午後3時半、口開けの時期にもかかわらず銭湯は結構混んでいる

最近はワークショップのある週末以外ほぼ毎日銭に通っている。スポーツジムに行くのをやめて銭湯にしたのだ。

それと毎朝15分の気功体操。2か月くらい前にHの日曜企画で教えてもらって以来そのまま続けている。

銭湯と気功ねえ、我ながらジジイだな(笑)

しかしこの組み合わせは自分に合っているようで、疲れなくなったし、目覚めはいいし、お酒も残らす、ほぼ習慣化していたマッサージにも行く必要がなくなった。

住んでいるところから歩ける距離に4軒も銭湯があって、一番近いところだと5分もかからない。昨日は高円寺の小杉湯に行って近くの洋食屋「フジ」で定食を食べた。月曜日の定番になりつつある。

どこかに出かけた帰りは駅から家までの間の銭湯に入ってから帰る。そこでリセットされるので家にグタグタを持ち込まずにすむのがいい。


いま来年出す本の準備中だ。昨日の打ち合わせでは3か月かけて編集者が僕にインタビューしたものを12章にまとめたものを持ってきてくれた。それを軸にもう一度書き直す作業がこれから始まる。

200ページ以上のものを2月いっぱいで書き上げる予定だ。仮タイトルも決まった。でも全てはこれから始まるので、出版化されるのは来年9月くらいになりそうだ。

今回は僕の企画ではなく、編集者が持ち込んでくれたものなので、共同作業という感じで新鮮。編集者がインタビューをまとめた段階で「これは面白いです」と言ってくれているから頑張りがいがある。

内容は『旅するカメラ』のカメラの話を写真の話に変えたようなもの。極めて個人的な小さな話をしていこうと思う。

今回のTOPミュージアムの新進作家展のタイトルにある「小さいながらもたしかなこと」を文章でやろうと思っている。

 

日本の新進作家vol.15

東京都写真美術館(現在ではTOPミュージアム)では、毎年12月に新進作家展が行われる。常勤キュレーターが毎年持ちまわりで一人で作家を決めているそうだ。

新進作家だから、まだ知名度は低いが、この先写真界を担っていく存在だと思える人たちを選んでいる。つまり日本写真の世界の未来予想図が見える展示なわけなので毎年見に行っている。

今年のテーマは「小さいながらもたしかなこと」(英題はThing So Faint But Real)
作家は森栄喜、ミヤギフトシ、細倉真弓、石野郁和、河合智子 の5人。
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3098.html

“本展では、「小さいながらもたしかなこと」をテーマに掲げ、自らの感性や考え方、アイデンティティやリアリティを手がかりに、社会との関わりを意識しながら個人的な視点で作品を制作する5名の作家をご紹介します”(TOPミュージアムのサイトより)

5人の作家の中で4人が海外の美術大学出身で、細倉真弓のみ日本大学芸術学部写真学科卒だが、その前に立命館大学を出ている。いずれも純粋培養の写真家ではない。

会場は仕切りによって、5人のブースが単独で分けられている。観ていて、流れの延長上に別の作家の作品が目に入ることはない。特徴的なのは4人の作家が映像を使っていることだ。

ただし、メイキングのような写真作品の裏側を説明するものではなくて、並列にセットしてある。そこに意味を求めても無駄だろう。写真が平面で静止しているものというのも、幻想になりつつあることを物語っているようだ。

美術館における企画タイトル、今回で言えば「小さいながらもたしかなこと」は、キュレーションするうえで大きな意味を持つはずだ。
前回の同館で行われた「アジアンコンテンポラリー」でも家族、地域などの極めて限定された空間における私的なことを通して、我々の物語に繋げていこうとしていた。
しかし今回の展示と大きく違うのは、作品におけるテキストが一切ないこと。「アジアンコンテンポラリー」では大きな物語にするためにテキストを用い、状況を説明してきた。それが今回は一切ない。説明する行為を拒否しているように見える。

この流れはいつから起きたのか確かめるために、ブックショップにあった過去の図録を6年分買い込んだ。

企画タイトルと作品の変遷を見ていくことによって、写真の流れが見えてくる気がする。

 

