写真集『△』(赤々舎)
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「この部屋の中だけで妻を撮ろうと決めて6年になる。彼女と向かい合って、私にはそうすることしかできなかった。あの頃の私は、自分の撮った写真すべてが嘘っぱちに見えて、何も撮ることができなくなっていた」(『△』あとがきより抜粋)
渡部さとるが主宰するワークショップ2Bの21期に参加してくれた岩城文雄さんは、2018年4月に赤々舎から『△』を出版した。赤々舎から出版された写真集は、木村伊兵衛賞をはじめ、毎年のように大きな賞をとっていて、いま世界中の写真関係者から最も注目されている。
渡部 『△』の出版おめでとうございます。岩城さんは関西の方ですよね。
岩城 神戸の出身です。大学が高松だったので、写真の仕事をしながらそのまま18年ほど暮らしていました。そのあと高知で1年過ごしてから東京に出てきました。
渡部 ワークショップ2Bに来たのは2007年でしたよね。その年の夏に一緒に東川のフォトフェスティバルにいったのを思い出しました。高松にいた頃からずっとカメラマンをしていたのですか?
岩城 在学中にアシスタントをしていたので、その流れで。高松は関西の会社の支店がたくさんあって、地方のわりには、商業的な仕事が多かったんですよ。当時はフィルムの時代でした。ポケベルが出てきた頃で、新機種が発売されるたびに撮影していました。本来なら中央からポジが配給されるのを待てばいいのでしょうが、地元でブツ撮りしたほうが早かったんでしょうね。雑誌でも広告でも、そういう類いの仕事が、いまから思えばけっこうあって、それで暮らせていました。今はそんな仕事はなくなっているでしょうね。
渡部 そうね、僕たちの時代のカメラマンは複写でも十分にお金を稼げていたからね。アナログだったね(笑)。どうして東京に出てきたの?
岩城 このままでは面白くないというか……。うどんや携帯電話を撮りたくてカメラマンになったんじゃない、と思い始めて。それで、東京に出て売り込みをしたんですが、さっぱりどこも相手にしてくれなくって(笑)。どうしようと思案していた頃に、渡部さんのブログや『旅するカメラ』を読んで、ワークショップのことを知りました。
実は僕は、それまで写真雑誌といえば、『アサヒカメラ』などの類しか読んでなくて、いわゆるミーハーな写真の世界にいたんです。知っている写真家といえば、篠山紀信とか荒木経惟とか。
渡部 マスコミに出ている有名な方々ですね。
岩城 そうですね。でもそういうコマーシャル的な仕事をしているカメラマンではなくて、作品を撮っている写真家という人たちがいるんだって知って、そっちの道に進みたかったんです。
渡部 最初に見せてもらった写真は、野球のグランドで女の子を撮っているカットでしたね。
岩城 そうそう、そういう写真でした。
渡部 2Bのグループ展では、無理矢理4×5でスナップを撮った作品だった。
岩城 そんな感じでしたね(笑)。何を撮ればいいかわからなくてジタバタしただけで結局は消化不良に終わりましたが。
渡部 そのとき、4×5を手持ちで撮っていたけど、それはどうして? 大型カメラでスナップを撮るってことは、35mmとか、普通の中盤カメラのように、自分の狙い通りっていうわけにはいかないから、構図やピントも決めづらい。しかも手持ちだからかなり偶然的な要素もあるし。
岩城 めんどくさいことをしたかったんです。
渡部 どういうこと?
岩城 わざわざ4×5を使ってスナップ撮影するなんて、めんどくさいじゃないですか。でも、めんどうくさいことをやれば、何かをやったつもりにはなれる。
渡部 あー、それはあるね。フィルムの時代は、プロセスを簡単にするか難しくするかは選べたから、たとえば、めんどうなプロセスがよかったのは、それをひとつひとつ積み重ねていくと、何かできたような気がしていたね。結果的には、簡単なプロセスと一緒なのかもしれないけど自分自身のやった感はあるよね。
岩城 何を撮ればいいのかわからなかったから、何かをやっている感だけでも欲しかったんでしょうね。手を動かしていれば気が紛れたんです。
渡部 カメラマンだからという気持もあった?
岩城 何を撮ったらいいのかわからないという焦りの方が大きかったですね。自分はいったい何を撮りたいんだろう、って。
たとえば、本心では美しいと思っていなくても、仕事であればそれなりにきれいに撮ることはできたんです。でもそのうち、ああ、これは美しいな、ちゃんと撮っておきたいな、と感じたものまで“手癖”で撮って済ませていることに気がついてしまって。美しいと言われるような型に当てはめる撮り方しかできなくなっていたんですね。こうなると、自分がそれを本当に美しいと感じたのかさえ怪しくなってくるんです。使い分けなんて器用なことはできないんですよ。これはあかん、と。ここから抜け出さなあかんと思ったんです。
渡部 広告的な写真からって意味合い?
