H6期募集中です。東京都写真美術館『イメージの洞窟』展

最近の東京都写真美術館の展示は、よくわからないとよく耳にします

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https://youtu.be/KNjEau4TG-E

 

22日の「即位の礼」の日に東京都写真美術館に行ったら、入場料が無料でした。そのせいか、いつもより混んでいましたね。でも2階の企画展「イメージの洞窟」を見てるお客さんは駆け抜けるように展示を見ていました。無料だから来てみた人が多かったせいでしょうね。 

ちなみに、東京都写真美術館は1995年に東京恵比寿にオープンした、写真を専門に展示収集する東京都が運営する公的な美術館です。ちなみに、世界で初めて写真を収集した美術館はニューヨーク近代美術館MOMAです。1940年のことです。

東京都写真美術館は、最近は「TOPギャラリー」という名称になっていますが、まだ馴染みがない。やっぱり都写美と言ったほうが馴染みがありますね。

今月は3階が「TOPコレクション展 写真の時間」、2階が「イメージの洞窟」、地下が「写真新世紀」展をやっていました。

3階のコレクション展はおすすめです。名作揃い。タイトルの「写真の時期」にあるように、写真が持つ時間を切り取ったり、堆積させたりする特質を現す収集が集められています。

個人的には、ユージンスミスのプリントが超絶すぎて驚きました。ローライ フレックスで撮られたであろうポートレートは、現在のデジカメでもかなわない気がするほど。 

オーギュストザンダーの白い服の描写や、奈良原一高の「消滅した時間」のプリントもいい。

地下の写真新世紀は、5年ぶりくらいに見ましたが、以前と全然違う。エグイです。これは見てもらうしかないですね。モニターが並んでいて、もう映像作品は当たり前のようになっています。

東京都写真美術館は、2016年9月にリニューアルオープンしてから2階の企画展はかなり現代アートに振っている展示をしています。一言で言ってしまえば「写真っぽくない」。

そもそも、リニューアルオープンのときの展示が杉本博司の「今日写真は死んだ、昨日かもしれない」という刺激的なものでした。写真が死んだ?

 

つまり「みんなが思っている写真はもう死んだんですよ」ということです。

 

だからいまいち評判がよくない。「なんでこんな展示するんだ」っていうクレームも多かったそうです。クレームっていうのかな。まあ苦情ですね。「こんなの写真じゃない」っていうことなんでしょう。 

最近の2階の企画展は攻めてます。そのかわりといってはなんだけど、3階はコレクション展にして、歴史的な写真を数多く展示しているし、地下も名作が多い。

最近の都写美はバランスがいいなと思っています。

先ほども言ったように2階の展示はよくわからないという場合が多い。今回の「イメージの洞窟」も見に行った人が「5分で出てきてしまいました」と言っていました。なんででしょう。

日本を代表するトップキュレーターが、予算と時間をかけて作り上げた展示ですから、なにかしらわけがある。なぜ見ている人のひっかかりが薄いのか?

これは思うに、わざとわかりづらくしているんじゃないか、見て感動するようなものは、もうやめようとしているんじゃないかと。こういうと「芸術は心に感動させてくれるものでしょ」と言われそうですが、どうやら都写美のキュレーターはそう思ってはいないようです。

そういえば、ちょっと前にある市町村のトップが言っていましたね。「なにも感動しなかった」って。なんとなく僕らはアートは与えてくれるものだと思っています。

ところが、もう数十年も前からアートは与える存在ではなくなっているんです。

与えないならアートの存在は何かというと、考える装置みたいなものと考えられているようなんです。

そこで「イメージの洞窟」というタイトルが重要になってきます。キュレーターはそのタイトルを下敷きに、写真家を選び出している、だからタイトルの意味がわからないと展示を見ていてもピンとこない。

