渡部さとるインタビュー キャリアの転換点となる写真集『demain』がつくられるまで



渡部さとるインタビュー
キャリアの転換点となる写真集『demain』がつくられるまで

インタビュー・文=タカザワケンジ
撮影=佐藤静香

 以下は、2017年1月13日にギャラリー冬青で開かれたトークショー「タカザワケンジが聞く 渡部さとるの〝昨日・今日・明日〟」の内容をもとに修正を加えたものである。
 私が初めて渡部さんにインタビューをしたのは、2000年。渡部さんが最初写真集『午後の最後の日射―アジアの島へ』(mole)を発表したばかりで、私はその写真集を見て、取材を申し込んだ。そのときのインタビュー記事は『使うローライ』(良心堂編、双葉社)という単行本に収録されている。
 その後も取材などでお話を聞く機会はあったが、作品についてじっくりお話をうかがうのは、2006年1月31日にやはりギャラリー冬青で展覧会「da.gasita」を準備中だった渡部さんを訪ねた折だった。このときのインタビューは「旅する写真家・渡部さとるが見た『故郷・米沢』」というタイトルで、いまも読むことができる(http://blog.livedoor.jp/gallery2c/archives/50567074.html)。今回はそれ以来の本格的なインタビューとなる。
 11年の間に、渡部さんは写真集を4冊上梓し、海外で作品を発表するなど活動の幅を広げてきた。そこで、あらためてこれまでの歩みをうかがいつつ、今回発表した写真集『demain』について聞いた。



★イメージしていたのは古いアルバム

──渡部さんにとって5冊目の写真集となる『demain』(冬青社、2017年)は、キャリアのなかでも転機となる重要な作品だと思います。そこで、これまでの歩みを振り返りつつ、どのように『demain』が作られたかについてお話をうかがいたいと思います。
 私が初めて渡部さんにインタビューしたのは17年前です。渡部さんの最初の写真集、『午後の最後の日射―アジアの島へ』(mole、2000年)が刊行されたタイミングでした。私は当時「季刊クラシックカメラ」というカメラ雑誌の編集をやっていて、単行本の『使うローライ』を編集することになったとき、ちょうど『午後の最後の日射』を見ました。まさにローライで撮影された写真だったので、取材を申し込んだんです。つまり、写真作家としての渡部さんのスタート地点から存じ上げていることになります。そこでぜひこのタイミングでお話しをうかがいたいと思いました。
 まず最初に『demain』がどのように作られたかから聞かせてください。

渡部■通常の写真集は、ゴールを設定して、そこに至るまで連続的に撮影を積み重ねていって完成するものだと思います。しかし、この作品は最終的なゴールを設定していません。
 もともと職業的カメラマンとしてたくさんの取材をしてきたんですが、そこには必ずゴールがあったんです。ゴールに向けて写真を撮り、ページ構成をしてきました。しかし、『午後の最後の日射』のときから、自分の写真を撮るときには「取材」はしないと決めていました。下調べをして、ゴールに向けてものごとをコンプリートするやり方はやらない、と。

──仕事とプライベートワークは別だということですね。

渡部■そうです。ようは仕事でやっていることをプライベートでもやりたくないというのが最初のスタートでした。
 今回の『demain』の特徴は地理的にも時間的にもバラバラの写真で構成しています。実はバラバラの写真で一冊の写真集をつくりたいという思いは、『午後の最後の日射』からずっとあったんです。でも、できなかった。『午後の最後の日射』は、撮影した島ごとに章立てをしています。次の『travase』(冬青社、2007年)ではいろいろな場所で撮影した写真で構成していますが、撮った場所ごとにかたまりをつくって、それをミックスするというところまでしかできなかった。
 今回は、展覧会に来てくれた人に説明するんですが、「冷蔵庫のなかにある材料を使ってつくった料理」。だから最初にこの料理をつくるという目標はなかったんです。ありものでパパっとつくって美味しい、ってよくありますよね?

──家庭料理ですね。

渡部■それがやりたかった。でも、ありものだからなんでも入れていいわけではなくて、タマネギと長ネギは合わないじゃないですか。でも、長ネギときのこと豆腐ってすごく相性が良さそうだ、とか。だから、相性が良い写真を集めたのがこの写真集です。
 『demain』には通常版と特装版の二種類があるんですが、特装版の装幀が自分のイメージに近い。イメージしていたのは古いアルバムでした。たまたま古いアルバムを屋久島で見つけたんですけど、それがとてもかっこよかった。
 内容もとても面白かった。アルバムって、他人に見せるために撮ってないじゃないですか。たいしたものが写っているわけじゃない。ただ人が立っていて、当時だからあまり笑ってもいないんです。

──撮られることに緊張している。

渡部■ピースしている人なんていないし。でも、それが面白くて。こういう写真集をつくりたい、というのが出発点でしたね。
 この写真集には、料理の材料にたとえれば、味の濃いものとか香りのキツいものは入っていない。つまりかっこいい写真とか決定的瞬間は要らない。でも、いままで使ったことのない材料でも、なじみのいいもの、相性がいいものを組み合わせれば、味がもっとよくなるんじゃないか。それで、自分の写真だけじゃなく、屋久島で見つけたアルバムの写真とか、アルルの蚤の市で見つけたアルバムの写真だって入れていいんじゃないかと思ったんです。

