5匹350円のイワシを買ってきて酢〆。ゴマと大場とネギと生姜を大量に刻んでわさび醤油で合わせる。

英語を勉強し始めると、それに伴い日本語が抜けていく。何か書こうと思ってもまとまらないし、思いつきもしなくなる。

なんでこうも単機能な頭なのかね。あれもこれもやりたいのだが、あちらを立てればこちらがたたず。英語を熱心にやるのはひとまず3月までにして、しばらくは頭を切り替えることにしようと思う。慣れかけた英語から離れるのはもったいないが、日本が出てこなくなると仕事にならない。

今年中に『旅するカメラ』の続編というか、最終章というか、このタイトルでのまとめを出したいと思っているのだ。

3月は香港ブックフェアに行って、オランダバス教授のレビューや対談が冬青であるので、4月は切り替えの時期になりそうだ。それと3月24日からはルデコでワークショップのグループ展がある。

英語の勉強といっても、ただ単語と用法をiknowでバカの一つ覚えのように暗記して、VOA(ボイスオブアメリカ)のサイトでニュースを聞いて、週一回カナダ人女性と個人レッスンをやっているだけで目立った進歩はこれといってない。

講師のカナダ人は、まだ30歳ちょっとなのだが、人生の経験量がものすごい。大学院まで心理学を研究して、歌手としても同時に活動し、世界中を回り、今は日本人と結婚してラブラドール犬と双子の母親。とても20歳年下と話しているような気にはならない。

英語を習うというより、日本に住む外国人がどのように日本を感じているかが分かるのが面白い。前回のお題は曽野綾子の一連の記事について。南アフリカの友人もいる彼女の話を聞いて、ディベートになるようにあえて反論してみたり、日本の構造的な問題や歴史的な背景を説明していく。島国である、土地が狭い、ほぼ単一民族、単一言語、宗教感が薄い、血族を大事にする、少子化高齢化などなど。

子供を育てるなら日本とカナダではどっちがいいと思う?と聞いたら「やっぱりカナダが育てやすいと思う」と言っていた。日本の教育は画一的に見えるし、実際彼女が日本の小学校で教えていた時に一枚の紙を渡して「自分の名前を書いてください」と言ったところ、全員が周りを見てモジモジして誰も書かないことがあったという。

理由を尋ねると「紙のどのへんに、どのくらいの大きさで書いていいかわからない。誰も書かないから私も書けない」と言ったそうだ。それを見て彼女は相当ショックを受けたらしい。日本で教育を受けたら自分の子供もこうなってしまうのが恐ろしいと。

ある大学生に英語を教えた時は、彼は日本でもトップレベルの私学の学生なのだが、会話がまったくつながらない。ある程度英語は理解できている、でも何も話さない、ただ頷いているだけ。極めつけは「趣味はなんですか」という質問に絶句したように10分以上かたまり、ついに何も答えなかったそうだ。

そんな話を聞いていると日本を擁護しようにもこっちが唖然となってしまう。

日本は今、移民を増やさざるを得ない状況なんだよな。モバイル自動翻訳機が開発実用化されても、言語だけではその溝は埋まらんぞ。