「間」の不在

朝 燻製マグロのパスタ

夜 真鯛の刺身、カルパッチョ、鯛茶漬け、白ワイン

 

学生数人とzoom越しに話していて、その中のひとりが関西の大学で哲学、文学を専攻しているという。

現代詩を創作していて、最近写真を始めたそうだ。他の人たちに「最近文字だけの本は買った?」と聞いてみたら「まったく買っていない」「タレントのエッセイを買った」とそれぞれ返答。まあそうだろうなと思っていたら、ひとりは松岡正剛とか河合隼雄の本を読んだと言っていて驚いた。僕がそのふたりの本を読んだのは50歳を過ぎてから。

 

松岡正剛が書くものは、分かるように説明する気なんてない文章(笑)。でもあの博覧強記ぶりを見るだけでいい。もはや狂気じみてる。僕はノスタルジーについての彼の話がとても面白かった。

 

彼はノスタルジーを「取り戻したい故郷が失われたことを巡る感情」と定義している。

そして「実は、ノスタルジアは指定できないものへの憧れにもとづきながらも、その指定できないものからすらはぐれた時点で世界を眺めている視線なのである」

もっともここだけ読んでもさっぱり分からないが。前後をつなげることで、真意を探っていく工程が必要な文章だ。

 

最近映画やドラマ、アニメの台詞が状況をすべて説明するようになってきたとネットの記事にあった。ネットフリックスが倍速で観れるアプリを出したこともあって、芝居における「間」の存在理由がなくなってしまったというのだ。

ふたりがじっと見つめ合うことで「好き」を表現しようと思っても、間が空いていると視聴者は台詞のあるところまでスキップしてしまう。この場合脚本家は台詞で「好きだ」と言わせなくてはならないのだ。

 

「分かるよう説明してください」というのは、理解できないのは自分の問題ではなくて、相手の説明不足ということなんだろう。

本が読まれなくなった理由もそこにあるのかもしれない。

写真はどうだろう。すぐに理解できて直感的に反応できるものに「いいね」がつく仕組みだとすると、やっぱりわかりやすい写真の雛形はありそうだ。

学生からよく聞かれるのが「写真集の見方がわかりません」というもの。楽器もスポーツも楽しむためには相応の時間がかかる。写真集も楽しむためには時間がかかる。


そのかわり習熟に時間がかかるものほど、楽しみは多くなるんだけどね。