──私が『demain』を拝見して、まず思ったのは、渡部さんの自伝的な内容であること。しかし、自伝から連想される一直線に時間が流れていく構成ではなく、自由に並べているということでした。『da.gasita』(冬青社、2012年)や『prana』(冬青社、2014年)に比べれば「作品集」としての構えは大きくない。それは判型にも現れています。しかし、そのささやかさがかえって渡部さんの本質的な部分を浮かび上がらせていると感じました。
 また、自分が撮った写真だけでなく、ほかの誰かが撮った写真も同じように扱っている。そのことに気づいたのは、フランスの写真が、渡部さんが撮ったとは思えない年代のものだったからです。とはいえ、それはいまや珍しい手法ではない。見つけてきた写真を使うことは「ファウンドフォト」と呼ばれて、世界的にもさまざまな作品が作られています。その点では、現代写真の流れを踏まえたうえで、写真について考えている写真集だと思いました。そして、それはこれまでの渡部さんの写真集にはあまり出てきていなかった要素だと思います。
 これまでの渡部さんの作品は、世界のさまざまな場所へ行って、イメージを採集してくることに力点が置かれていたと思います。つまり、「撮る」ことに重点を置いていた。ところが、今回の『demain』では、撮った写真を前に、どうしようかと考えている渡部さんの姿が見えました。いまお話をうかがって、その場所がキッチンに思えてきましたが(笑)。
 「撮る」ことから、撮った写真をどう構成していくかに軸足が移ってきた。これは、この17年の間に、写真が置かれている状況に起きた変化とちょうど並行していると思います。渡部さんご自身は、ご自身の意識の変化をお感じですか?

渡部■すごく大きく変わってきたと思いますね。『da.gasita』は初冬から始まって初夏で終わるという流れを絶対に壊してはいけなかった。シャッフルすることも、ほかの関係ない写真を入れることもできなかった。でも『demain』はなんでもいくらでも入ってきてよかった。なんでもここに差し込むことができるし、差し替えることもできる。つくろうとしている世界に、ずれ、揺れがあるから、いくらでも解体して再構築できる。
 これは、どちらかというと、知識として仕入れたやり方です。解体、再構築は現代アートのトレンドの一つでもあるし、「ファウンドフォト」もその一つです。
 僕が「ファウンドフォト」を知ったのは2007年に初めてアルルに行ったときでした。それからずっと自分のなかにあった。2015年に屋久島国際写真祭に招待されて、初めて屋久島に行ったとき、古い写真を見つけたいんだ、とオーガナイザーに頼んだのもそのことが頭にあったからです。『demain』に使っているアルバムの写真は、このときに島のいろんなところを当たって見つけたアルバムのものです。偶然に見つけたものではなく、意図的に探したんです。

──見る人にとっては、それが屋久島の写真だろうと、渡部さんの昔の写真だろうと、同じように他人のアルバムのなかの写真です。時代が違う、ヘンだな、と感じる人はいると思いますが、選んでいるのが渡部さんだから、それほど違和感を感じずに見てしまう。誰が、何のために? という以上に、写っているものを見ているから。そのへんも、写真の不思議さ、面白さです。

渡部■僕が19歳のときに撮った写真もけっこう入っているんですよ。

──それは私も世代が近いのでわかりました。あの頃だな、と。でも、それがわからなかったとしても、「過去」を見ているという感覚は味わえる。古い写真を見るときって、集合的な記憶にアクセスしているような感覚があるんですよね。

渡部■写真集の構成に話を戻すと、『da.gasita』は必ず最初からページをめくってください、というつくりでした。しかし、『demain』は直線的な並びではなく並列的です。どこから見てもOK。連続的な手法から並列的な手法へと変わってきました。
 それは海外で写真を見たり、現代アートを見たりした影響が大きい。直線的な、連続的な物語をつくるよりも、並列的な物語をつくるほうが自分でも面白くなってきた。
 連続的な物語の場合は、山場に向かって盛り上げていって、頂点でかっこいい写真を入れて、だんだん落としていって、もう一度盛り上げる。でも、その方法論を一度捨ててみよう、と思いました。味の濃いもの、つまりかっこいい写真は入れない。そうすれば、何が入って来てもOKだ、と。そこにある材料をバランス良く。栄養的にも味的にも美味しいものにしようと思いました。

★「写真はその場所にいないと撮れない」という原理原則

──『午後の最後の日射』は撮影した島ごとに章立てした、とおっしゃっていましたが、渡部さんの写真集づくりは、きわめてシンプルなシステムから出発したとも言えるわけですよね。

渡部■知らなかったんだもん、写真集の作り方なんて(笑)。

──出版元はmoleですね。ということは津田基さんの構成ですか?

