写真的解決

朝 アボガドとジャガイモを挟んだ焼きベーグル

昼 吉祥寺「うな鐡」

夜 山形のそば、大根エリンギ豚肉の煮物、枝豆のアーリアオーリア

iPadmini6は快適で、それこそ肌身離さず持ち歩いている。メールやラインの返信も貯めずに応答できる。しかし、楽天のデータSIMが使えない。きちんと電波は拾っているのに通信エラーになる。販売店に駆け込んだが「お客様はネットで購入されているので店頭では対応できません」と言われてしまうし、電話で問い合わせても設定の仕方を再度やり直してくださいというばかり。再度店頭で「そもそもiPad6に楽天のSIMは対応しているのですか?」と尋ねたら「こちらではわかりません。対応しているとは記載されていないが、使えないとも記載されていません」と言われて、これはどうしようもないので、楽天の回線を止めることにした。昨年もiPadProにした時に同じようなことが起きて、その時は新しいSIMを実費3000円で再購入することで使えるようになったのだが、その間何度も楽天の店頭と電話窓口とアップルを往復するハメになったので、今回はあっさり解約することにした。さあ次はどうする。

昔から「写真で食べていくにはどうすればいいですか?」と聞かれることが多い。広告でも雑誌でも、カメラマンとして、会社から撮影して欲しいというニーズが高い時代は、依頼者の「こういう感じ」を具体化していく作業だったので、そのスキルを積み上げていくためにアシスタントをしたり、スタジオに入ったりという道があった。でも最近は撮影して欲しいというニーズが変化してきている。カメラが好きなら、ミラーレス機を使ってそこそこ撮れるし、それで十分なクオリティも出る。よく「iPhoneで十分」という言い方もする。そのため撮影単価は驚くほど低くなった。そんな時代だから経験やスキルを積み上げても、それで食べていくのは難しくなってきている。

今、写真でできることといえば「写真的解決」を提案することなんじゃないかと思う。「御社の抱えている問題は、こういった写真を使うことで訴求力が増し、ブランド向上につながります」といった感じ。商品の撮影や、人物の撮影はその企業の印象を決定づける。ハイブランドが写真にこだわる理由はそこだ。何も大きな企業だけでなく、小さなショップやレストランにも同じことが言えて「このお店に合った写真はこうです」と言える必要がある。商品やメニューの撮影でも、そのお店のブランド力が上がるようなイメージを提供する力。これって、意外と写真を知らないとできない。具体的なイメージに落とし込めないからだ。

その場合、自分で撮影するだけではなく、時には友人のカメラマンを巻き込む必要も出てくるだろう。なんでも自分でやるということよりコレクティブ(集合的)な動きが求められる。

となるとカメラマンにもディレクターとかプロデューサー的な思考が必要になってくるし、それを裏付けるように2BChannnelでインタビューしたカメラマンの多くが、そのような思考を持っていた。写真家が孤高の存在で、素晴らしい写真を撮ったから即お金に結びつく時代ではなくなってきた。思えば僕らは牧歌的な時代を生きてきたカメラマンだったわけだ。

 

<2011年10月26日>

写真家とカメラマン

色々な提出書類に、職業を記入しなければならないことが多々ある。そこでいつも悩む。とりあえず「自営業」と書くことが多いが、これじゃ何をしている人かさっぱりわからない。サラリーマンではなくて、経営者でもなくて、不安定な収入なんですよ、といっているようなものだ。フリーになって名刺を作るときも肩書に悩んだ。それまでは新聞社の写真部にいたから自分的にはカメラマンなのだが、フリーの先輩に聞くと「カメラマンはムービー(映画)だから、スチール(写真のこと)はフォトグラファーだ」と教えられた。自分をフォトグラファーというのはかなり抵抗があったが、そういうしきたりみたいなもんだと思って名刺には「Photographer」と入れた。しかし口頭で「フォトグラファーの渡部です」なんて言えるわけもなく、「カメラマンの渡部です」というのが普通だった。

あるときから確定申告書の職業欄に「写真家」と書くことにした。最初は「カメラマン」と書いていた気がする。そこから「フォトグラファー」になって「写真家」になった。出世魚みたいだな。たしか「写真家」としたのは10年前、最初の写真集を出した頃だ。写真集を出したという自意識があったんだろう。なんとなく写真家>フォトグラファー>カメラマンという図式が自分の中にあったのは確かだ。しかし表だって写真家と名乗ることはまったくなかった。恥ずかしくて、とても口にできない。

消費税の申告の際、簡易課税を選択するなら職業のカテゴリーを決めなくてはならない。むろん写真家なんて職種があるわけがないから職員に「カメラマンなんですが」と言ってみた。ところがカメラマンという職種が見つからないというのだ。

「どんな業態ですか」と聞かれ「雑誌や広告で依頼に応じて写真を撮るんですが」と答えると「営業写真館じゃないですよねえ、イラストレーターでもないし。う〜ん、そういった職業はないですね」。なんと写真家どころかカメラマンさえ、いまだに国から職業として認められてなかったのだ。すったもんだのあげくイラストレーターの属しているカテゴリーで申告することになった。

そもそも20年前に写真家を名乗っている人など、ごくごくわずかだった。写真家とは何か崇高、孤高で、俗っぽい仕事をせず、作品を発表することで生きている特別な人達の称号だったのだ。たとえば土門拳とか木村伊兵衛とか東松照明とか細江英公だとか。篠山紀信のイメージはカメラマンだ。

近頃名刺をもらうと「Photographer」ではなくて「写真家」という肩書になっていることが増えた。twitterやfacebookのプロフィールも「写真家」となっている人がとても多い。たしかに僕も「写真家」としている。写真家という肩書はすでに一般化しているといっていい。

「写真家」という名称が当たり前に使われるようになったのは2008年くらいからで、はっきり言えばリーマンショックで写真界の景気が悪くなってからだ。それまでは稼げる「フォトグラファー」というのが若者の目指すべきものだったのに、お金にならなくなったころから写真は純粋に表現に繋がってきた。

プロの技をお金に変える職人的要素がカメラマンやフォトグラファーに込められているとするなら、写真家には表現者という、お金の匂いがしないところがある。ちなみに杉本博司は現代芸術家で、やなぎみわは美術家と名乗っている。反対に橋口譲二は長い間自らを「カメラマン」だと言っている。

写真家と名乗っている人のほとんどが写真を職業にしていないことが多い。表現者という立場だから、職業でなくともいいわけだ。僕も写真家だと言って写真展や出版をする場合はお金にならないことばかりだ。

そしてお金になる時の電話には「ハイ、カメラマンの渡部です」と元気よく答えることになる。