一冊のアルバム

屋久島最終日、商店街の雑貨屋さんの奥にテーブルが並んでいてそこに町の人から集めた写真アルバムが並べられていた。

商店街の町おこしで昔の写真を集めたのだそうだ。多くはアルバムといってもDPE店で配られている簡易的なものにカラーのサービスサイズプリントが入っているもの。お祭りや運動会が写っているものがほとんどだった。

その中に黒い台紙の古そうなアルバムを見つけた。モノクロ写真だ。丁寧に台紙に貼り込まれている。年代はどうやら戦後すぐのようだ。行事ものというわけではなく、ただ人物写真が写っている。笑っているでもなく、ピースサインをするでもなく、ただ立っている。

そのアルバムは僕にとって探し求めていたものだった。

実は屋久島の古い写真を探して二日間役場や資料センターを回っていた。当時の暮らしや歴史を物語る写真を多く見つけることができた。

資料として残された写真は、何があったか分かりやすくまとめられている。写真で何かを伝えようとした場合、とても優れた写真だった。なのに何か物足りなさを感じてしまう。

雑貨屋さんで偶然見つけた写真は前後関係などさっぱり分からない。知らない人が写っているだけ。でもひきつけられる。

新宿コニカミノルタに山下恒夫「続島想い」を見た。山下の写真については以前も書いたが、山下が撮っているのではなくカメラが撮っている。こう撮ってやろうという自意識がまるで感じられないのだ。

斎藤亮一さんの写真もそうだ。現代アートが自意識をどうやって外せるかということに腐心しているわけだが、ふたりはそれを体得してしまったところがある。究極の普通の写真。

それは屋久島で見つけたアルバムから受ける印象と同じ。


アルバムは許可をもらいスキャニングしてデータにし屋久島フォトフェスティバルに展示することに決まった。

全体をスキャニングしたものからフォトショップで一枚一枚切り離したら200枚の写真になった。一枚として不必要なものはなかった。数時間切り離しの作業をしていてもまったく飽きない。

自分は「写真のための写真」を撮ってはいなかっただろうか。上手い写真や「いいね」のつく写真ばかり撮っていなかっただろうか。

一冊のアルバムは、これからの自分の写真を変えてしまうほどインパクトのあるものだった。