スタバよりコメダ

朝 「コメダ」でコロッケバーガー

夜 新大久保「ベトナムちゃん」

隣家の建築がとうとう始まってしまい、朝から工事の音で落ち着かない。ずっと家で仕事をしていたので、久しぶりに外に出ることにした。朝ごはんも食べずに家を出て、まずは駅前の「コメダ」で朝食。美味しいわ、ボリュームあるわで、流行るはずだ。コーヒーの味もスタバより好みだ。

その後は「竹谷隆之の妖怪絵画展」を見に行ってきた。竹谷さんは日本で最も有名な造形作家でジブリ作品や安野秀明作品も手がけている。展示会場は元お米屋さんだった古民家を利用したギャラーで、建物自体からして怪しげで面白い。昔ながらの日本家屋と妖怪はベストマッチ(笑)  至るところから妖怪の目がこちらを見ている。会場の雰囲気がとても良くて、僕もこういったところで展示をしてみたいと思ってしまった。四角くて白い壁のところもいいが、空間自体が面白いところは魅力を感じる。

月曜日は映画の日にしているので、新宿に出て『燃えよ剣』を見に行く。司馬遼太郎の長編小説が原作になっている。主人公の新撰組副長土方歳三を岡田准一が演じている。あの長い話をどうやってまとめるのかと思っていたら、かなりスピーディに話が展開して飽きることなく見れる。それにしても人を斬りまくり。いまなら理不尽と思えることで、人がバンバン死んでいく。原作を読んだ時も途中で辟易したことを思い出した。小説では新撰組がバラバラになってからの土方がものすごく色っぽく描かれている。その感じは映画でも出ていた。この映画を見ようと思ったのは、日本の近代の始まりを知りたかったから。当時の風俗や様子は、文字よりも映像のほうが伝わってくることが多い。

新宿から大久保に出て、友人と合流し4人で夕ご飯。前回同じ顔ぶれでご飯を食べたのは1年半前だった。「ベトナムちゃん」はその中の通り、ベトナム料理のお店。ここの味付けは絶妙で本当にうまい。コロナ前は予約をとるのも大変だったのに、今夜はお客さんがあまりいなかった。まだまだ飲食店は大変なんだろうか。

竹谷さんの展示を見に行ったことから、夜遅くにアトリエにお邪魔することになった。実は僕の家から歩いて5分ほどの場所。伺うのは2度目になるけど、作家のアトリエはいつ見ても面白い。貴重な造形作品をみせてもらいつつ、あんなものやこんなものが無造作に置いてあるので、作者の解説付きで個展第二部を見ているような感じだった。

<2016年11月16日の日記から>

石油ストーブの上ででお餅を焼く

フジX-T2が欲しくなったのは、友人の山下恒夫がフジX-Pro2を使っているから。単純だな。あれだけ入れ込んでいたソニーα7とライカレンズの組み合わせは近頃ちょっと飽きてしまっていた。売ってしまってフジを買おうかなと思っていたときに、台湾の歌手クラウドを撮影する仕事で久しぶりに使ってみた。これがいいのだ! ズミルックス50ミリを感度2500、絞り開放からF2くらいで使ったのだがポートレートによく合う。レンズの癖が良い方に転んでくれる。中心のシャープさと背景の独特な2線ボケ。軽いし発色もいい。それとマニュアルでピントを合わせる行為というのは、撮影の意識を高めてくれるところがある。でもα7には手ブレ補正がついていないから盛大にブレる。どんどん撮ってたくさんのカットを使うには難しい。α7Ⅱには手ブレ補正がついてるなと思うと心が揺れる。なんて考えていたらオリンパスOM-D E-M1 Mark IIが発売になるとアナウンスがあった。5軸での手ブレ補正は6段半の効果があり、手持ちで2秒でも大丈夫だと聞いた。2秒の6段半と言えば1/45秒。確かに理論的にはブレない。これは面白そうだ。感度を上げてブレないようにするのか、感度を上げなくてもブレないようにするのか。 メーカーのスタンスがはっきりしてきた感じだ。ネットニュースでは、レンズを使わず同心円状にプリントされたフィルムで撮影するカメラが発表され話題になっていた。それによってピントを合わせるという概念も消失するらしい。ピントは後から選択できるものになってきた。画像解像度も小さなファイルから高精細にするデジタル補完技術も大きく進化している。長い間ピントが合っていてブレていない写真が良い写真だとされていた。それはほんの先の未来では当たり前のことになる。おそらく5年とかからない。そのときカメラは、写真はどうなるんだろう。一瞬のチャンスを、なんてことも言わなくなってくるだろうし、それこそ初めて見る風景というカテゴリーもなくなる。そんなとき僕はどんな写真を撮っていけばいいんだろう。その問いを見つけるために美術史も写真史も哲学や宗教までも勉強してみた。でもやればやるほど、知れば知るだけ写真は撮れなくなってくる。常に頭の中に浮かんでくるのは「こんなもの撮ってもしょうがないじゃないか」。どんなにデジタルが進んでもフィルムと印画紙は残っていて欲しい。カメラにフィルムを詰めて知らない土地を歩きたい。帰ってきたらそれを暗室でプリントするんだ。それが溜まったら展示をして、考えがまとまったら本にする。

写真は何かを伝えるためのものでなくてもいいし、撮っている人は全てを理解していなくてもいいと思う。「あなたは何を表現したいのですか」という問いに対して、考え続けることは必要でも正確に答えられなくてもいいんじゃないか。そもそも質問に無理がある。そう言えば『旅するカメラ3』の後書きの最後にこう書いた。「新しい写真できたよ。見て見て」。昨日見た同級生ふたりの展示はまさにそうだった。