岩城 そういう意味でいうなら「こうであってほしい」を絵にするような撮り方からですね。
渡部 職業カメラマンとしては、訓練されたものだから当然。それでお金をいただいていたからね。
岩城 でも、「こうであってほしい」という考えは、すぐに「こうでなくてはならない」になるんです。それはとても怖いことだと感じて。自分に都合のいい解釈を被写体に押し付けているだけじゃなくって、自分自身もその虚像に縛られていることに気がついて、それがとても嫌になったんです。
以前、2Bで評論家の竹内万里子さんが来られて、写真を見てもらう集まりがありましたよね。たしか2008年の暮れだったと思います。持参した作品を見た竹内さんが、困ったような苦笑いをしてるような表情で「うまいって怖いな〜」って言ったんです。その時はまったく理解できなかったんですが、最近になってようやくわかりました。撮れた気になっていただけで、何も写ってなかったんです。
渡部 そうでしたね。うまくはなれるけど、そのうまさからは、次が生まれないっていうことだと思う。職業写真家としては、うまくなることを目指さなくてはいけないけど、「表現としての何かはないですよ」という、ある種、残酷な批評でしたね。
岩城 「こうであってほしい」を絵にしているだけだと、写真が本来持っている問答無用の強さが出てこないんですね。『△』のシリーズは、どうすればそこから抜け出せるかを試行錯誤した作品だと言えます。
渡部 実際には、どんなことにこだわって撮影していたのですか?
岩城 写真集には撮影した時系列のまま掲載していますが、まず、ずっと使っていた6×6で撮ることをやめました。これは、対象を真ん中に置くことで収まりがよくなる正方形故の絵づくりで、デザイン的に美しく仕上げてしまう癖をなくすためです。長辺が微妙に広がることで生じる不安定さといったものが欲しかったのかもしれません。
もうひとつは、対象から距離をとって撮るようにしたかったのですが、正方形だと天井と床や畳ばかりが入ってどうにも締まらなくなった、という理由もあります。
古いレンズの味なんかもどうでもよくなりました。6×7で撮るようになってからは、三脚を使うようにしました。
渡部 え、これ三脚を使っていたの?
岩城 ええ、ほとんどのカットで三脚を使っています。自由に動き回れないように。絞り込んでいたので手振れを防ぎたかったのと、水平垂直を正確にとるという目的ももちろんあったんですが。
渡部 水平垂直をとることで構図が決定されるから、自分のルールでは撮れなくなるからね。大型カメラを使うときと同じようなことを考えたんですね。
岩城 自分の中では、これを“大リーグボール養成ギブス”に例えていました(笑)。あのギブスは、もちろん負荷をかけて筋肉を鍛える役目もあったんでしょうが、最低限の動きで最大の効果を出すことを体に覚えこませるものだったと思うんです。
渡部 岩城さんも強制的に三脚を使うことで、どんな効果があった?
岩城 思考のショートカットが起きました。目の前の状況を投網でざっくり獲るような感じです。対象をひと塊に捉えるようになって、要素の散らばり具合を線でつないだ抽象画のように見ていました。「こうであってほしい」ではなく、そこにあるものをそこにあるように撮る、という意識へと変わってきたのはこの頃からだったと思います。
渡部 画角を正方形から横長に変えたことで、とらえ方がすいぶん変わってくるね。
岩城 思い浮かべていたのは、星空なんです。夜空にはたくさんの星が見えますよね。昔の人は自分なりにこれだと思う星を線でつないで、様々なイメージを描いていろんなものに擬えたりしたのでしょうね。それは本人の記憶や体験からの連想なんでしょうが、写真にも通じるなと思ったんです。見る人によって星と星のつなぎ方が変わるように、たくさん情報がある中で、どの要素を拾ってつなぎ合わせるか、なんです。
だから僕も、このシリーズを撮っている中盤あたりからイメージしてきたのが、点々と散らばっている星をつないでいくような感覚でした。6×6の頃は、対象は常に真ん中だったんですが、洗濯物が写っているカットあたりから、視界に入ってくる要素の散らばり具合を見ていました。
最初は対象を形として捉えていたのが、構図というか、その配置を見るようになってきました。ばらまき加減というか、バラバラなまま、まとめないんです。写真集のいちばん最後のカットは僕の中では満点の星空なんです。
渡部 岩城さんは、『△』のシリーズとして、この写真集の前にも、自家製本で『01』を出していますが、僕はこれを最初に見たとき、いままでの岩城さんの写真とずいぶん変わっていたんで、激賞した覚えがあります。何年頃からこれを撮っていたのですか?
