家栽の人

作家の毛利甚八さんが亡くなった。57歳だった。
家栽の人』の原作者と言ったほうが通りがいいだろう。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151123/k10010317111000.html

毛利さんには最初の写真集『午後の最後の日射(ごごのさいごのひざし)』の序文を書いてもらった。

彼とは学生時代から江古田のお店で毎日のように顔を合わせ遊び、フリーになってからは先輩ライターと新人カメラマンとして小学館の雑誌の仕事を数多くこなした。

最初は仕事の運びが悪くて毛利さんに怒られることもしばしばだったが、あるときから相棒として認めてくれるようになった。

その後毛利さんは漫画『家栽の人』の原作者となりとなりコンビで仕事をすることはなくなった。僕はたくさんのライターと仕事をしたが、今でも真のインタビュアーは毛利さんひとりだと思っている。

とにかくしつこい。スロースターターでノリで質問することなく相手が根負けするくらい丁寧に丁寧に聞き続ける。普通なら横待っているカメラマンとしてはたまったものではないが、毛利さんのインタビューはいつも面白かった。僕はトークショーの特等席に毎回座っているようなものだった、

毛利さんはギターが好きでライブをやったり、カメラに凝ってライカやローライで仕事をしていたこともある。彼にカメラの使い方や露出のことを教えたのがきっかけで今のワークショップが始まったようなものだ。

家栽の人』が本人も驚くような大ヒットになってからは陽気で子供のようにはしゃぐ姿は消えいつも重圧と戦っているように 見えた。宮本常一の足跡を辿るルポができあがると東京から大分へ引っ越してしまった。ちょうど僕の写真集が出来上がった頃だから15年以上前か。

その後毛利さんと会ったのは数回くらい。最後にメールがあったのが3年前。文面の最後に「やっと『家栽の人』の呪縛から飛び立てそうな気配です。いいものを書きたいと思っています。」とあった。

それからしばらくして末期の癌だと診断されたようだ。絶筆は
家栽の人』から君への遺言 講談社

結局毛利さんは「家栽の人」の呪縛からは抜け出せたのだろうか。後半生は少年事件裁判に捧げた人生だった。

最後に彼とやった仕事はなんだったかな。オーディオ関係の連載だったような気がする。ローライで仕事をしていた頃だ。

「彼の仕事ぶりは独特である。インタビューを取る間は決して動かない。静かに待つ。そして、いざ自分の出番が来ると、手際よく照明をととのえ、ほんのいくつかの言葉を被写体に投げかけながら、ローライフレックスを覗き込むのだ。小さな小さな「チャッ」というコンパーのシャッター音が12枚撮りのロールフィルム4~5本分繰り返されると仕事が終わる。まず30分とかからない。そのくせ渡部の撮る男たちはいつも印画紙の上で、含蓄に満ちた瞳を持ち、人生を噛み砕いてきた意志的な顔を持つ大人として立っていた。それはインタビュー時に私がついぞ見つけることのできなかったその人の顔なのである。」『午後の最後の日射』序文から。

悲しいとか辛いとかじゃなくて、毛利さんがいなくなったことが、ただただ切ない。