渡部■いや、津田さんに構成は頼んでいないです。アート・ディレクターの白石良一さんと構成しました。僕が写真を組んで持って行く。白石さんが組み直して戻す、ということを繰り返して。

──いま見ると初々しい写真集ですね。

渡部■自分で見てもかわいいな、と思う(笑)。

──表紙の写真からしてそうですが、いい瞬間を撮った写真を選んでる。やったぜ、という手応えを写真家自身が感じていることが伝わってきます。

渡部■あれは二度と取り戻せないものなんです。知恵がついてしまうと、それだけそこから離れてしまうから。

──この素朴な味わいは、渡部さんにとって最初の写真集だから、ということもありますが、それだけはなく、その当時の写真集がこういうシンプルなものだったんだなとも思います。島ごとの章立てが象徴するように、ここで撮ったという事実、記録としての写真であることと、この島をどう捉えたかという写真家のまなざし。この二つの大きな要素で成立している。

渡部■それにもう一つ、アジアの島々は並列なんだよ、ということを言っています。アジアの島によく行っていたときに、アジアのエッセンスが小さい島にもぜんぶある。エッセンスは国がかわっても共通したものが残っていますよ、と。それで島ごとに章立てして区切ったんです。
 いま、どんどんそこから離れていっているんですけど、もっとどんどんやっていったら戻れるのかなという気はするんですけど。でも、もう撮れないかな?(笑)

──そんなことはないと思いますけど。ただ、あの写真集は「写真はそこに行かなければ撮れないよ」というきわめて基本的なことがベースになっているんですよね。揺るがない土台として。写真家はイメージを持って帰ってくる存在だ、と言い切れた時代の写真集だなと思うんです。いまはそう素朴に言えなくなってきている。この17年の変化の一つですね。

渡部■写真を始めた頃からずっと言われていたのが、写真はその場所にいないと撮れないんだ、ということでした。唯一の原理原則として共有していた定義だったはずなのに、この頃はなんでもよくなってきてしまった。

──検索サービスのgoogle earthから画像を引っ張ってこようが、蚤の市で買ってこようが、既存のイメージを複写しようが、どう使うかにオリジナリティがあれば作品として認められる。
 ここまで写真の概念が広がっている状況のなかで、渡部さんはご自身で海外の状況を体験しながら、その変化を作品に反映させてきたと思います。また、職業的なカメラマンから、写真作家へと進路を変更してきた。とくに、私が渡部さんにインタビューさせていただいた11年前のギャラリー冬青での展覧会からは、とくに意識的に写真作家として生きていくための戦略を考えてこられたと思います。
 そこでまず問題になるのが、どんな作品を撮るかです。『午後の最後の日射』では仕事の写真とは別のやり方で、という意識だったとおっしゃっていましたが、 『da.gasita』以降は作家として何をどう撮るかを意識されたのではないでしょうか。

渡部■すごく考えましたね。

──『午後の最後の日射』の次の写真集『travase』も旅の写真集。ただし、国内外、さまざまな場所の写真で構成されていて、そのスケールはアップしています。しかし、その一方で、世界のどこであろうと、自分の感覚にピンと来て撮った写真を構成すれば作品になる、という素朴な感覚は共通しています。しかし、『da.gasita』にはその素朴な感覚への疑いが生まれていると感じました。

渡部■かなり疑いがありましたね。

──自分にとってどんな題材が作品になるのか。吟味が始まっていた。

渡部■それはちょうど11年前にこのギャラリーで展示した写真から始まったんです。今回あえてそのなかから5枚、『da.gasita』のとっかかりになった写真を展示しています。

──『da.gasita』は都市部に出て仕事をし、時間的にも地理的にも距離が離れたあとで、旅人に近いまなざしで故郷を撮影した写真集です。作者である渡部さんのパーソナリティと深く結びついた題材に挑戦したと言える。それは『travase』までの旅の写真とは、作者と土地の関係が異なります。また、写真の内容も、スナップショット的な瞬間の写真から、じっくりと観察するモードに変化していると思います。

渡部■初めて「ああ、自分は写真家なんだな」と思ったのは『da.gasita』からでしょうね。それまではカメラマンという意識が残っていて、現場に行って「撮ったった!」という手応えのあるものが写真として面白いんだ、と思っていた。ですが、だんだんと変わってきて、『da.gasita』で初めて写真を構成する面白さを知りました。



★写真集づくりには人の手が入ることが大事

──『da.gasita』は最初の展示から写真集になるまで時間がかかっていますね。最初の展示が2006年で刊行が2012年。撮影を続けつつ、構成を考えていた時間があったということですね。

渡部■2006年に展覧会をやったときには、もう、写真集ができるくらいの量は撮っていたんですよ。

──そういえば、プリントを買った人に手作りの写真集を付けていましたよね。私の手元にもありますが、インクジェット出力したプリントをリング製本した分厚い写真集です。四季の移ろいにしたがって並べられていて、夏はカラー写真になっていました。

渡部■時系列に素直に並べた。恣意的なことはしていない。でも2012年の写真集『da.gasita』は相当、恣意的に構成しています。そういう意味でも、『da.gasita』が作家としてのスタートかもしれない。
──『da.gasita』の編集はどのように行ったのですか? かなりの枚数の写真があったと思いますが。

渡部■まず、床にばーっと写真を並べるんですが、まず最初に決めるのが、一番目の写真。それから最後の1枚。最初と最後を初めに決める。
 冬青社の高橋社長と、この写真が最初、いやこっちの写真を最初に、とやりとりをして、結局どうしたかというと、社長の案で納得した。つまり、自分が考えていることはたいしたことがない、とこれまでの経験でわかっているから。
 この1枚からスタートしたら、次はこの写真だよね、と並べていったら、自動的に季節ごとになっていった。別の一枚が最初だったら、もしかしたら季節順にならなかったかもしれない。でも、最初の一枚が選ばれた瞬間に、次、その次と決まっていってあっと言う間に流れができた。