岩城 『01』は2013年10月に出しているので、撮りはじめたのは2012年の6月ぐらいからでしょうか。『△』の表紙はこの部屋に越してきた最初の日に撮ったものです。6×6で撮っていたのは1年と少しぐらいで、2年目の半ばぐらいからは横長のフォーマットに変わっていきます。
渡部 僕は、この写真を見るたびに、奥さんが岩城さんの共犯者のような印象をうけるのだけど。だってこっちをにらんでいるじゃない(笑)。これって普通はできないよ。荒木経惟の『センチメンタルの旅』もそうで、陽子さんも歯を食いしばっているように、常にこっちを見ている。それとすごく似ていて、これは確実に岩城さんの写真を信じているというか、旦那がカメラマンだからもう仕方ないと覚悟を決めているというか、あきらめているというか……。『01』を初めて見たときにそれを感じて、これはすごいなと思った。
彼女や奥さんを撮った写真ってたくさんあるんだけど、だいたいはモデルとして存在しているケースが多くて、撮られることを諒承して、ある程度「よい私を撮ってね」という意識があるけど、これはそうじゃない。もう覚悟して撮られている様子が伝わってくる。撮影のタイミングなどはどうしていたの? 文句は出なかったの?
岩城 三脚をセットして水平をとっている間にどっかに行ってしまうこともあるし、文句を言いながらその場に居てくれるときもありました。確かに笑顔というのは撮っていても見ていても心地のよいものなんですが、被写体は私を心地よくするためにいるわけではないし、自分にとって都合のよい場面ばかりを残すことは、やっぱりエゴだと思ったんです。だから、彼女が笑顔でいるかどうかは、あるいはその逆も含めて、そういうことがシャッターを切るきっかけにならなくなりました。
渡部 赤々舎から出版された経緯を教えてください。
岩城 2015年の4月に京都グラフィーでポートフォリオレビューを受けたんですが、僕が選んだ3人のレビュアーのひとりが赤々舎の姫野希美さんでした。まだ撮り続けていることを伝えたら、まとまったら、また見せてくださいと言われたので、翌年の秋に、あらためて見せに行きました。
それでその場で「本にしましょう」と言われて。即断だったので、驚きました。姫野さんが写真を見ながら「やっぱり出してしまうんだろうなー」と独り言のように呟いていたのは今でも覚えています。
渡部 赤々舎から出版されている写真集は、近年大きな賞をとっていますよね。これはすごいことだけど、姫野さんからはどんな感想を?
岩城 実は感想らしい感想は編集をしている間にも二言ぐらいしか言われなかったんです。ひとつは「私はこの写真を見て気持ちが安らかになったことがない」と「表情がなんとも言えない」、あ、それから「強い」とも言われました。
渡部 姫野さんとしては、写真集をつくるということは、それが売れなかったら会社の大きな負債になるわけだから、そこを踏まえて出版することを決意したと思えば、それが最大の評価になるんだろうね。△というタイトルはどう決まったのですか?
岩城 いろいろ姫野さんに提案したんですが、ことごとく却下されました。詩的すぎたり写真に比べて強さが足りない、と言われて。確かにどれもしっくりこなかったんです。言葉にすると固定されてしまうというか、わかったつもりになってしまうというか。あるとき、夜行バスに乗っていてふっと思いついたのが「三角」という単語でした。「三角形」じゃなくて「三角」。硬質で抽象的なのに塊感があって。これいいかもしれないなと思って、その場ですぐに姫野さんにメールしたんですけど、姫野さんの反応はあまり良くなかった(笑)。
それからさらに「三角」を「△」という形を表す記号にしたいと言い出した時は、さすがにそれは……っていう反応でした。「△」の方が言葉になる前のその形自体が頭の中に飛び込んでくるんです。やっぱり言葉を使いたくなかったんでしょうね。
編集作業は基本的に姫野さんを信頼してお任せしていたんですが、このタイトルについては粘りました。最終的には、出版前に決まったエプサイトの写真展のDMにレイアウトされた△を見て姫野さんもようやく納得してくれたようでした。
渡部 そうか、エプサイトの展示も2018年の4月でしたね。まだ写真集はできていないけど、DMはつくらなくちゃいけないわけだ。
岩城 そう、あの時点では、もしかしたらタイトルが変わっていた可能性もあったんです(笑)。
渡部 いまは写真集もひとりで思い通りのものがいくらでもつくれるいい時代になっているけど、誰かと一緒につくるということは、それ以上に魅力がある作業ですよね。それが写真集をつくり続けている姫野さんのような方の手を経るというのは、とても大きな経験だったと思います。森山大道さんに献本したら、手紙をいただいたそうですね。
岩城 ええ、まさか返事が来るとは思っていませんでした。
渡部 どんなことが書いてあったの?
