日本橋三越でヴィクトリアケーキと珈琲。

来年1月のギャラリー冬青での個展DM。受け取ったかたから裏面に間違え発見の報告あり。

確認したら「2017年1月5日から」になってた。

もちろん2018年です。よろしくお願いします。表ばかりりチェックするというミスですね。まあ大事にはいたらないのですが、気をつけないと。

「あいつのやることはは適当だよな」とか「いい加減なやつだ」とか言うけれど、本来は良い意味なのが面白い。ぴたっとはまる様子を適当というし、分量ががちょうどいいのがいい加減なわけだ。

ひとつの言葉にまったく反対の意味を持たせることができるなんて、日本語って曖昧。

古代文字を習ったときから漢字の成り立ちに興味が出てきた。書道の先生に白川静という関西の学者さんを教えてもらってからは熱心な白川ファン。ついには「字統」という文字の成り立ちが載っている大型の辞書まで買ってしまった。実際には辞書の文字が小さくて僕には読めないのだが、白川静に対してのリスペクトから欲しくなったのだ。

意外と周りに白川静ファンがいて、サイについて盛り上がったりしてる。

日本語は漢字を利用しているが中国文化はそんなに取り入れていないのだそうだ。言葉が文化を作るはずなのに、そこらへんは日本って変わっている。

写真もヨーロッパ、アメリカの「文脈」とは異なっているとよく言われる。いつも新宿中央公園でワークショップのポートレート実習をやるのだが、公園内に「写真工業発祥の地」という碑文が立っている。あの公園は明治35年5月(1902年),に創業した小西産業(後のコニカ)の研究所と工場跡地なのだ。

確かアメリカでコダックが生まれたのが1888年だから日本の写真産業が生まれたのは相当に早い。ヨーロッパの一部の国とアメリカ、日本だけが戦前から写真文化を持っていることになる。日本は写真的には早熟な国なのだなあ、

しかも独自の流れであるということが最近になって分かってきたというのも面白い。

日本語の曖昧さと同じくらい日本の写真は曖昧なのかもしれない。それって大きな特質なんだと思っている。