──私もこの何年かで数冊の写真集の制作に関わっていて、写真を選んで構成したり、解説を書いたりしています。最初に関わったのが富谷昌子さんの『津軽』(Hakkoda、2014年)という写真集で、『da.gasita』と似ていて四季の順です。ただ、それは私が四季の順に、と枠組みだけ提案して、あとは富谷さん、アート・ディレクターの中島英樹さんと三人で意見を出し合いながら構成していったんですが、撮影した富谷さんとそのときのことを知らない私と中島さんではだいぶ写真から読み取るものが違うんですよね。同じ写真でも、写真家と読者では見ているものが違う。

渡部■ぜんぜん違いますよ。違うから、餅は餅屋というところはありますね。最初の『午後の最後の日射』のときも、デザインをやってくれた白石さんが教えてくれた用紙や印刷についての知識やデザインのアイディアを聞いていて、プロってすごいんだ、と実感した。白石さんは雑誌のアート・ディレクターとして有名な人なんだけど。

──白石さんは90年代の『SWITCH』とか2000年代の『PLAYBOY』とかメジャーな雑誌のアート・ディレクションをたくさんされている方ですね。エディトリアル・デザインのプロ。

渡部■高橋社長と出会って、編集のプロもいるんだ、と。それで最初の1枚は高橋社長の案にした。『da.gasita』の真っ赤な表紙もそう。最初は白をベースにするということですりあわせをしていた。でも、デザイナーの石山さつきさんが持ってきてくれたデザインを前に、三人とも黙ってしまって。いいんだけど……という感想しか出てこなくて、フォントを変えましょう、サイズをこうして、とか話していたんだけど、決まらない。その時すっと高橋社長が立ち上がって、誰かの本の見返しに使う予定だった真っ赤な紙を持ってきた。それをくるっと束見本に巻いた。「何これ?」って言ったんだけど、同時に「何これ?」って思ったってことはいいぞって思った。自分の頭になかったことだから、誰にとってもそう思うに違いない。赤にしましょう、赤なら写真は入らないから文字だけにしましょう、と決まったんです。

──面白いですね。

渡部■自分の中からは絶対に赤い表紙は出てこなかった。トップページの地獄池の写真も出てこなかった。せっかく人とつくるんだから意見を聞く。人の手が入ることってすごく大切だと思いますね。

──写真は「コードなきメッセージ」だと言いますよね。ロラン・バルトの言葉ですけど。その1枚の写真だけでは、何かをメッセージとして伝えることはできない。キャプションによって180度反対のことも伝えられる。したがって、写真家がその写真について込めた思いとは無関係に見た人が勝手にその写真を解釈しているわけで、写真を構成するときにも、そのことを頭においておいたほうがいい。

渡部■作者が考えていることなんか伝わりっこないっていうのが前提ですね。

──写真の弱点でもあり、強みにもできる。その点をどう生かすかと考えたときに、見る側の代表として編集者やグラフィック・デザイナーが写真集づくりに関わってくることに意味がある。




★「ノー・モア・ノスタルジー」という批評

──『da.gasita』は実家がなくなって、根無し草のようになった写真家が、故郷を旅人のように「発見」するという大きなストーリーが底流にありました。直接それが読者に伝わらなくてもいいけれど、写真に興味を持った人が調べていくとそこに行き着く。
 しかし、続く『prana』(冬青社、2014年)では、そうしたパーソナルなまなざしから一歩下がって、もっと大きなテーマを打ち出しています。『da.gasita』は米沢の方言がタイトルになっていて、ローカルへとフォーカスすることで、そこに普遍性を見いだすという作品でした。一方、『prana』はサンスクリット語の〝風〟をタイトルに据えて、日本人の自然観や宗教観を根底に置いています。写真に写っているのも、日本の自然であり、日々の営みのなかに潜んでいるささやかな宗教心です。
『da.gasita』が個人的な物語だとすれば、『prana』はその物語のなかに埋もれていたものをつかみ出す視点が新たに加わっていると思います。写真そのものの質は変わらないと思いますが、作品としてはより大きなテーマを打ち出している。『da.gasita』から『prana』へと移行するうえで、渡部さんにどんな変化があったのでしょうか。

渡部■2012年に写真集の『da.gasita』を出したとき、自信があったんです。写真もイケてるし、構成もちゃんとしている。印刷もすごい。それで、2013年に、サンタフェポートフォリオ・レビュー(レビュー・サンタフェ Review Santa Fe)に持っていきました。

──アメリカのニューメキシコ州で毎年行われている、世界的に有名なポートフォリオ・レビューですね。写真専門家たちが、審査に通った人たちのポートフォリオを見て講評する。