実はカメラよりもリコーのTシャツプリンターが欲しい

昨夜はリコーGR3お披露目の関係者イベントがあった。めったにそういったイベントには出かけないのだが立派な招待状に贈呈品の引換券がついていたので行ってみることにした。

リコーGRとは昔から縁があってデジタル化する前のフィルムGRからずっと使っている。いや、その前のR-1というGRの原型モデルからだ。 R-1のデザインそのままに高性能レンズを装填したのがフィルムGRで、長徳さんのアイディアだったそうだ。

僕にとってリコーはキヤノンについで長く使い続けているメーカーということになる。そういえばリコーのニ眼レフ、リコーフレックスも使って伊tことがあるな。

デジカメとなった初代GRDはたしか2005年に出たはず。GRDショックと言いっていいくらいの人気で、どのパーティに行っても記念写真を撮るためにポケットから出てくるカメラはGRDだった。写真家達と飲み屋に行くとテーブルの上はGRDだらけ。プロが使うコンパクトデジカメの定番となった。

2013年にはセンサーが大型のAPSCになったGRが出て画質は大幅にあがり、ほぼ完成と言っていいくらいのものになった。2016年にはGR2が発売されるが一部マイナーチェンジのようなものだった。

「もうGRは出ない」とうわさされていたが先月GR3が来春発売されるという発表がありGRファンを喜ばせた。フルサイズになるのかが注目されていたがセンサーはAPSCどまり。手ぶれ補正がついて液晶モニターは大きくなった。ボディサイズは横幅が小さくGRD4と同じくらい。そのかわりストロボはなくなった。

フルサイズにしてボディを大きくする方向ではなく、コンパクトカメラらしく小さくする方向に向かったのは正解だと思う。カタログデータよりも実利を取ったということだろう。

昨夜もある雑誌の編集長と話をしていたときに、カメラの性能はセンサーとレンズのバランスだという話になった。GRはレンズ交換しないタイプだからセンサーとのマッチングがベストを追求できる。GR3のカタログ用に撮られた写真の大型プリントが展示してあった。発売前のベータ版にも関わらず、これ以上の画質というのは必要ないんじゃないかというものだった。


パーティは大盛況で、同世代の写真家が大勢きていて同窓会みたいな感じだった。なんとなくみんな年相応になっていて、ついに話題に血圧と血糖値とコレステロール値が入り込んできた。というわけだからカメラもレンズも小さい方がいいという話しになる。

昨夜はたくさん記念写真を撮られたがポケットから出てきたカメラはGRじゃなくてすべてiPhoneだった。さて、帰り際にいただいた贈呈品は小型バックとGRデザイン手ぬぐいと小物。iPadが入る小さなバックを探していたのでラッキー。手ぬぐいは銭湯通いに使える。

GRヒストリーの小冊子にGRD3のカタログ用に撮った僕の写真が1枚使われていて、それを見たら懐かしくて胸がキュとなった。

12時間かけて夜行バスだったがLCCよりずっと快適

Facebookに5年前の投稿が上がっていた。島根県の湯泉津(ゆのつ)温泉にいて、当時買ったばかりのソニーα7にズミルクスの組み合わせの写真が数枚。ひなびた温泉の景色だ。出雲大社に行ったついでに島根から鳥取を回った時だ。

その過去の投稿を見たのがなんと温泉津温泉の宿。つまり5年前とまったく同じ時期に来ていたのだっだ。やはり前日に出雲大社を参拝しローカル線で湯泉津まで来ていた。

今週ぽっかりと予定があいた、ひさしぶりにどこかに行こうということになり、妻の希望で出雲となった。前回来た時は遷宮で話題になっていた時だっだ。ちょうど神話を勉強していた頃で出雲以外にも伊勢や熊野にも足を運んでいた。おかげでずいぶんと神社に詳しくなった。

今回の出雲はいい天気だった。稲佐の浜から本殿を参拝して、隣の北島神社を回って湯泉津へ。ここの温泉はとても好みだ。5年前に知ってもう一度来たかったところだ。銭湯通いが高じてというのも多分にある。

大学時代のクラブの後輩が亡くなったり、同世代で縁のあった勝谷誠彦さんの訃報を聞いたりすると、もう「いつか」はないのだと思えてくる。行けるうちに行っておかないとな。

 

