1年間は、撮影から現像、打ち合わせの様子や企画書、請求書の書き方まで、カメラマンで生きて行くためのことがを全部と言っていいほどのことをみた。アシスタントだったら3年はかかるところを、120万円払って1年で教えてもらったのだ。

 

彼のやっていることを真似ているうちに仕事内容は劇的に変わっていった。今思えばこれは投資だったんだな。