渡部■何人かのレビューを受けられるんですが、そのうちの一人、ある批評家に袈裟懸けに斬られたんです。「ノー・モア・ノスタルジー」と。「どうして日本人はどいつもこいつもノスタルジックな作品を持ってくるんだ。お前のノスタルジーなんて見たくない」と、バサーッと斬られたんです。なんでこの人はこんなにノスタルジーが嫌いなんだろう。ノスタルジーって、日本人の大好物じゃないですか。
 たとえば石川啄木ですよ。「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」。東京で国のなまりをきいてほっとする、みたいな。そういう共感があるけれど、その批評家にはまったくないと。ただ、面白かったのはサンフランシスコ近代美術館の学芸員に見せたら、「すごくよくわかる」と。その人はサンフランシスコ近くの田舎育ちだった(笑)。日本でも、『da.gasita』は北海道、東北方面で売れたんです。西日本では売れない(笑)。バックボーンが一緒だと共感できる。
 それまで個人的な表現であっても多くの人に受け入れられると思っていたんだけど、そうじゃなかった。そこで初めてノスタルジーについて調べてみた。すると、アメリカという国自体がノスタルジーという概念を捨てた国だったんです。
 つねに前を向いてフロンティアに挑む。写真はつねにフロンティアでなければならない。だから「あなたはなぜ後ろを振り返るような写真を撮るんだ」という言葉が出てくる。つねに西へ、西へと開拓していき、月まで行ってしまうような国だから。都市部や郊外では再開発で故郷が消滅してしまうことも珍しくないから思い出すっていう概念を持っていないと聞いて、こりゃ、自分の写真と合わないわ、と。

──しかし、その考え方はモダニズムに毒されてますよね。前進、前進だから。

渡部■前進することで、よりよい明日、未来がつかめるっていうモダニズムの思想なんでしょうけど。でも、それよりも自分と彼らが「違う」ということが初めてわかった。

──もう一つ言えば、ノスタルジーって文学的な概念ですよね。とくに日本には私小説の伝統があって、ノスタルジーが重要な題材になっている。個々の経験をデフォルメすることで共感を生むという私小説の方法論は、同じ経験が背景にあるという前提で生きる。アメリカのように多民族国家の場合は、異なる背景を持った人々の間で共有できるものを探す、あるいはつくるということが課題としてあるということでしょうね。

渡部■レビューを受けていると、個人的な、感情的なものを出すことに否定的な人が多い。感情的な写真って、日本人に多いじゃないですか。感情をぶつけて撮ってる。若い人の写真の多くがそう。でも、海外のレビュアーが言っていたんだけど、日本人の若い写真家たちは、写真をセラピーに使っていないか? と。なんで個人的なセラピーを私が見なければならないのか、と。
 感情的な表現がなぜいけないのか。米国のトランプ大統領の演説が感情をうまくあおる表現をしていた。人が惹きつけられる。でも、それがいかに危険なことかを欧米の人たちは二度の世界大戦で体験的に学んでいる。ヒトラーのような政治家が感情的な部分を刺激して、ろくなことにならなかったから、いい方向には絶対にいかないと知っている。だからモダニズム以降の芸術、とくに現代アートは感情的な表現を排除しているんじゃないか。

──モダニズムのムーブメントの一つである、ドイツの新即物主義が始まったのが、ちょうど第一次世界大戦後。それまでの絵画的な写真と決別して、写真ができることに特化したストレート写真が主流になるきっかけの一つになりました。モダニズムは絵画は絵画ができることを、写真は写真ができることをやるべきだ、という考え方です。つまり、写真は機械を使った表現だから、冷静で観察的な表現こそ写真がやるべき表現だ、ということです。
 アメリカ写真はとくにウォーカー・エヴァンスを筆頭に、いかに情緒を抜いて乾いた表現にするかということを重視してきました。モダニズムの基本としてはその通りなんですが、現在のように多様な表現が受け入れられる時代にあっては、単純に情緒的だからダメだということでもないと思いますね。ただ、情緒におぼれてしまった表現は紋切り型の、ありふれたものになってしまいます。作家が情緒を突き放して批評的に表現する、といった構造をつくればいいんだと思います。ただの感情的な表現では、ありふれていると思われてしまうでしょうね。私が感じていることを写真で表現しました、という素朴なものでは、レビュアーも首をひねると思う(笑)。

渡部■感傷的だったり、感情的だったりするものをここに持ってこないでください、ということだよね。

──自宅の壁に貼ったり、アルバムに入れておいてください、と。

渡部■日本人としては、それを使うとしたらどう使えるのか、ということを考えないと、欧米の人たちには伝わりづらいのかな、と。

──ノスタルジーかもしれないけど、それはカッコつきのノスタルジーであって、そのまま出しているわけではないですよ、ということが表明されていることが重要だと思います。ノスタルジーだってことは十分にわかっているけれど、それが日本人の写真との向き合い方だっていう。



★日本人写真家の「コンテクスト」

渡部■それと、いつも聞かれるのが「あなたのコンテクストは何ですか?」。最初は意味がわからなかったから、自分の作品のテーマ性や、撮影の方法などを話していたんですが、顔を見ていると違うらしい。コンテクストって何だろう。日本語では文脈。文脈って何かといえば、歴史的な背景。歴史的な背景がどう生まれるかといえば、宗教だ、と。
 サンタフェに行った2013年、日本は遷宮ブームだったんです。伊勢神宮出雲大社遷宮の年だった。それで、両方のフィールドワークに参加してみました。神道について調べ始めると、もれなく仏教がついてくる。神道と仏教について調べ始めるとキリスト教のことが気になってきて、調べるとユダヤ教イスラム教についても知識が増える。
 結論としては、神道・仏教と、キリスト教ユダヤ教イスラム教とはではまったく違っていた。彼らが言っていた「コンテクスト」って、キリスト教文化だったんだな、と。そして、現代アートキリスト教文化のものだったんだということがよくわかった。
 僕はキリスト教の国に生まれたわけでも、キリスト教文化に育ったわけでもないので、われわれの文脈はこうですよ、と説明しなくてはならない。そのためにこの『prana』をつくったんです。
 日本人は、あなたちのように一つの神を信じているわけではなくて、たくさんの神や仏を拝んでいる。聖書は人間が自然を支配することを許したけれど、日本では人間は自然の一部に過ぎない。人間の生活も自然もイコールですなんです──と説明して写真を見せると納得してもらえるようになったんですよ。展示したときもステートメントを食い入るように見ていた。彼らは考えることが本当に好きなんだなと思いますね。日本では言葉にできないことを写真で表現するんだ、という考え方が主流ですけど、彼らは言葉にして理解しようとする。