岩城 「世界のすべてが謎だということ」や「最終的に愛が透けてうつる」といったことが書いてありました。今も現役で撮り続けている人の言葉ですよね。かっこいい。
先日、中平卓馬の「決闘写真論」を読む機会があって、この人たちは、もうあの時代から同じようなことを考えて撮れなくなっていったのか、とか、やっぱり行き着くところは図鑑になってしまうのかな、なんて思ったりしました。
渡部 森山さんは不条理までも受け入れるという態度の方だよね。わからないから、謎だからこれは面白くないんだというのではなくて、謎というものが、写真の中で大きなキーワードになるってことだろうね。
岩城 わからないから続けられる、というのはありますね。わからないものはわからないままにしておくんです。なんだかよくわからない何かが向こうからやってきて、それに気がつくかどうか、なんです。それが写真の強さになる。この先そういうのが撮れればいいなーとは思うんですが……。
渡部 そう、やっぱり聞かれちゃうよね。次のことを。何か考えていますか?
岩城 △のシリーズを撮り終えた後は、もうあんな切実さをもって撮ることなんてできないだろうと思っていましたから。振り返ってみると、「こうであってほしい」から抜け出す一連の流れは、心地よさを手放すことでもあったのかな、と。“心地よさを手放す”、という考えが、現代美術でいうところの美しさを目的としない部分に通じるのであれば、いまはとても腑に落ちます。
いまある居心地の良い状態を手放して新しいところへ進むんです。で、次は何が撮れるんだろうなーって考えている。 なんだかぐるりと一回りして、また同じところに戻ってきてるなあ。アルルから帰ってきた時も考えてましたから。いったい何を撮ったらいいんだろうって。
渡部 そうでした。岩城さんがアルルでレビューを受けたのは2008年の夏だから、もう10年も前になりますね。
岩城 今回はあの時よりはマシかもしれない。
渡部 積み重ねができているからね。
岩城 写真集の後書きに、「これを撮らなければどこにも行けはしない」って書いたんですが、迷ったらまた戻ってこれる、そういう足場を作っておきたかったんです。『△』を撮り切った今は、“ここにとどまるな”という声が聞こえます。
部屋の中だけで撮ったのは、珍しい場所に行って撮るだけが写真じゃない、っていうか、そういう物語に寄りかかるような写真にはしたくなかったというのもあるんですが、とにかく縛りが欲しかった。それが解けたんです。
もう今はモノクロであることもフイルムを使うことにも縛られてないんですよ。この4月に東京から神戸に引っ越すことになったのも偶然ではなかったのかもしれません。
渡部 必然的だったということだね。
岩城 あのまま続けていたら、また悪い癖が出てたでしょうね。今も妻を撮らせてもらってるんですが、油断するとダメですね。マンネリは続ける意思がないと続かない。だからまた一からやり直しです。
渡部 最後に、具体的な目標などがあったら教えてください。
岩城 いまは「次の作品を作ろう」とはっきりと考えているところです。実は、こんなふうに考えるようになったのは、書店さんへの挨拶回りをしたからなんです。書店さんも、やはり売れるあてのないものは取り扱ってくれなくて、それは個人書店さんの方がシビアです。どちらかといえば大きな系列店の方が赤々舎の名前だけで取り扱ってくれたりしますし、最初は表紙が見えるように棚を用意してくれます。でも売れなければすぐに別の新刊にとって代わられてしまいます。
渡部 写真集を売るということは、本当にたいへんですから。
岩城 それでわかったのは、写真集を売るためには、書店さんに働きかけるよりも前に写真集を欲しがるお客さんを増やしておかないと、ということでした。何をいまさら、と我ながら呆れています。
渡部 自分だけ満足しているわけにはいかない。
岩城 はい、写真集をつくってくれた姫野さんや、取り扱ってくれる書店さんに報いるために一冊でも多く売れればいいのですが、そのために自分にできることは、やっぱり新しい作品をつくって広く知ってもらう機会を増やすしかないのかなと。なんだかすごく遠回りのような気もしますが、撮ることならなんとかできると思うので、ぼちぼちとやっていきます。
(取材:2018年7月12日)
岩城文雄
1966年生まれ 神戸市出身。
大学中退後はカメラマンとして高松、高知で活動したのち東京へ。
2007年 ワークショップ2B21期参加。
2018年4月 エプソンイメージングギャラリー エプサイトにて「△」写真展開催。
2018年4月より神戸に住まいを移し活動中。