妙に消化がいいというか、腹がへる

今までは「2Bに行ってくる」と江古田に行けば、ちょっとは集中して何かができたり、気分転換ができたのだが、引っ越してからは家にいることが多くなった。

 

積極的に外に出ないと、ずっとソファでウクレレを弾いてしまうことになる。昨日はふたつの展示に行って有楽町で映画を見た。

 

「ザ・スクエア」。現代アートミュージアムのキュレーターが主人公のフランス映画。カンヌ映画祭のグランプリだというので見たのだがちょっと苦手な部類だった。ずっと居心地が悪い感じで見ていた。

 

ただ現代アートが抱えている矛盾のようなものが垣間見えて、そこは面白いというか、そうだよね、というのはあった。

 

今日は海外作家の写真展を企画している友人がプリントの相談にやってきた。彼女は「近頃の海外の写真家ってテキストつけない人が増えてきて説明文がつけられなくて困る」と言っていた。

 

ちょっと前まではストーリーがあって、説明しやすいものがほとんどだったのに、最近はそっけないほどストーリーやテキストがないと言うのだ。

 

そこで「写真にストーリーは必要か?」という話になった。

 

ストーリーがあるとわかりやすい、共感が得られやすいというのは作家には明確な意図があるという前提があるわけだが、その前提が崩れているとするとどうなるだろうか。

 

実際に最近の作家のインタビューを見ていると「明確な意図はない」というのが増えている。ストーリーをつけることに対して積極的に離れようとしているかのようだ。

 

ちょっと前まで「作家は作品を発表する場合、伝えたいことが明確になっていなければならない」と言われてきたけれど「わからない」ことを認めようという動きになってきたように見える。

 

確かに伝えたいことが明確にあるならテキストだけでもいいわけだ。そのほうがむしろ誤解は少ないだろう。

 

写真の存在価値を「言葉の外にで出よう」と考えたとする。

 

そうなると言語では説明のつかないことになる。

 

写真はもう情報を伝えるものから「わからない」ものを扱うものへと変わってきてるのかもしれない。

 

帰り際彼女は「ちょっとすっきりした。ずっとモヤモヤしてたから」と言っていたが、僕はずっとモヤモヤしっぱなしなのだよ。