暗室の近くにパスタのおいしいところがある 昨日はカラスミのパスタ

これからも、貸し暗室を使い続けるのは大変だなと思っていたら、個人暗室を使わせてもらえることができるようになった。

 

ただしそこは、モノクロの設備は完璧と言っていいのだが、カラーができない。自動現像機は一台大きいのを残してあるので問題はないが、伸ばし機がない。2Bで使っていた伸ばし機8台は、今年の事務所引っ越しの時に、欲しい人に綺麗さっぱりあげてしまった。

 

どうしようかと思っていたら、助けてくれる人がいて、以前2Bで使っていたラッキーG670と同型のものを譲ってもらえることになった。台座にタイマーが付いていて使いやすい。何より慣れている。メリハリの効いたカラープリントができるので好みだ。大全紙まで伸ばせる。

 

そこで赤帽を手配して個人暗室に引き伸ばし機を運び込み、セッティングすることにした。足りないものは新宿ヨドバシに買出しに行く最近はネット注文ばかりなの暗室用品コーナーに行くのは数年ぶり。以前はフロア全部だったが、今は一角にひっそり。見事に縮小されている。印画紙はまだ種類も豊富に揃っているように思えたが、とにかく備品が少ない。引き伸ばし機も売っていたが、20万円以上していた。

 

買った備品を抱えて暗室に戻り現像機を洗い、薬品を入れ、伸ばし機周りを整え、早速プリントしてみた。バッチリである。国産は、というより使い  慣れたものは体に馴染む。精度も出ていそうだし問題はない。

 

やっぱり暗室はいいなと思ってしまった。プリントするために撮影をするというのが自分のスタイルでもあるから、やる気が出てきた。

小瀧さんのベトナムの教会のプリントがいい

昨日は、来年1月4日からの写真展打ち合わせで冬青へ。

2006年からはじめて10回目になる。毎年1月にやることになって4年。「良い時もあるでしょうし悪い時もあるでしょうが、毎年やってください」と冬青の社長から言ってもらえ、ありがたいと思ってる。

今までの展示は、モノクロがほとんどだったけれど、今回のメインはカラー25点、モノクロ2点で決まった。他に2点くらいを入り口付近に展示しようかと思っている。とりあえず方向性も決まり一安心。展示まで1ヶ月ちょっと。良い展示になると思う。

 

冬青を出た後、ルーニィ247へ。

以前2Bワークショップに参加してくれた人たちのグループ展を見に行く。5人のグループで、毎回モノクロしばり。今年で4回目になる。年一回の展示を続けているわけだが、それをずっと見続けると変化が見えて面白い。いいモノクロ。この感覚はモノクロ好きだとわかるはず。

その後、御茶ノ水のギャラリーバウハウスへ。

その前に楽器屋さんに寄って、ウクレレを見に行った。買うわけではなく試し弾き。3万円台は中国産が多のだが、その中で国産の気に入ったものが1本あった。

 

さて、バウハウスではいま「LIFE 写真のある生活2」をやっている。1階はコレクション展、地下は所属作家のグループ展をやっていて、その中に2Bに来ていた杉浦さんも参加している。

きっかけは昨年のルデコの2Bグループ展に、バウハウスのオーナー小瀧さんがきて、彼の作品を気に入ったことだという。錚々たるメンバーの中で4枚のモノクロプリントを出している。

一階のコレクション展がすごい。

小瀧さんの集めたものなのだが、杉本博司の劇場シリーズの初期物が売り物として展示してある。値段はここには書かないが、確実に一桁少ない。こんな掘り出し物見たことない。他にも教科書レベルがゾロゾロ。見ほれてしまう。

コレクション展は集めた人の美意識が見えるのが面白い。どんなものを集めたかで、その人のセンスがわかるというのは何の世界でも同じだろう。

 

 

 

暗室帰りは銭湯

貸し暗室も2度目となると慣れてくるものだ。

 

僕にとっては、とにかく暗いのだけは作業効率に大きく影響するので、秘蔵の80ミリのシュナイダーと、ピントルーペを持参。伸ばし機をダーストからオメガに変えてもらったら、ピントノブが右側で使いやすい。

