木曜日午後5時 つーかれーたー

今日も11時に出勤。まさに出かけて勤める。そしたらすでにお客さんがいた。

で、このわかりづらい展示の説明がはじまる。

去年屋久島に行った時に、一冊のアルバムを見つけた。戦前から戦後にかけての黒い表紙のものなんだけど、これがすごく面白い。誰が撮ったかは分からないし、土地柄も知らない。なのににずっと見ていられる。

その頃のモノクロアルバムって、プリントサイズがバラバラで、ベタ焼きも切り離して貼ってあるし、手札や、ちょっといいやつはキャビネくらいに伸ばされている。フォーマットも長方形やら正方形やら多種多様。写っているものも風景や人物が脈絡なく混雑している。まるでインスタレーションアートのようだ。

アルバムって自己主張がない。もともと人に見せるために作られているものじゃないし。決定的な瞬間も見事な構図もない。そこがいい。

アルバムは作った時に消費するものでなく、長い時間を経てから見るものだ。その分、自意識や自己主張が少ないほうが面白い。消費時間によって、面白さの質は変化する。

「prana」を一昨年作って、実はl昨年もう一冊新しい写真集を作りたいと思っていた。pranaは広く日本を撮ったから、次は限りなく狭くと考えていた。でも狭くっていうイメージはあっても、東京撮るのも違うし、家の中撮ってもピンとこない。

そんなときにアルバムに出会って、こういうのをやりたいと思った。

でもどうしていいかモヤモヤが続き、結果的にこのような形になったというわけ。

アルバムと記憶は強いつながりをもつわけだが、記憶って昨日一昨日のことが新鮮で、10年前20年前と遡るにつれて曖昧になるわけではない。記憶はジャンプする。時に入れ替えがおきる。だから展示も時間軸や場所軸がバラバラにしてみたのだ。

という具合。

元アシスタントのF(古川裕也)が面白いことを書いてくれた。

今日、渡部さんの写真展を見て、カート・ヴォネガットの小説を、ジョージ・ロイ・ヒル監督が映画化した『スローターハウス5』を連想した。

時間性の無い写真(決定的瞬間ではなく、時代を特定できないカット:蚊取り線香とか大きな瓜を写したもの)と時間性のある写真(撮影した年号が書かれている写真:家族や自分が子供の頃の写真)が、時系列ではなくランダムに並べられていて、その合間を雪の写真が繋いでいくという展示構成が、映画の『スローターハウス5』を思い出させたのだ。

スローターハウス5』のあらすじは、Wikiあたりに書いてあるけれど、たぶんあれ読んでもさっぱり意味がわからないと思う。僕もいま読んだけれど、よくわからなかった。
映画は数年前にやっとDVD版が出たので、大きなツタヤ行ったら置いてあるんじゃないかな。

時系列という意味では、写真の脇に書かれた年号だけでなく、幼い頃と成長してからの娘さんの写真があることで、時間の流れがランダムになっていることが、明確なっているのが良かった。人によっては、奥さんの写真を、娘さんの成長後の写真として見る可能性(!)もあるので、見方によっては、過去と現在と未来のように見ることもできるのではないかと。

写真のフォーマットもバラバラで、プリントサイズも違うし、時系列もランダムだし、モノクロにカラーも紛れていたりと、いわゆる「まとまりの良いギャラリーの写真展」から外れていて、とても面白かった(と僕が書くのは偉そうだけど)。

蛇足:写真展のDMに使われている壁の写真に、バスキアの王冠のような落書きが描かれていたので、帰って検索してみたら、「SAMO」というのはバスキアが作り出した架空の人物らしい。で、そもそもSAMOは「Same Old Shit」の略なのだとか。