靴はコンバットダナー、ゴアテックスのパンツ、ヴィクトリノックスのダウンを着てギャラリーへ歩いて向かう。
こんな雪の日は誰も来ないだろうと思っていたが、日差しに誘われたのか来客がいつもより多いくらいだ。
昨日は昼から大雪で、夜半まで降り続いた。ニュースを見ると帰宅困難者が駅に溢れていた。足元の革靴がいかにも滑りそうで気になってしまう。
幸いにも、まったく幸いにも月曜日はお休みだった。近くの友人宅に山形の漬物をもらい受けに行ったら雪見酒に。ちょっと後ろめたさがあって、それはとてもいいツマミとなった。
我が家は寒い。居間に置いてある石油ストーブ半径2メートルしか暖かい場所はない。トイレとかお風呂はとんでもなく冷える。まあ昔住んでた米沢の家もそんなものだった。でもヒートショックの話をやっているたびに気になりはするが。
石油ストーブ、ガスファンヒーター、電気ストーブを局所局所に配置してなんとかしのいでいる。
週末は通常のワークショップ以外に美術史の講座をやっている。僕が教えるのではなく、参加者に調べてもらいプレゼンしてもらうのだ。
僕は美術史の専門家ではないが、流れは知っているので何が重要なのかは察しがつく。先週は戦後現代アートの回だった。マークロスコ、アンディウォーホル、リキテンシュタイン、ヨゼフボイス、具体ともの派、アイウェイウェイなどだ。流れを見ていくうちにここで思わぬことに気がつくことになる。
イメージとオブジェクトの関係性だ。イメージは実体で、オブジェクトは制作物だと考えてみて欲しい。
ダヴィンチ以降、遠近感と陰影法を使ってイメージとオブジェクトを限りなく近づけようと試みる。それが1870年くらいにおきる印象派あたりから揺らぎ始め、1900年のピカソ、ブラックからイメージとオブジェクトの再構成が起きた。これが分析的キュビズムと呼ばれるもので、オブジェクトの中にイメージは細分化して構成されることで喪失してしまう。
その後総合的キュビズムになると、コラージュを使うことで、オブジェクトに現物を貼り込み再びイメージを取り戻そうとする。
戦後抽象絵画はイメージとオブジェクトの完全分離であり、オブジェクト優先の結果なのだ。
写真も長い間イメージとオブジェクトをイコールで結ぼうとしていた。それが現代写真と呼ばれるものには見られない。だから昔から写真をやっていたものは戸惑うのだ。
これはとてもとても大事なポイントであることは間違いない。というか「そんなことも知らなかったの?」と言われてしまいそうだが。
僕らの時代に写真をやっていてそのことに気がついていたのはほんの一握り、いや、ひとつまみだろう。
実はこの問題は2007年にアルルで一緒にレビューを受けた川上休日郎が言われていたことなのだ。
あの時はふたりしてその真意が分からず首をひねっていた。10年経ってようやくレビュワーの言わんとするところがストンと腑に落ちた。
しかし知れば知るほど「それ、早く言ってよー」なのである。