欧米の写真において「センチメンタルとノスタルジア」は嫌われるということはわかった。
なぜ個人の感情を前面に出したものが否定されるのか?
昨日ある写真雑誌の編集長と小一時間話しをする機会があった。
「渡部さん、近頃の若い人が持ってくる写真っていうのが判をおしたように実家のお爺ちゃんやお婆ちゃんを撮ったものか、非常に個人的な身の回りの写真ばかりなんですよ。思い入れとかはよくわかるんですけど、こう感情的なものをずっと見せられ続けるとこっちがまいってしまって。多い時は1日4、5人と会うんだけど辛いですよ。そういう人達ってその感情がいかに大事かって延々と説明してくるし。ドライな写真を見るとホッとしちゃって。なんか近頃の若者の歌聞いても僕には歌詞が同じに聞こえてしまうのに似ていて。こういう写真は掲載を断るのが大変なんですよ。写真の否定がその人の人格の否定になっちゃうから」
これは以前オランダの教授に「なぜ論理的な写真をヨーロッパでは好み、感情的(センチメンタル)なものを嫌うのか」と質問した時の答えと符合する。
彼の答えは「我々の文化では個人の感情は全面的に尊重されなければならない。これは絶対なんだ。だから相手の感情が全面に出た写真を前に我々は尊重はするが、肯定も否定もできない、何も話すことはできない。そんなのつまらないだろう?」
同じだ。感情的な写真はそれについて語り合う要素が少ない。同じ感情を有するものにはリンクするが、それ以外の人には話題にするきっかけすら与えない。
写真はヨーロッパで生まれ戦後はアメリカを中心に育ってきた。それを主流とするなら、日本は長い間独自に進化してきたところがある。ガラパゴス化だ。歴史もあり、膨大な写真作品が作られ続けているが欧米とはまったく違う理論で語られてきた。
同じ写真とはいえまったく日本と欧米では違う意識、考えで進んできた。どっちがいいとか、正しいとかではなく、違うのだ。
今年のアルルの公式展示の第一会場は日本人8人によるグループ展だった。キュレーションはロンドンテートモダンのディレクターであるサイモン・ベーカー。
細江英公、深瀬昌久、内藤正敏、森山大道、須田一政、猪瀬光、野村佐紀子、横田大輔
この展示のタイトルが欧米から見た日本の写真を端的に表していた。
「Another Language」(別の言語」
これは否定的に使われているかわけではなく、日本の写真の大きな特徴である「革新的で多様」を表している言葉だと書かれている。従来1970年代に作られたものが大きく取り上げられることが多かったが、今回はもっと幅広くといったところだ。
8人の展示作品は全て「銀塩モノクロ」。アルル全体の展示で国としてグループで取り上げられていたのは日本だけ。
おそらくだが、個人で展示をしても理解が難しいのかもしれない。なにせ「別の言葉」を話しているから。現在は「多様性」を軸に日本写真の在り方を知らせている時期だろうし、そういった動きは随所で感じられる。
僕がレビューを受けたときに言われたのが「日本人っていうとモノクロだよねえ。プリントが丁寧だし品質は一級品が多い。この影。影がいい」
実は「影はセンチメンタルだからダメ」というまったく別の言われ方をされていた。
欧米写真の進化は感情を排し、論理的に物事を構築する流れになってきた。しかしその先にあるものに対し、行き詰まりを感じている面も見える。
欧米でポートフォリオレビューをすると、ある一定の枠に収まったものしか出てこないと前出のオランダの教授が言っていた。彼が日本写真を取り上げる理由はやはりその多様性にあるという。多様性にこそ可能性があるというのだ。
独自に進化してきた日本写真はガラパゴス化によりまったく違う言語を話すようになってきた。
近頃は海外で勉強する若い人も増えて、国際語を理解する人も増えてきている。それがまた新たな多様性を生んでいる。
「写真はセンチメンタルであってはならい」と彼らは言う。これは写真の進化からから考えるとまっとうなことだと分かった。でもセンチメンタルな部分に対し憧憬を抱いているのも事実。
「影がいいよね」と目を細めたレビュワーは「僕らの世界ではできないけど、君ら日本人ならやれるんじゃない」と言っているような気がするのだ。
この際なので僕はノスタルジアをもう少し深く考えてみようと思う。どんなときに感じて、どのような写真にそれを思うのか。手法は?手段は?状況は?影ひとつとってもその入り方は?サンタフェで気がついて、アルルでより深まった気がする。