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今回はウィリアム・クラインの話です。

 

様々なことが1950年を境に大きく変わっていきます。写真の世界でも例外ではなく、ロバート・フランクとウィリアム・クラインが大きな転換点になりました。

 

ロバート・フランクは語られる機会が多いのですが、ウィリアム・クラインはあまり語られることがないので、今回は写真集『RETROSPECTIVE』(レトロスペクティブ)から彼の写真を見ていきたいと思います。

 あの森山大道もクラインから大きな影響を受けていると言っているほど、フランクとクラインの写真は世界中の写真という概念を変えてしまったんです。

 

さてウィリアム・クラインは1928年にニューヨークで生まれています。ロバート・フランクは1924年、ソールライターは1923年に生まれています。

 この3人の共通点を上げるとしたら、ファッション雑誌で仕事をしていたということ。それともうひとつは、3人ともユダヤ人であることです。

 

実はヨーロッパでは、ファッションに関わる産業でメディアやデザイン、縫製、素材系の90パーセントは、ユダヤ人が占めているのではないかと言われています。また、アメリカでもリーバイスをはじめ、ラルフ・ローレンやカルヴァン・クライン、ダナ・キャランはユダヤ系だと言われています。

 アメリカのファッション業界はヨーロッパ移民によって築かれたものです。

これは15世紀の頃からユダヤ人がヨーロッパの織物産業を牛耳っていたからで、昔からファッショのトレンドを作っているのはユダヤ人だとも言われているくらいです。

 

ロバート・フランク、ソール・ライター、ウィリアム・クラインが写真の仕事を始めようとするときにファッション誌というのは入り込みやすかったのではないでしょうか。

 

クラインは雑誌『ヴォーグ』のデイレクター、アレクサンダー・リーバーマンに見出されてファッション写真を始めることになります。

ところがクラインは写真の専門的な教育を受けていません。

彼は第二次世界大戦後、赴任地であったパリのソルボンヌ大学で社会学を学んだのち、なんとキュビズムの画家、フェルナンド・レジェに弟子入りして画家としてパリやミラノで個展を開いています。

 

レジェの描く絵は、太い輪郭線と単純なフォルム、明快な色彩を特色とする独自の様式なのですが、それはそのままクラインの写真を表するときに使われる言葉です。

 

彼は、画家の仕事をしているうちに写真と関わりを持つようになり、あのカルティエ・ブレッソンのライカを借りて写真を撮っていたということです。

 

そしてアメリカに渡り『ヴォーグ』の仕事をするようになるのですが、最初はカメラマンではなくてグラフィックデザイナーでした。

そこから1955年にニューヨークの写真を撮り始めると、翌年には初の写真集『NY』が『ヴォーグ』を発行するコンデナスト社から発売され、大きな話題を呼びます。

 

クラインの『ニューヨーク』はフランクの『THE AMERICANS』と同様、写真集の歴史を切り開いた一冊です。言い換えれば写真集の歴史はこの2冊から始まったと言ってもいいくらいです。

 

クラインの写真の特徴は「アレ・ブレ・ボケ」と呼ばれる“反”写真的要素です。

 それまでの商業写真はできるだけ解像度が上がるように大型カメラを使い、陰翳と遠近感を出すことで「いかにリアルに見えるか」を競っていました。

 

クラインの写真はその真逆です。ピントは合っていなくて、ブレていて何が写っているか判別できず、平面的な構成で、グラフィック的な要素が強い。

 

もちろんこの方法論がすぐに受け入れられたわけではなく、大きな反発もあったようです。これはフランクの『THE AMERICANS』も同じでした。

 

しかし1950年代というのは、文学の世界でも「ビートジェネレーション」と呼ばれるジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズがそれまでの価値観をぶっ壊すことを始めます。

この時代は旧世代の価値観を壊すことが使命だったのです。

 

美術の世界でも、クラインがパリで勉強していたキュビズムはすでに古くさくなり、戦前からのダダイズムがアメリカ抽象絵画を生む時代です。

ダダイズム美術の根幹は「反美術」です。

 

クラインは写真でダダイズムを実践していたように思えます。

 それまでの高度な写真技術の追求が素晴らしい作品を生むという考えを根底からひっくり返してしまいました。

 

感度が400になったコダックのモノクロフィルム、トライXが1950年初頭に発売されると、クラインはトライXの高感度性能を生かし、これまでは写らなかった夜や室内のシーンを積極的に撮影し、トリミングや増感処理をすることで銀の粒子がザラザラとするプリントを作りあげました。

 このザラザラとした質感は、絵画で言えば「マチエール」。絵の具の盛り上がりを連想させます。

 

クラインの写真集『ニューヨーク』は、発売翌年の1956年にフランスのもっとも権威のある写真賞である「ナダール賞」を受賞します。

 

その後、ローマ、モスクワ、東京、パリを同じ手法で撮影し、写真集化しています。

 この写真集を見て特徴的だなと思ったのが、横位置がほとんどで縦位置の写真が少ないこと。同世代のロバート・フランクや、ソール・ライターの写真は縦位置が多くを占める印象があります。

 

さらにクラインの『ニューヨーク』では、個人が特定できるような撮り方ではなく、人物を群像として扱い、極めて平面的にものごとを捉えようとしています。

 

ところがクラインの写真には縦が少ない。唯一『東京』だけは別で縦位置が多いくて人がひとりだけのものが多い。

 非西洋の文化にふれたクラインには日本は珍しかったせいで、それまでのスタイルとは違ったものになったのかもしれません。

 

クラインの写真を評するときに、“写真と社会に関わり合いから切り離す”というものがあります。写真が聞雑誌に依存することなくアートになりうる可能性をしめしたと言われています。

 

看板やポスターで溢れる 欲望の街というのは、その後のアンディ・ウォーホルが試みたポップアートに通じるものです。

個人ではなく群衆でとらえていたり、 大胆なトリミングをしているのは、人物を記号として扱おうとしていたから。事象を記号化する行為は1950年代の美術で語られていたことです。

 

さて、ロバート・フランクの『THE AMERICANS』とウィリアム・クラインの『NY』が、どれほどの影響を日本の写真界に与えたかと言えば「おまえはフランクか? クラインか?」と二択を迫られたということからも分かります。

 森山大道や中平卓馬が『PROVOKE』を作ることになるのも、クラインの影響が多きかったはずです。

 

ファッション写真にも大きな影響を与え、ヘルムート・ニュートン、 デヴィット・ベイリーが生まれました。

 

しかしそのクラインは1965年から10年以上写真から離れ、映画を撮り始めます。

これはフランクも同様です。『THE AMERICANS』の成功後は写真から動画に移り、ソール・ライターも1970年を境に、ファッション写真をやめて、隠遁生活に入ってしまいます。

 

これはひとつに、メディアの主流がその頃からテレビに移り、雑誌の影響力と資金が少なくなりカメラマンの自由度が極端に狭まったことが上げられそうです。

1950年から60年にかけてのファッション誌業界は、カメラマン発掘に糸目をつけずにジャブジャブお金を使っていたそうです。

やりたいことはなんでもできた時代。僕らには想像もできませんが、そんな時代があったんです。

 

僕はクラインを2008年のパリフォトのときと、2016年のアルルの街で見かけました。

2008年のパリフォトでは、僕の写真集『traverse』にクラインのサインを入れてもらって、写真も撮らせてもらいました。

会話をしたはずなのですが、緊張していて何を話したかはすっかり忘れてしまいました。

 

実は僕はウィリアム・クラインのプリントを6枚持っています。

その話は次回、「オリジナルプリントってなんだ?」で触れたいと思います。