オリジナルが複数存在することで、米沢とフランスで「同じもの」が展示できる面白について前回書いた。
複製可能な写真の場合、よく「アウラ」についての話が出てくる。ちなみに近頃よく言われる「オーラ」とは違う。
オーラは単に「人間の雰囲気」という意味でも使われることが多い。「あの人にはオーラがある」みたいな感じだ。
1930年代、イツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの著作によると、写真と映画による複製芸術以前は、芸術作品の権威はそのオリジナルが存在する時間と空間に結びついた一回性によって支えられていたとある。
アウラとは、オリジナルの作品が持つ「いま」「ここ」を根拠とする唯一性の権威のことだ。オリジナルの一回性に重要さを置くことがアウラ。つまり「複製技術時代の芸術作品」にアウラは存在しないことになる。
面白いのはアウラが存在しないことは悪いことではないということだ。
ベンヤミンは「アウラの凋落」によって引き起こされる作品概念の変化を歓迎し、より多くの人々に鑑賞と表現の機会を与えた映画を始めとする非アウラ的芸術に大衆参加の可能性を見出していたとある。
一点ものの絵画に対してどこか引け目を感じることがあった写真だが、そのアウラの無さこそに複製芸術の未来があると、1930年代にベンヤミンは言及している。
ただここで思うには、印画紙プリントにおける一回性についてだ。モノクロでもカラーでも銀塩印画紙によるプリントは繰り返し性が意外と低いものだ。
ネガがあっても、日を違えてプリントすると同じものにはならない。まして印画紙が変わるとまったく違うものになると言ってもいい。
そこでアナログプリントをするものは、何度やってもほぼ同じものが出せるインクジェットプリントとの違いを売り文句にするところがある。
銀塩プリントは一点物なんですよ、初期物はヴィンテージプリントと言って貴重なんですよ、だから高価なんです、という具合だ。販売されている印画紙のクオリティは年々落ちていく。古いネガと現在の印画紙は相性が悪いということもある。だから古いほうがいいという考え方だ。
面白いのは市場においてはインクジェットプリントにおけるヴィンテージプリントという概念が消えてしまっていることだ。新しい機械でプリントするほうが良いプリントが仕上がるからだ。
複製芸術におけるアウラの喪失が新しい芸術の可能性を生むとされてきたわけだが、印画紙プリントをするということは、そのアウラにすがりついている行為なのかもしれない。