ダーストの左側ノブは、左目でルーペを覗くのでピント合わせのとき、体がよじれて泣きそうだった。

伸ばし機を変えたので、再度色合わせから始めることになる。前回のプリントは改めて見ると青が強い。マセンダかぶりを気にすぎたため青に寄ってしまったようだ。

短冊に切った印画紙を焼いて色の調整をする。まず明るさ。前回は絞り11で50秒もかかったが、今回は10秒。5倍も明るさが違う。2絞り以上だ。結局色が決まるまで2時間かかった。

 

一度色が決まればカラーは楽しい。前回焼いたものを、もう一度新しい設定で焼いたら全然違う写真になった。それから7時間、飲まず食わず休まず、ずっとプリント。現像機が業務用の大型化だから色の安定性がいい。

問題と言えば、ネコがウロウロしていること。暗室兼保護ネコセンターなのだ。ネガをセットしていたら、カーテンの隙間から忍び込んできて、引き伸ばし機の一部上まで駆け上がった。で、降りられなくなって困ってる。そのうち、バタバタとホコリを舞いあげて暗室内を駆け回り去っていった。

 

ネコは好きだが、おそらくネコって暗室に一番似合わないものだろうな。

 

 

芋煮会とtiktok

先月作ったサイトはずいぶん育ってきました。過去のテキストや新作などが載っている倉庫のようなものです。これからはSNSではなくここを中心にしようと思っています。

渡部さとるワークショップ2B&H

https://workshop2bn.themedia.jp

 

日曜日は9月のルデコの3階の打ち上げだった。4階5階6階はOB展だが、3階は終了展になる。

週末のお店は2時間制のところが多いので、自宅でやることにした。料理は米沢の芋煮会。里芋と牛肉とコンニャクとネギ。そこへキノコを入れた。ガレージに机と椅子を出し、七輪で焼いたものもたべる。ほら、焼くのは得意だから。

 

若い人も多いからいろいろ教えてもらう。その中で「Tik Tok」という動画SNSの話題が出た。そんなの知らないと思っていたら、ほぼ全員が知っていた。

 

Facebookはグループの連絡用には便利だが投稿はほぼ見ていないし、自分で投稿するのも年に数回。Twitterは2011年の震災のときに見るのをやめてしまった。インスタも気になって始めたものの、何が面白いのかピンとこないでいる。

やってみてわかったのだが、僕のネットへの関わりかたはテキストベースで写真ではないようだ。写真を上げるとなると、テキストより構えてしまう。面白いと思う写真をネットで探すよりも写真集を探してしまう。

 

ところが「Tik Tok」は面白い。ほぼほぼ高校生のアップした動画なのだが、スキルなし、経験なしで作る動画のほうがプロのものより面白い。

 

15秒という制約があるからメッセージなんて伝えられないし、そんなものはうっとうしい。意味なし落ちなし、でもリズムがある。中毒性のある媒体だ。

打ち上げに来ていた中にはテレビや映画に出ているプロの俳優もいた。これまでのプロと呼ばれていた人たち、俳優だけではなくカメラマンも含めて媒体に依存している場合が多い。

既存媒体が崩壊したときにプロはプロでいられるのか。「Tik Tok」を見てそんなことを考えた。

 

 

 

 

 

アートと助成金、開かれた場所と閉じられた場所

冬青の高橋社長のブログに「アートと助成金」についての面白い考察があった。

 

助成金と寄付がアーティストを貧困にする理由・・・

http://tosei-sha.jugem.jp/?eid=2386

 

それに関連する話を、Hのサイトのコラム「若い人が写真で生きていくとするなら」に書いている。

https://workshop2bn.themedia.jp

 

作品をお金に変えないとアーティストは生きていけない。どこからかお金が入ってくるシステムを作らないと。

 

それは作品を売って生計を立てるというだけでなく、サラリーマンをしていても、お店を経営していても、パートナーや親に食べさせてもらうでもかまわない。その中には大学の先生をするとか、ワークショップを運営するとかいろいろある。要は作品を制作し続けることができれば作家として生きていくことができる。

 

「デザイナーは世の中の役に立つものを作る人、アーティストは病気」と言った人がいたが、うまいこと本質をついている。アーティストは世の中の役に立つなんてことはまるっきり考えてない人ばかりだ。ジャーナリズムとアートの違いも、役に立つか、立たないかで分けることができそうだ。

 

