61歳

朝 カリフラワーとササミと菜の花の玄米フィットチーネ

夜 「杉玉」でひとりお寿司

3月26日は61歳の誕生日。母が亡くなって9年経つのか。早いものだな。ここ2年は米沢へ帰っていない。友人から「定年になりました」という連絡がくる。定年って区切りがあっていいなあ。今日も相変わらず2B Channelの動画編集をして、その合間にtwitter投稿している。思ってた61歳とぜんぜん違う(笑)

 

<2013年3月26日の日記から>

米沢で迎えた誕生日。52歳になった。52年前の今日、米沢で生まれた。そして52歳の誕生日に母を送ることになった。先週の金曜日未明に母は施設で眠ったまま息を引きとった。朝方の巡回で施設の方が異変に気がついたそうだ。前日まではいつもと変わりなく、食事も三食とって普段通りにベットに入ったという。喉に異物を詰まらせたわけでもなく、死因は不明。死亡診断書は急性心筋梗塞となっていた。しかし心筋梗塞によって苦しんだ後はなく、本当に眠っているうちにそのまま機能が停止したようだ。享年77歳。朝方妹から「母が息をしていない」という電話をもらったときは冷静だった。驚きよりも、くる時が来たなという感じだ。最後に会った時に、これが最後になるなと思っていたからだ。すぐに全ての予定をキャンセルして朝一番の新幹線で妻と米沢に向かった。妹の自宅にはすでに母は安置されていた。白い布団に春の日差しが差し込んでいてきれいだった。真っ白な髪の毛や頭の形は、僕とまったく一緒。笑っってしまうくらい似ている。こんなに間近に母の顔を見たのは初めてかもしれない。そっと触れた頬は冷たかったけれど弾力があってしっとりしていた。闘病の末ではないから、死んでるとは思えない。全然悲しくはなかった。普通なら「目を覚ましてくれ」と泣きつくところなんだろうが「もういいよ、起きなくていいから」という気持ちになったのだ。思えば苦労ばかりの人生だったような気がする。最後の数年は僕のこともはっきりとわからなくなっていた。でも会いに行くと「あら!」といって嬉しそうに笑う。最後に会った時には会話はなかった。ただ横にいるだけ。それでもたまに僕の顔を見て微笑んだ。これで会えるのは最後かもしれない。その予感は当たったことになる。どうしてもやらなければならない週末の予定があったので、葬儀の準備を済ませて夜に東京に戻った。そして、月曜日の仕事も終わらせて、再び米沢に帰ったときには、母はすでに小さな箱の中に収まっていた。

遺影には、施設に入る前に母と上杉公園に行った時に撮ったものを選んだ。嬉しそうに笑っている。僕が一番好きな母の写真だ。もし何かあったら遺影にしようと決めていた。涙なんて出ないと思っていたのに、夜に妻と娘と三人で夕食を食べていたら、突然涙が溢れ出した。抑えきれない感情が体の中から次から次へと湧いてきて自分でも驚いた。ああ、終わっちゃたな。もう米沢を撮ることもないんだろうな。写真集『da.gasita』の最後のテキストには母のことを書いている。思えば『da.gasita』を7年も撮り続けたのは、記憶をなくし始めた母との関係を確認するための作業だったのかもしれない。それも今日で終わり。泣いたらすっきりした。これからは誕生日ごとに母を思い出せるわけだからこれはこれで悪くない。