現代アート関係の作家のインタビューやステートメントを見ると、多くのアーティストが「自意識の排除」ということを制作の根幹においているのがわかる。しかしなぜ排除するかについて書かれたものは見つけ出せない。
なぜ自意識を排除しようとするのだろうか? 写真の場合、被写体を選びシャッターを切り、それをセレクトした時点で自意識のかたまりになってしまう。それでもなお排除しようとするのはなぜかと考えてみた。
自意識は自我があることで生まれる。では自我とは何なのか? ギリシャ時代以降の西洋の大問題だ。デカルトが「我思うゆえに我あり」と、この世に絶対的に存在するものは自分自身のみだと考えた。
西洋では長い間、個のつながりが関係性を生み、それによって社会が形成されると考えていた。実存主義でありオンリーワン思考だ。それが1960年代に構造主義によって全否定される。
ギリシャ時代から「ある」と信じられていた個、すなわち自我は全否定された。すべては社会の関わりの中での個にすぎないということだ。それは数学的にも証明され確定されたと言っていい。
個があってつながりをつくるのではなく、つながりこそが個を確定する。
その頃、理論物理でもアインシュタインの「宇宙には絶対の法則が存在する」という考えは「この世に確実なものはない。すべては確率で決まる」というボーアの量子論によって粉砕される。
現在では宇宙の最小単位は紐であり、紐が振動しているときを素粒子(存在する)と呼び、振動していないときは真空(存在しない)という考えにいたった。不思議なことに無いという状態においても紐は存在しているというのだ。そして、そのたったふたつの現象が宇宙を作っている。これを「超ひも理論」と言う。
釈迦は2500年も前にその状態を「空」と呼び、縁起という言葉で説明している。釈迦はこの世に絶対なものは何もなく、全ては関係の中で生まれると説いている。
つまりは個があって関係を結ぶのではなく「まず関係があって、その結び目を個と呼ぶ」のだ。すると親との結び目と、友人との結び目は違う結び目になる。100人の相手がいれば100通りの結び目ができる。結び目が個を作るのだから絶対的な個などない、自分探しは無意味なわけだ。
関係を結んでいない状態を無、結び目ができた状態を有とし、そのふたつが合わさった状態が「空」だと僕は解釈した。これはまさに超ひも理論そのものではないか。最新の理論物理と、釈迦の思想は同じだと思えた。
絶対的な個は無いのだから、自我(自意識)はない(幻想)ということになる。だからこそ現代アートは幻想である自意識をできるだけ排除し、社会と作家の関係性(結び目)を目に見える形(可視化)する行為につながるのではないだろうか。
「現代アートってなんだ?2013年に僕が気がついたこと」
http://d.hatena.ne.jp/satorw/20130621/1371784886
を書いて以来、アートをアートの中だけで理解するのではなく、歴史、宗教、思想、哲学、物理から見ていこうとしている。やっていて気がついたのは、全てが同じ方向を向いているということだった。
後日記
先日書いた「現代アートってなんだ?2017年に僕が考えたこと」で量子論と哲学思想の関係性について書きましたが、物理の専門家から量子論はあくまで「とてつもなく小さなものの話」であって一般的なものと即結びつけるのは危険ですよと指摘を受けました。
確かに付け焼き刃でした。関係が似ていてついつなげて考えてしまいました。科学や物理といったことを「トンデモ宗教」に利用するのを見たことがあります。
ですのでこれはあくまで2017年に渡部さとるが考えたこととして捉えてください。考えは常にアップデートしていきます。