「絶景」

朝 イワシのホットサンド、野菜トマトスープ

夜 大根、蓮根の炒め煮、サーモンのスパイス焼、生姜とシラスの炒飯

昼過ぎまで仕事を片付けて上野の「The 5th Floor」に石川竜一を見に行く。木村伊兵衛賞を受賞した「絶景のポリフォニー」。ニコンサロンでやっていたものと同じプリントだった。この展示は前回原宿のギャラリーで石川竜一を見た時に渡邊浩行さんに強く勧められていた。「絶景は石川竜一の発明」と誰かが言っていたが、その意味がプリントだと良くわかる。写真集もすごいが、プリントになると数倍強くなる。通常「絶景」は普通にはお目にかかれない風景を指すわけだが、石川竜一の「絶景」はその辺にある。でもそこにあるのに誰も見ようとしないから「絶景」。そしてポートレートも彼にとって「絶景」。

展示を見てから、彼の分厚いプリントを束ねたブックを見ていたら、最後の方には具合が悪くなってきた。比喩ではなくて胸の辺りがグッと圧迫されて胃がムカムカしてくる。僕は心に鍵をかけて、石川竜一が撮る「絶景」を見ないようにしているんだと思う。石川竜一はその鍵を開けてしまったんだと思う。だから彼はもう戻れない。生きて行くことと写真を撮ることを直結させてしまった。そういう人は稀だが、いつの時代にもいる。多分最初に写真でそういうことをやったのは、ダイアン・アーバスで、上流階級育ちの彼女は最終的に耐えきれなくなったんじゃないだろうか。

渡邊浩行さんは「僕は宇宙船竜一号に乗ってそういう世界を見ているんです」と言っていたが、まさしくその通りで、その宇宙船はかなり揺れる。揺さぶられるから気持ち悪くなる。でもその先には鍵を外した「絶景」が待っている。

<2018年12月18日の日記から>

青森のりんごにヨーグルトをかけてレンジで温める

暗室なう。現像機が35度まであったまるのに1時間近くかかる。今日は1月の個展の最終プリント。もう納品済みなのだが、数枚差し替。出来上がりを帰りにギャラリーに持っていけば、あとは手を離れる。毎日原稿を書いている。あっという間に4時間くらいたっていてびっくり。でもずっと同じことをやると飽きるので暗室にやってきた。貸してもらっている暗室にも徐々に慣れてきて落ち着けるようになってきた。

先週木曜日に上野に「フェルメール展」を見に行ってきた。時間制の入場のため並ぶこともなくすんなり入ることができた。一昨年の伊藤若冲の時は炎天下に5時間待ちとかあったからなのだろうが、混雑が予想される展示にはいいと思う。ただし、ネットからのチケット入手方法が煩雑すぎ。最終的にコンビニで受け取るので最初からコンビニの端末で買った方が早い。フェルメールの絵はワークショップのポートレート撮影の説明のときに頻繁に引用している。非常に写真的な光の扱い方をしているからだ。フェルメールのアトリエにはレンズのついたカメラオブスクラが設置されていたという話だ。オランダに行った際にアムステルダムで「ミルクをそそぐ女」、デルフトの美術館で「真珠の耳飾りの少女」と「デルフトの港」と、3点のフェルメールの絵を見ている。今回はデルフト美術館のものは来ておらず、計9点の絵画を見ることができた。同時代、1600年中ごろのオランダ絵画も合わせて見ることができるのだが、全ての絵画において解像度が異様に高い。中判デジタルカメラで撮った8000万画素よりも細かいと思われる。絵画なのに写真的に見えてしまう。この時代のオランダ絵画は宗教色がないから見ていて気が楽だ。宗教絵画はどこか身構えてしまう。デルフトの美術館で見た時は柵もないので「真珠の首飾りの少女」をガラスに鼻がつくくらいの距離で見れたが、今回はかなり距離があった。日本におけるフェルメール人気を考えれば仕方がないか。