現代アートをやっている人たちと話していると、助成金の話題がよく出てくる。特に10月は各種助成金の応募月らしく「あそこはこうすると出やすい」とか「あそこは東京オリンピックに絡めるといい」と情報交換しているのを耳にする。

 

現在のアートは「もの」を介在しないものが増えてきている。イベントやワークショップも現代アートのひとつの形になっている。 ものがないから売買はできない。つまりギャラリーでは扱うことは不可能だ。だから公的、私的な助成金がないと成立は難しい。

 

写真をやっている我々は「プリント」という実体を作りやすい。薄くて、軽くて、かさばらず、持ち運び可能なプリントはギャラリー側としても扱いやすい。

これが巨大なオブジェであったとしたら「もの」があったとしても、やはり扱うのは難しい。そのための倉庫が必要となり、輸送や展示中の破損にも気を配らなくてはならない。

 

助成金を取って制作するアートは概ね「開かれた場所」で展示されることになる。公共の場所であったり、誰でも参加できるものであったり。

その場合、作家性よりも助成金を出したスポンサーの欲望が重視されることになる。「使い回しのよい」作品というのも大事であり、制作、輸送、展示、解体、撤収まで考える必要がある。

 

最終的な評価はいかに、マスコミに取り上げられたかと、動員数という数字で結果があらわされる。

 

助成金を取るアートの場合、大事なのは「まだできあがっていない」ということ。できあがってすでに世の中に出たものに対して助成金は下りない。「これこれをやったからお金をくれ」ではなくて「これからやるからお金をください、これが企画書です」といって提出するのがステートメントと呼ばれるものだ。つまり企画書。

 

一方、閉じられた空間で展示が行われるコマーシャルギャラリーは、オーナーやギャラリストの目利きによって作家が選ばれる。欧米には作品を見るのにアポイントメントが必要なギャラリーもあり、選ばれたものしか入れない。

 

閉じられた場所で大事なのは動員数ではなくて、販売収益。作品は見せるためものではない、売り物だ。1万人来て誰も買ってくれない展示よりも10人しか来ないが全員が買ってくれた展示のほうが成功だと言える。

 

ギャラリーは、いま展示している作家がそこにいなくても、来たお客に説明できるような作家性をもとめる。作品には高い保存性が求められる。そして写真のように複数枚の制作が可能なものにはエディション制を使い、世の中に出る数をギャラリーがコントロールしていく。1点ものという希少性は売り文句となり、ギャラリーにとって都合がよいことが多い。

 

作家とギャラリーだけではお金は廻らない。そこに第三者としてコレクターと呼ばれる人たちが必要となる。コレクターとは一過性ではなく、継続的にギャラリーと作家を応援してくれる存在。欧米ではコレクターというのは認知度が高く尊敬される存在であり、名刺にもコレクターと刷られていたり、肩書きとして通用するものだ。

 

実は、コレクターと呼ばれる人たちは作家のファンというよりも、ギャラリーのファンであることが多い。このギャラリーだから安心できると言って買うのだ。「ギャラリーは作家を育て、作家はコレクターを育て、コレクターはギャラリーを育てる」と写真家の北井一夫さんが言っていた。

 

アーティストが食べていくには開かれた場所と閉じられた場所の使い分けを考える必要がありそうだ。

助成金がないとできないものも多い。ギャラリーでなければ作品の販売が難しいということもある。

 

どのように生きていくかは、何を制作するかと同じくらい大事なことだと思っている。

 

 

 

暗室からの帰り道で銭湯へ。このパターンはいいかも。

来年1月の冬青での展示はカラー。

 

2007年の「traverse」以来のカラープリントだ。2004年の「dagasitaの夏」、2008年の「a day」と今年に撮ったもので構成しようと思っている。最近は古いものと新しいものを混ぜて展示しているのだ。

新作のネガをプリントしなければならないが、暗室がないからできない。知人の暗室を借りれるがモノクロだけしか焼けない。カラープリントはどこですればいいか。

 

最後に暗室に入ったのが今年の2月。あの時は何を焼いたんだろう?  あれから8カ月も経つ。こんなにプリントしないのは41年間で初めてのことだ。高校でも大学でも新聞社でもフリーになってもずっとプリントしてきた。

 

