56期の募集は終了いたしました。時期は8月からの予定です。

火曜日の夜に屋久島から帰ってきて、ようやく振り返る余裕ができた。

屋久島国際フォトフェスティバルと、国際がつくのは日本とフランスの交流の場にしようということから始まった企画のためだ。

今回もフランスから4人の招待作家と主催者のオトナ、それに映像記録のトムと展示はしないがスライドショーに参加した作家などを合わせると10人弱が屋久島に集まった。

招待作家の中にはベネチアビエンナーレに参加するフィリップ、ハリウッド関係の女優や有名ファッションブランドの撮影をしているマウロ(スライドショーで紹介された彼の仕事は誰もが知ってるものだった)など本場の一線級がきていた。

彼らはとてもフレンドリーで、良い人ばかりなのだが主張も強い。彼らの要望を叶えるために日本側の主催である千々岩は翻弄されることになり、もちろん会場の責任者も彼ひとりのため多くのしわ寄せが周辺に生じることになった。周りの様子を見て行動しようとする日本人作家とはまったく違っている。まず謝らない(笑)いかにその行動は正当だったかを言ってくる。

つくづくオーガナイザーというのは大変だと実感した。ちゃんと運営できて当たり前、少しでもほころびがあると、それは不平不満となって現れる。

今回も自ら巻き込まれに行ったわけだが、前回は単純肉体労働の大変さで、それはちゃんとご飯を食べて一杯飲んで一晩寝れば翌朝には解消される。これは大変だといってもある意味幸せなことだ。

ところが今回僕の役回りは単純肉体労働ではなく精神的な負荷の多いものだった。常に時間に追われ、ことをスムーズに運ぶために腐心することを強いられた。それが「今回は大変だった」という言葉になって出てきたわけだ。

僕は一昨年以来屋久島フォトフェスティバルによって多くのものを与えてもらってきた。だから巻き込まれるのを承知で今回も手伝っていたわけなのに、徐々にイラつきを見せてしまった。今になって申し訳無かったことをしたなと思っている。もっとできたはずなのに、どこかに「自分は作家だから」という安全な場所に逃げ込もうとしていた。

しかし全然面白くなかったかと言えばまったくそんなことはない。短いスパンで考えれば「大変だった」が上にくるだろうが、長い目で見れば今回の経験は大きいはずだ。

津田さんや駒瀬さんと話せたのは大きい。個人的な感情から出発して、どうそれを作品化するかというプロセスの一端を垣間見れた。それは今まで経験し、知識を得たこととダイレクトにつながっていた。

もうひとつ、二夜に渡って会場で日仏作家によるスライドショーのイベントがあり、僕も2010年に制作したスライドショーで参加した。https://m.youtube.com/watch?v=5Yx2bEMaYWk&ebc=ANyPxKrbs0kg-tDZNxKXv4WGYcjWcALafe81a_G5YPQXfUBL5Vgo_8WDXsjau4_CBmTwc-EU9c11QhnWEYex1F4KqwXGwp2YWA

これは2010年の「フォトサミット」用に制作されたもので、写真とともに音楽とナレーションが流れる。写真集「da.gasita」の原型と呼べるもので、非常に情緒に訴えかける作りにしてある。英語バージョンもあり、これをぶつけてみた。

フォトサミットという数百人規模の集まりの中で、p集中力をもって見てもらうために作ったこのスライドショーはとても評判がよかったが、近頃このやりかたに疑問を感じていたところだった。それは音楽の作用性についてだ。

閉じられた中、つまり同一背景を前提とする場合、情緒的なものは感情を揺さぶるから効果的に見えるのだが、demain以降は情緒からちょっと距離を置きたくなっている。そこへ7年前のものをあえて見せたのはフランス側の反応が知りたかったからだ。

見終わった後、やはりその話になった。まずこの作品の背景をもっと教えてくれ、そしてなぜピアノなのか?テキストは必要だと思うが音楽はどうなんだ?とその話題に集中した。

情緒的な音楽、とくにピアノは見るものの感情がコントロールされる。それによって見る側の視点が大幅に制限されてしまう。そこにについてどうかんがえているんだということだった。

これはある限定された場所用に感情に誘導を前提に考えていたという旨を説明すると、そうかわかった、でもこのスライドショーに音楽はいらないんじゃないか、試してみたほうがいいということになった。

日本ではおよそ起こらない議論にとても興奮した。感情的なものの排除という最近の自分の考え方と符合するからだ。フランスは歴史的に個人主義を勝ち取ったお国柄だ。全体主義、感情論を嫌うところが見えてくる。生まれ育ったところが違えば考え方や概念すら変わる。

だから閉じられたところから、広げようと思った瞬間に問題が噴出する。それをちょっとでも埋めようする機会がこういったフェスティバルなのだと思えた。