写真のマーケット

アルルでレビューを受けたフォトブックフェアのディレクターがFacebook上のサイト「Unless You Will」と「Photobook Melbourne」に"da.gasita"と"prana"の写真を紹介してくれた。

彼女が選んだ15枚の写真はいずれも陰影バリバリ。というよりそれを基準に選んでいるようにしか見えない。

「陰影のある写真」こそが僕の写真の特徴だと感じたのだろう。ベルリンのギャラリーもそうだ。アートフェアに出すために彼が指定してきたプリントはいずれもグラデーション豊富なプリントだった。

「写真と影の関係性」というようなことを書くと「影のある写真は撮ってはいけないのか」と思われるかもしれないが、そんなことはない。

主流であることと、個々の需要やマーケットは別もの。マーケットは無数にあり、趣味趣向、方向性はバラバラだ。

僕がまだ20代の 頃、日本の歌謡界といえば五木ひろし、森進一、八代亜紀細川たかしに大御所北島三郎が中心的存在。演歌全盛の時代だった。

レコード大賞も歌謡大賞も紅白のトリも全て演歌。誰でも口ずさみ、演歌は日本の心だったのだ。若い人が演歌を歌うのは不思議なことではなく、森昌子石川さゆりのように10代のアイドルが演歌を歌うことになんの違和感もなかった。

演歌は「こぶし」。ぐわんぐわん揺れている(笑)グラデーションバリバリのモノクロみたいなもんだ。

あれから30年、演歌はメジャーな存在ではなくなった。でも当時好きで聞いていた人は今でも聞いているし、当時のスターは今でも演歌を歌い続けている。コンサートを開けばちゃんと観客は集まるし、CDも出ている。つまりマーケットはある。でも本流ではない。なんかモノクロ写真の環境と似ている。

主流本流でなくとも、好む人がいるかぎりマーケットは存在する。マーケットがあれば、そこで生きていくことはできる。

でも、将来ある若者が、わざわざニッチなマーケットに挑戦する必要性はあるか?

その世界が好きで好きで一生続けたいというならいいと思う。でも小さなマーケットで生きていくのは大変。別に職業を持っている人ならまだしも専業は難しい。

やっぱり若い人がアーティストとして目指すなら本流でしょうということになる。だって大きいマーケットなら参入しやすいのだから。

音楽プロモーターが新人歌手をデビューさせるときに、わざわざ演歌を選ばないのは明白。数あるジャンルの中から、個々のアーティストが参入できそうな、より大きなマーケットを目指すだろう。

職業とする場合「好き」だけでは生きていくのは難しい。どのマーケットで生きていくのかをはっきりさせることが必要になるし、そこが大きければ大きいほど参入しやすい。しかし小さければ小さいほど独占の可能性は高まるということもある。



日本では長い間フリーランスとして写真で生きていくマーケットは雑誌であり、広告だった。職人的職業としては存在したが、アーティストととして生きていく方法は皆無と言ってよかった。

面白いのは、長い間日本に目指すべきマーケットは存在しなかったゆえ、自由な発想で表現することを優先に様々なバリエーションの写真が作られ続けてきた。それを後押ししたのは月刊写真雑誌であり、ニコンを代表するメーカー系ギャラリーだ。経済が安定していたからこそできえたのだ。

欧米には落とすべきマーケットが厳然と存在する。アーティストは生きていくためにそこを目指す。マーケットが写真の方向性を決めるところがあるから、バリエーションは自ずと少なくなる。

近年1970年代に制作されたものを中心に日本の写真が語られるが、その特徴は「多様性」であると以前書いた。それはマーケット不在の中で培われてきた経済大国の産物だと言える。



さて、僕はどこで生きていけばいいのか?

八代亜紀細川たかしがアニメソングを歌うという企画があった。聞いた人はその歌の上手に舌をまいた。しっかりした音程と伸びのある声。演歌というジャンルを離れても十分魅力的だということを証明した。

モノクロ写真もそういうことにならないかなと思う。