このままプリントをやめるわけにはいかないので、貸し暗室に初めて行ってみた。東新宿にカラー専用の暗室があってワークショップの人たちもよく使っている。

現像機が大型のノーリツ製だから色の安定性は問題ない。小型のラッキーCP31だと、プリント枚数が多いとどうしても色が安定しない。

 

割り当てられた引き伸ばし機はべセラーだった。基本構造はLPLと同じだが、ピントを合わせるノブが左側にしかない。国産機は右側がピントのことが多いから、そこでまず戸惑う。

伸ばし機のランプが暗い上に、ピントルーペはピークの2型なので、目の悪い僕はピントが合わせられなくてまいった。それでも次第に暗さに慣れてきたら、なんとかピント合わせができるようになったのだが………。

自動現像機は使いやすい。業務用のためスムーズに給紙してくれて、水洗乾燥まで自動でやってくれる。1枚あたり4分半で乾燥した状態で出てくる。

 

最初の2時間は色出しで終わる。ようやく1枚焼けて、2枚目が出てきたところで時間終了。使用料は3時間で6千円弱だった。

延長せずに引き上げたのは、1日たたないと発色の良し悪しがつかめないから。そのときいいと思っても、次の日見るとダメなことが多い。特に久しぶりの暗室だったからね。

 

あと数週間でギャラリーに作品を納品しなければならない。しばらくは暗室放浪になりそうだ。

駅からの帰り道に銭湯があるので風呂に入ってから帰宅

11月のギャラリー冬青は、スイス人のヨン・アーウィン・シュタヘリ。冬青でやるのは4回目となり、僕は一度トークショーのお相手をしたこともあるのでお馴染み感がある。

スイスのバーゼルに住んでいるが、1年のうち3ヶ月はオーストラリアの採掘場にサファイアを掘りに行く仕事をしていて、9ヶ月はスイスに戻って作家活動をしている異色のアーティストだ。

冬青の高橋社長から電話があって「彼がお台場のデジタルアートミュージアムに行きたいと言っているから案内して」と頼まれた。どうやら冬青の作家が順番でお相手しているようだ。

僕も海外で展示をするときに、向こうの関係者がいろいろ案内してくれたり泊めてくれたりお世話になっているので、ここは手伝わなくてはならない。贈与されたことに対しての返礼が生まれたのだ(笑)

 

平日だというのにデジタルアートミュージアムは結構混んでいた。7月に行ったときと内容が変えてある。外国人の姿も多い。ネットで情報が流れているんだろう。

光が錯綜し、音が絶えず鳴っているので酔った感じになる。彼もそうだったようで音についてのことで話で盛り上がった。たとえば、

 

「単調な音の繰り返しは心を安定させると同時に、ちょっとでも自分のリズムと違うと急に耳障りになる」

「踊りや演奏のシーンと音が完全シンクロしているのは気持がいい」

「映像プラス音は情報過多になることが多い」

「波のグラフィックの部屋は素晴らしかったが無音であって欲しかった」

「ミュージアムのカフェにも音はいらない」

 

ヨーロッパの作家と話をしていると、こうした音についてのことに言及する人によく会う。音がこちらの感情をコントロールしてしまうことに対して違和感があるようだ。

アーウィンさんは、ミュージアム内のカフェが一番面白かったようだ。器の中のお茶の上に、花の映像がマッピングされるのだが、カップを動かしても映像がついてくる。けっこう不思議な体験なのだ。

彼はちょっと年上だが結構話が合う。僕が今年ビルの建て直しで暗室がなくなってしまって困っていると話したら、アーウィンさんも昨年まったく同じ理由で暗室をなくし、今年ようやく新しい場所を見つけたと言っていた。以前の暗室は、真っ暗闇でもどこに何が置いてあるか全部分かったのに、新しい暗室は小さくなったしまだ慣れないとも。

 

帰りは新宿エプサイトで稲田 弥恵 写真展「猩々蠅(しょうじょうばえ)の囁きに 耳を傾ける」を観てきた。

脳についての研究をしているラボの写真で、猩々蠅が主役。アメリカドラマのCSシリーズみたい。厚みのあるアクリルを使った展示が数点あって、これが標本のような、琥珀のような感じがしてよかった。作者は研究員だそうで、これが日々の仕事場なんだとか。

別れ際、「東京にいるとたくさん歩く」とアーウィンさん。

思わず「エクザトリー」と声をあげてしまった。