遠足気分

朝=味噌汁、ゆで卵/昼=「太田」の和定食/夜=お雑煮

午前中、カメラホリック編集部からハッセルブラッドX2Dと55mmを受け取る。31日に名古屋ジブリパークを撮影して、12月発売の誌面に掲載することになっている。ジブリパーク内覧会の招待状をいただいた時はローライフレックスだけでのんびり撮ろうと思っていたのだが、仕事になってしまった。でもいい仕事だ(笑)。合わせて会場内の撮影の様子を「2BChannel」の動画にしようと思っているので、ZV1ーFと小型ジンバルも用意。のんびりしている場合ではなくなった。「メイとさつきの家」はずっとみたいと思っていた。テーマパークではないそうだが、こだわりはすごいらしい。ただいま遠足前日の気分で機材をパッキング中。

<2021年10月31日の日記から>

T3フォトマーケットに参加中。ひさしぶりに人がワサワサしていた。懐かしいなあ、この感じ、今年は天気が良くてポカポカと暖かったおかげで人手も多く、みんなの本の売れ行きも良かったようで、和んだ雰囲気だった。本が売れないブックフェアは殺伐としてくるものだ(笑)。1万4千円の売り上げがあったので、それを使い切って会場内で本を買ってきた。結果、持って行った自分の写真集は売れたのに、帰りの荷物の量が増えている。ブックフェアに参加するときの自分の約束事みたいなもので、売れた分は買うことにしている。会場ではたくさんの人から「2Bchannnel見てます」と声をかけられた。我ながら立派なYoutuberだな。写真展、出版、ワークショップと今までいろんなことをしてきたが、Youtubeが一番反応がある。意外と性に合っていたのかと今更思う。今回仕入れた本は、今度の配信のいいネタにもなる。下にある日記を書いた頃は50代半ばで、その年に写真集「demain」を出している。写真を撮る意味は何かをずっと考えていた。それまでの「記録」「伝える」だけでは写真を語れなくなったのは明白だけど、それに変わるものは何かを模索していた。「カメラは祝福の装置」というのは奇抜だが、何だか今読んでも納得してしまう部分がある。

<2017年10月31日>

時間ができるとエイトバイテンという大型カメラで江古田を撮影している。フィルムの大きさはB5ノートくらい(20センチx25センチ)もある。撮っているのはごく普通の駅前とか商店だ。何か特別なものではない。来年この町を離れることになったので撮りたくなった。ノスタルジーの感情とは違う。カメラも重いが三脚も重い。カメラをセットし た状態で持ち歩くとバランスが悪くてふらふらする。担いでいると鎖骨にぶつかって痛くなるし、翌日は体がギシギシしてくる。フィルムコストは1枚あたり1600円だ。笑ってしまう。自分の暗室ではエイトバイテンフィルムの引き伸ばしができないので、プリントはベタ焼きになる。ネガフィルムを直接印画紙に載せて上から光を当てるだけ。そんな大きなフィルムを使ったからといって仕上がりがとんでもなく素晴らしいかというとそうでもない。フィルムの質が悪かった40年前ならいざしらず、今なら67カメラ(6センチx7センチ)からプリントした方がエイトバイテンのベタ焼きよりずっときれいだ。つまり仕上がりのクオリティを求めて使っているのではない。多くの写真家がいまだに大型カメラを使い続けている。軽くて使いやすくて性能がいいカメラが普及しているのにもかかわらず、大きくて重くて使いづらいほうをあえて選んでいる。そういえば僕がポートレートを撮ろうと思った時も、最新のカメラの方が仕上がりは良いと分かっていながら出来るだけ使いづらいカメラを使おうとする。ストリートスナップを撮る写真家も目立たないカメラではなく、大きくて使いづらいカメラを選ぶのだそうだ。長いこと路上を撮っている人ほどその傾向にあると聞いた。今なら音がしないカメラもあるのに使おうとはしない。なぜ多くの写真家は面倒なことを好むのだろうか。そこには現代アートのロジックとは違うものがあるように思えてくる。「写真家である」と自らを規定するものにとって、カメラは表現に使う便利なツールとして利用しているのではなく、祭事のための儀礼の道具と考えているのではないだろうか。中国に「賦」と呼ばれる詩の形がある。そこにメロディをつけると唱歌と呼ばれるものになる。小学校で習うやつだ。

「早春賦」 

春は名のみの 風の寒さや  谷のうぐいす 歌は思えど

時にあらずと 声もたてず  時にあらずと 声もたてず

氷融け去り 葦はつのぐむ  さては時ぞと 思うあやにく

今日も昨日も 雪の空  今日も昨日も 雪の空

春と聞かねば 知らでありしを  聞けばせかるる 胸の思いを

いかにせよと この頃か   いかにせよと この頃

ただただ春の状況を描写しているだけだ。作者の我はそこにはない。この詩はなんのために作られたのか。春への祝福である。冬が終わり春の到来への祝福の思いなのだ。賦と写真は似ている。何も足さない、何も引かない。ただそのものを描写する。もうひとつ。

「ふるさと」  

兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川

夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

如何にいます父母 恙なしや友がき

雨に風につけても 思いいずる故郷

こころざしをはたして いつの日にか帰らん

山はあおき故郷 水は清き故郷

これはただのノスタルジーなのか? 違う、ふるさとの山河を祝福している詩なのだ。失われたものへの追憶の感情だけではない。祈りすら感じる。そうか、僕が江古田を撮るのも、ポートレートを撮るのも対象への祝福なのだ。つまり写真家とは祝福を与える人たちのことなのだよ。そして時にそれは鎮魂であり、祈りとなる。決して対象を呪う装置としては用いない。だからどこか宗教的な要素を持ち合わせているように感じられるのだ。ただ生きるためではなく、よりよく生きるために儀礼や祭事は必要であり、そこには大がかりな装置が必要になる。簡便な儀礼というものは存在しない。そう思うとカメラのシャッター音は、お参りのときの柏手(かしわで)と似ている。パシンと響く音が対象への呼びかけとなるのだ。大きくて重くて使いづらいカメラを使うのは、祝福を与えるための儀式。僕はそう思うことにした。呪ったり呪われたりして生きていくのは御免だ。僕は頼まれなくとも写真を撮ることで勝手に祝福を与え続ける。写真を何かに利用したり、呪いの装置にはすまい。僕はひたすら祝福を込めて対象を撮るのだ。それでいいのだ。