──日本で暮らしている人のほとんどは、自分たちが共通する文化のなかで生きていると思い込んでいる。だから、自分たちの文化がどのような文脈を持っているかを意識したり、言語化する必要がないんですね。宗教についても、神社にもお寺にも行くのに無宗教だと思っているくらいで。
 しかし渡部さんは海外で写真作品を発表するようになって、自分自身の文脈をどうやってわかってもらおうかと考える必要が出てきた。そのためには自分がどうやって育ち、考えてきたかということのメカニズムを考えなければならなかった。

渡部■どうやって自分が成り立っているか。あとがきに自分の体験を引いて、それがどう神道と結びついているかを説明しているのもそのためです。

──昨年の9月にジョージア(旧名:グルジア)の首都トビリシで開かれたフォトフェスティバル(Tbilisi Photo Festival)に呼ばれて、日本写真についてレクチャーしてきたんです。そのときも、やはり神道と仏教の話から始めました。外国人から見ると、そこから話さないとわかってもらえないな、と。

渡部■衝撃的だったのは2015年のアルル国際写真祭に行ったときなのですが、日本人写真家のグループ展があったんですよ。細江英公から横田大輔までいろんな年代の写真家たちの作品を展示していました。タイトルを見ると『Another Language: 8 Japanese Photographers』。

──もう一つの言語、ですか。

渡部■テート・モダンのサイモン・ベーカーがキュレーターだったんだけど、テキストを読むとネガティブな意味ではなくて、日本には別の文脈がある。別の一つの文化があるから紹介します、と。だからまとめて展示するのか、と。以前からなぜ日本人は一つにまとめて展示されるのかな、と思っていたんです。たとえば、フランス人写真家展とか見たことない。その理由が初めて納得できた。僕にとっては強烈な体験でしたね。それまで、写真は言葉がいらない表現だから国境を越えても理解されると漠然と信じていたけれど、それが完全に崩れた。

★記憶をなくしてしまえば過去はなくなってしまう

──写真が良ければみんなが褒めてくれる、という素朴な状況ではなく、枠組みがある、コンテクストがあることで作品の意味がはっきりし、評価の対象になる。作品を言葉でつくることはできませんが、枠組みは言葉で作られるわけです。欧米の現状でいえば、美術館関係者やギャラリスト、批評家やジャーナリストなどの専門家たちが情報をやりとりし、作品の価値付けを行っている。いわば、写真家の地図やマトリックスをつくっていて、写真作家はそのなかに位置づけられることで評価される。
 日本写真は「Another Language」ですから、これまでは発見、評価されるのを待つしかなかった。というか、欧米で評価されるかどうかにあまり関心がなかった。なぜなら日本国内にカメラ雑誌を始めとする雑誌がたくさんあり、写真集の出版も盛ん。カメラメーカーがギャラリーを持ち、国内の「写真界」が賞を与えるなどして価値付けを行ってきた。そこで充足することができたわけです。ところが、出版不況、デジタル化とインターネットの普及で、写真やアートのグローバリゼーションが始まり、状況が大きく変わった。「写真界」を写真村と揶揄する人もかつてはいたけど、その村すら存在感を失っています。そこで「開国」を余儀なくされた。いま、これほど多くの日本の写真家が海外でレビューを受けたり、評価を求めたりということはかつてなかったことだと思います。
 私が渡部さんの活動を興味深く拝見してきたのは、欧米の展覧会や写真集を見たり、ご自身で行動して、レビューを受けたり、話を聞いたりして、写真についての考え方や、作家としてのスタイルを少しずつつくりあげてきたところです。
 そして、ワークショップ2Bで写真教育を行ったり、ネットや雑誌などに発表することで得た知識や経験を言葉にして伝えてきた。
 渡部さんにとってこうしてトークをしたり、文章を書いたりということも重要な活動だと思いますし、写真集のなかにもしばしば文章を入れています。今回の『demain』にも文章が挿入されていますが、言葉と写真の関係についてどうお考えですか。

渡部■実はなくてもいいんです。最後にショートストーリーも入っていますが、読まなくてもいい。写真と言葉それぞれバラバラですし、とくにこのことを言いたいと文章にしているわけでもない。