この「洞窟」。実は洞窟ってアートにとって、とても重要なキーワードです。

都写美のサイトの展示説明欄の中に「プラトンの洞窟」とあります。これがわからないと始まらない。

実はスーザン・ソンダクの写真評論集の冒頭にも「プラトンの洞窟」の引用が繰り返し書かれています。どうやら重要なものらしいことはわかります。

プラトンの洞窟とは、ざっくり説明すると、我々は洞窟の中に縛り付けられた存在で、後ろを振り向くことはできません。ずっと洞窟の奥の壁を見ている存在です。光が背後からやってきて、その影が壁に映る。

認識できるのは壁に映った影だけ。

それを我々は真の世界だと認識しているというものです。

そこで我々が認識しているのは影にすぎない、真の世界、本質ではないというたとのことです。

これって写真そのものじゃないですかね。撮影は「影を撮る」と書いたりします。

そして往々にして我々は写真を真実が写ったものだと誤解したりする。ただの写真と現実を同一視してませんか、そのように考えることができそうです。

プラトンがそれを考えたのは2600年以上前。それがいまだに有効性を持っているのがすごいですね。

写真は写真です。イメージにすぎないんですよ、ということだと考えると、今回の展示は俄然面白くなるはずです。

そして洞窟はそのほかにも多くの暗喩がひそんでいます。

神話の中にも洞窟は多く登場しますよね。古事記にはイザナギが死んだイザナミを探しに洞窟に入ったり、天照大神が洞窟の中に隠れたり、ギリシャ神話や各国の物語にも数多く洞窟は出てきます。多くは生と死を別つものだったり、再び生まれ変わる儀式の場として登場します。

そのほかにも、ラスコーの壁画、人類の祖先が生き延びたアフリカの洞窟など、洞窟には多くのアプローチがあります。アプローチが多ければ多いほど、展示内容に多様化生まれます。なのでキュレーターにとって、洞窟は使いやすい題材だったのでしょう。

 

2階の会場を入ると、志賀理江子の写真が1枚だけ展示され、作者からの説明文は何もありません。

洞窟のような場所の壁を見ている人の後頭部と、その影が写っているだけです。まさに「プラトンの洞窟」そのもの。

続いて、沖縄の洞窟「ガマ」を撮影したオサム・ジェームズ・中川の作品。高精細のデジタルカメラを使い、ステッチング処理によってガマの中を克明に描写しています 

彼はカメラのシャッターを開けると、自らライトを持ち、岩肌をなぞるように照らしていくことで撮影しています。

沖縄のガマは、太平洋戦争末期に住民が避難場所として隠れ、多くの犠牲者を出した痛ましい場所でもあります。

今でも壁が黒く煤けているのは、火炎放射器が焼いた後だと言われています。この洞窟には死のイメージが残ります。

そしてその展示方法は、中央に洞窟をイメージさせる半円形の立体展示になっています。その中にしばらくいると、真っ黒だと思っていた岩肌が浮き出てくるような感じがします。

次のブースには、北野謙のフォトグラムが天井から吊されています。フォトグラムとはレンズやカメラを使わず、物体をそのまま印画紙の上に置き、光を当てて制作する方法です。

まさに影を作品にしています。そして写っているのは、まだハイハイもできないくらいの赤ちゃん。そこに不思議と生のエネルギーを感じます。洞窟は産道のメタファーでもあります。

ジョン・ハーシェルの洞窟のドローイングは、写真がまだ生まれる前のカメラ・ルシーダという機器を使ったもの。なんとかして実物そのものを写しとめたという欲求を感じます。

フィオナ・タンのショートムービーはモノクロのニュース動画を繋げたもの。何かを伝えるために撮られたはずなのに、言葉の説明なしに断片的につながる動画からは何も伝わってきません。ただのイメージの連続にすぎないのです。

そして最後はゲルハルト・リヒターの写真。とはいってもその上にエナメルの絵の具が塗りつけられています。これは写真でしょうか。それとも絵画?

リヒターは写真そっくりの絵画を描く作品が有名です。まったく写真そっくりに描かれたものは絵画でしょうか? 写真が真実を伝えるとするなら、その役割は果たすのでしょうか。そんな問いが生まれてきます。

 

みんなが思っているような真実を伝えるための写真は死にました。その先に写真ができることって何? というのが今の都写美がやろうとしていることのように思えます。

 

 

 

 

 

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