高ければいいってもんでもないし、低けりゃいいってもんでもない

GW前半の目玉は、グラム1600円の牛肉ですき焼きをして、暖炉の前でウクレレを弾くことだった。

 

暖炉っていい。究極の欲しいものだ。違うな、暖炉が欲しいのじゃなくて、暖炉がある暮らしが欲しいってことだ。

 

 

 

しばらく前から、考えるときに「レイヤー」というキーワードを使っている。

 

ものごとを、より細かく分解して把握しようとする行為を解像度を上げると言い、より曖昧にしていくことを抽象度を上げると言う。

 

個人を認識するには解像度を上げていくと、ひとりひとりが別物であることが分かる。性別、国籍、年齢、名前、職業といった具合により細かい情報の集積が個人を特定するには便利だ。

 

これには必ず言語がともない論理化という手順を踏むことになる。西洋が追求してきた考えかただ。

 

反対に抽象度を上げると性別、国籍、年齢、名前、職業といった情報が徐々に曖昧になり、認識は人間となり、生物となり、地球の構成物となり、宇宙になって、最終的には存在となる。

 

ジョン・レノンの「イマジン」は抽象度を上げて考えましょうという歌だと思うし、ブッダの思想も同じだ。ということで東洋思想は抽象度を上げるということで説明できると思う。

 

解像度の問題は写真をやる全ての人にとっての大問題だ。僕はある時期まで解像度は高い方が「優れている」と思っていた。フィルム時代はフォーマットを大きくすることや、解像度の高いレンズを使うことが自分にとっての正義だった。35ミリより、中判、シノゴ、バイテンのほうがよくて、ツアイスやシュナイダーを好んでつかっていた。

 

最初に買った富士フィルムのデジタルカメの画素数は200万画素だった。次にキヤノンの600万画素一眼レフを買い、それが800万、1200万、2200万と買うたびに解像度は上がっていった。

 

その頃はより細かく描写することで、より本質に近づける気がしていたのだと思うし、商業的には必要な行為だった。

 

しかし、2000万画素を超えたあたりで急速に高画質への欲求は薄れてきた。4000万画素のカメラが発売されてもまったく興味がわかない。商業的にはもはや必要のない画素数の時代となったし、僕の思考も解像度を上げるほうから抽象度を上げるほうに向かってきた。

 

世の中でもチェキが流行り、「写ルンです」を使う人が増えてきた。デジタルカメラのエフェクトも解像度を下げる行為だ。ボケもそう。

 

ドイツのアンドレアス・グルスキーはレイヤーを平面的に並べるステッチング技術で解像度を大きく高める表現をしてきた。同世代のトーマス・ルフはレイヤーを積み重ねることで解像度を下げて世界を表現できないか考えているように思う。

 

2000年代はグルスキーが好きだったが、今はルフのほうががいい。ルフの解像度の捉え方が時代にあっているような気がしている。

 

もっとも高額で落札された写真作品はグルスキーの「ライン川2」だが、あの写真はそれまでの彼の作品よりも解像度は低く、抽象度が高いことからも世の中の動きが見えてくる気がする。

 

僕はものごとを考えるときに(写真を撮るときも同じ)どの解像度にするかということから始めている。解像度は高め過ぎると生きづらくなるし、抽象度はあげすぎるとわけがわからなくなる。どこの階層にするか、どの階層で生きていくか、ということに今の僕の興味がある。