──でも、書いてったら読んでしまいますよ(笑)。

渡部■言ってみれば、自分が写真についてこう考えられるんじゃないかなと思ったことを書いています。
 母が認知症になったことがきっかけで、過去って何だろう、と考えたんです。過去がある、と言っても、記憶をなくしてしまえば過去はなくなってしまう。だから過去は実は存在していないと思うようになった。記憶が過去を作り出しているだけ。未来はもっと不確か。近未来は予測できても、遠い未来は予測不可能。何があるかわからない。
 でも、写真には確実に過去が写っている。だから、過去性のある写真を、いまの自分が見直すことで、いま生きていることが見えてくる。でも、タイトルは「明日(demain)」にしました。いまよりも少しだけ未来ですね。
 文章は、自分がこの写真集をまとめるときの、一つのスジ(ストーリー)として使っているだけです。スジがあるから、写真の組み替えが自由にできる。なかったら、バラバラのへんな写真集ということになる。
 タイトルが決まった瞬間に、あらかただいたいの構想はできるという感じですね。『da.gasita』なら、写真を見て、これは『da.gasita』だけど、これは『da.gasita』じゃない、と選別の基準ができる。選別や軸をつくるために言葉は使いますが、写真を説明するために言葉を使っているわけではないし、言葉を表現するために写真を使っているわけでもない。言葉というゴールがあって写真を編集しているわけではないのと同じです。

──言葉と写真との関係は、どちらかがどちらかの説明になってしまったり、言葉があることで写真の見方をせばめてしまう可能性がある。その関係が難しい。『demain』はその距離の取り方にも注目してほしい写真集ですね。

渡部■近いようで実は遠い話をしているので。写真と言葉にリレーションがあるようで、大してない(笑)。ただ、いま、自分が考えているのはこういうことだ、と。ここには絶対にノスタルジーを入れたい(笑)。「ノー・モア・ノスタルジー」と言われた瞬間から、絶対に入れるというのが自分の芯になったので。

──文章は読まなくてもいいとおっしゃっていましたけど、私は『demain』の文章を読んでノスタルジックな気持ちになったほうがいいと思う。というのは、荒木さんの『センチメンタルな旅 冬の旅』を読んでいると、ぐっと来ますけど、なぜかというと、荒木さんがそこで一つの世界を「創作」しているからなんですね。そこで起きていることは事実だけれど、写真集にするときに物語を「創作」している。どういうことかというと、私写真のもとになっている私小説も、ノンフィクションではなくフィクションだということと同じです。「小説」だから引き込まれるし、感動する。「私写真」も「創作性」があるから読者が引き込まれて心を動かされる。写真はそれがもともと得意です。写っているのは事実の断
片で、構成とキャプションで虚構をつくりだせる。『demain』を素直に見て、渡部さんの私小説ならぬ私写真として味わってもいいし、何か仕掛けがありそうだな、と疑う人がいるともっといい。
 『demain』の核にあるのは渡部さんのお母さんが認知症になって記憶をなくしたことです。だから先ほどの渡部さんの「記憶がなければ過去はない」という言葉が出てくるわけです。文章ではその個人的な経験が綴られています。しかし写真は距離的に遠い外国や、時間的に遠い過去の写真が入って来て、それぞれの人生が同時並行的に進んでいて、その時間がいまではすべて過去の一部になってしまっているということが明らかになっている。

渡部■その人にはその人の人生の流れがあるので。

──いろいろな人生の一例として、写真を読むための補助線として渡部さんの個人的な体験が書かれているわけです。私自身も、自分の体験と重ねて見ることができました。

渡部■これで5冊目。ようやくずっとやりたかったことができた、という思いがありますね。タカザワさんに話を聞いてほしいと思ったのもそういう理由なんです。いちばん最初の写真集『午後の最後の日射』、最初にギャラリー冬青でやった写真展『da.gasita』と、自分の写真家人生の変わり目にインタビューをしてもらってきたので、今回の『demain』も三つ目の変わり目なんじゃないかと。



★印刷と造本の理由

──写真集の『demain』を拝見したときには、正直に言って少し驚きました。『da.gasita』『prana』で表現されてきた、個人的な体験をベースに日本のローカルや、精神文化を題材に、モノクロのファインプリントを制作して、発表していくというスタイルを続けて行かれるのだと思っていたので。『demain』は、『da.gasita』『prana』と共通するファイン・プリントもありますが、古い写真や、失敗写真も入っている。写真集というもののあり方を考察するような、実験的な写真集をつくられるとは思っていなかったんです。

渡部■そういう意味では、『da.gasita』や『prana』のファンには「何だこれ?」って思われるかもしれないとは、ちょっとだけ危惧していました。でもどうしてもやりたかった。
 一昨年くらいからずっと冬青社にプレゼンしていて、最初は「何をするつもりですか?」という感じのリアクションだったんですよ。自分で説明していて、説明がつかなくなって引っ込めてしまったこともある。また持っていて説明して、を繰り返しました。ロバート・フランクがマイアミで撮影した写真集があるんですけど、それを例として見せたり。こんな感じ、そのうちに言葉の軸ができてきたので。そうすると、まとめることができると。
 去年の7月にアルルで撮った写真もあるので、そこからすぐプリントして編集して。

──バート・フランクの名前が出ましたけど、私もフランクの『Story Lines』(Tate Publishing、2004年)という写真集を思い出しました。ヨーロッパ時代から『アメリカ人』などの作品も交えて再編集したもので、写真による自伝として読むことができます。ほかにもフランクは過去の作品を再構成することを繰り返しやっていて、そこには写真を何度も見る、そして見るたびに新しい物語が生まれる。
 もう一つ思い出したのが深瀬昌久の『父の記憶』(IPC、1991年)。深瀬さんが倒れる直前に出した写真集で、お父さんが亡くなって、お母さんが養護老人ホームに入るまでのスナップ写真で構成されている。深瀬さんの家は写真館だったので、冒頭は深瀬さんのご両親の結婚写真から始まって、深瀬さんの子ども時代の写真が続きます。そして、カメラを手にした少年時代の深瀬さんの写真があり、やがて東京に出て帰郷するたびに撮っていた写真へと移り変わっていく。『demain』にも渡部さんのご実家のアルバムの写真や、子ども時代に撮ったであろう写真が入っているが、写真家という自意識がない時代の写真が大きな意味を持ってくるというのが、いかにも写真だなと思いました。

渡部■そういう意味では、写真はなんでも使えるんです。相性さえよければ。
 最後に入っている写真は、僕が4歳のときに撮った写真。家族写真ですが、自分が写っていないから。その前のカットは自分が写っていて母親が写ってないから、たぶん自分が撮ったんだろう。たぶん、どうしても撮らせてくれっていって撮ったんだと思いますけど。

──大きく画面が傾いでいている。4歳児には重かったから画面が傾いたんでしょうね。カメラは高級品だったから、きっとご家族はハラハラしながら見ていたんでしょう(笑)、

渡部■6歳の時に初めて意識的に撮った写真も一番最後に入っています。家の前の水たまりです。これはすごくよく覚えています。どうしても撮りたくて、内緒でカメラを持ち出したことを覚えています。それがどういうわけか、母親が遺したダンボール箱に入っていた。
 施設に入っていた母の持ち物は、最後、ダンボール一箱だったんです。遺品を整理したら、ネガが三本だけ入っていて、このカットがあった。あとでアルバムを見直したら、このカットは入っていないんですよ。この二枚の写真はプリントしていなかった。

──何十年もたって写真家になった自分がプリントするというのも面白いですね。

渡部■50年ですよ。半世紀経ってプリントした。遺品のなかにあったネガと屋久島でアルバムを見つけたことがくっついて、『domain』が生まれたんです。
 屋久島のアルバムが、黒い台紙に三角コーナーだったので、その話を高橋社長にずっとしていたら、じゃあ、写真の周りを黒く塗りましょう、と。黒い紙に写真を印刷していると思っている人が多いんですけど、もともとは白い紙なんです。写真が入る部分を白く空けてもらって黒く印刷し、そこに写真をはめ込んでいる。

──そうじゃないとこうならないんですね。

渡部■たいへんな印刷精度が必要なんです。それと、用紙もヘンな紙なんです。写真集にはあまり使わない、いわゆる毛足の長い紙。ちょっとざらついた紙。これもアルバムの台紙に近いイメージが自分のなかにあったので。
 社長のブログを読んでいる方はご存じだと思いますけど、この紙のお陰でえらい騒ぎになった(笑)。社長から何度も何度も電話がかかってきて、「いまならまだ間に合います。普通の紙にしませんか」と。この紙では仕上がりがどうなるかわからない。いつもの紙なら完璧な印刷ができます。どうしますか? それでどんどんプロが荒れてきて、カンカンになる(笑)。でも、この紙じゃないとダメだった。あとは印刷のプロの仕事。僕は「お願いします」と言っておけばなんとかしてくれる。

──いつもながら冬青社の写真集の印刷はすばらしいですね。

渡部■この紙をつかってこんな印刷ができるのは世界でもここだけでしょうね。

──最近、ツイッターでつぶやいて反響があった言葉なんですけど、「写真が教えてくれるのは、いま起きていることの意味はわからないということだ。」。いま、見てわかることはわずか。時間が経ってわかることがたくさんある。写真集がすばらしいのは、時間が経ってから何度も見ることができるところです。
『demain』は明日という意味ですが、渡部さんが遠い昨日や近い昨日の写真を見直して、いま、発見したことをもとに編集している。ですが、遠い明日にもう一度見たら、今日、見たのとは違うことが見つかるはずなんです。そうやって何重も写真を見ることの面白さを伝えてくれている写真集だと思いました。

渡部■最初、特装版をつくるときに、エイジングしたような古い感じを出そうと思って束見本をつくったら大失敗したんです。それで、なぜ特装版をつくるのか、もう一度考え直した。そのときたまたま、3冊だけつくった『午後の最後の日射』のクロス張り特装版を本棚から見つけたんです。いまから17年前につくった本なのに新品同様だった。でも、通常版のソフトカバー版はあまり開いていなくてもやれてくる。そのとき初めて、シュタイデル(ドイツのアート、写真の専門出版社)が、なぜあれだけクロス張りにこだわるのか初めてわかった。

──保存性を考えてのことなんですね。

渡部■それがわかったので、特装版はオーソドックスな、目の細かいクロス張りを選んで箔押しをしてもらった。通常版と特装版があるのは、見る用と保存用と二種類ありますよ、ということなんですよ(笑)。



最後に
今回の対談は僕が是非にとタカザワさんにお願いしました。『demain』は 間違いなく転換点であることは認識していました。それを初期から見直してもらうことで現在が見えてきたように思えます。対談をタカザワさん自らテキストに再構成していただくことで貴重なアーカイブとなりました。あらためて感謝いたします。

ここに写真集の全ページが分かる動画をアップしておきます。写真集をまだお持ちでない方は、こちらをご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=zhtXwhwgpW8