現代アートってなんだ?2013年に僕が気が付いたこと。

ここに書くことは僕が2013年にレビューサンタフェがきっかけで気が付いた現代アートに対する個人的な考え方です。これからこの話は機会を作って色んなところで話していき、現代アートとは何かを皆で考えていくきっかけを作っていきたいと思っています。


ある女性にレビューを受けた時に、僕の写真に対し「ノーモアノスタルジー」と強く否定を受けた。彼女は「現代アート」を専門とするディレクターだった。

それが彼女の個人的な趣味趣向から来ているのではないということは理解できた。なぜなら現代アートではノスタルジーを含んだ写真以外にも、ファインアートですら否定される傾向にあるというのは体験として知っていたからだ。

しかしなぜ「ノーモアノスタルジー」なのかはいまひとつ理解できていなかった。それは会期中ずっと頭から離れなかった。

レビューサンタフェにはアメリカを中心に世界中から「すでに完成された写真家」100人を審査を通して集め、レビューやレクチャーを行う。つまりそこに集まる写真家はすでにアーティストとしての意識や知識を強く持っている人たちということになる。

合宿所のようなホテルで朝食をとっていると日本から参加していた荻野直之さんが僕を見つけ「渡部さんが昨日僕に話してくれた写真と社会性について関係がありそうな写真家がいるから紹介します」とスペインの女性と引き合わせてくれた。彼女はイタリアでとても有名な雑誌社のフォトエディターで、自らも写真表現をやっている。

前日荻野さんと話していたのは、僕が近ごろ感じていた「2008年ごろから欧米の写真の主流がポートレートになってきている気がする。美術館での展示を見ていると一様に横位置で、ちょっと引き気味の構図で、背景は無地ではなく、なにかしら状況が写っている。決定的な特徴が無表情。そこでいったい何が起きているかはステートメントを読まない限り把握できない。すべてがステートメントありきになっているし、日本で強く求められてきた撮影者と被写体と関係性よりも、被写体と社会の関係性で構成されているように見える」というものだった。

スペイン人の彼女は拒食症をテーマにした写真を今回レビューに持ってきていて、僕もオープンポートフォリオレビューの時にその作品を見ていた。ガリガリに痩せてしまった女の子たちのショッキングな写真だったが、そこにいわゆる「アート性」のようなものは感じなかった。

話を聞いていて驚いたのが、彼女は自分でその写真を撮っていないというのだ。あるクローズドな拒食症のwebミュニティに参加し、彼女たちの許可を得てその写真をネットから落とし、それを作品としているのだ。拒食症の女の子たちは自分の体を写真に撮って自己を確認し、それをネット上にあげることで分かち合っているのだ。

「なぜ自分で撮らないの」という僕の質問に「私が撮りに行くよりも、もっと素晴らしい写真がそこにあるのだから」とこともなげに言う。いかに撮るかだけを考えてきて生きてきた僕は少々面喰ってしまった。

そしてそれをどのように発表していくかという話になった。彼女は編集者である。ネットにも強い。しかし彼女はメインに考えている発表の場所は美術館「Museum」だと答えた。

「どうして?あなたは編集者でしょ。雑誌じゃないの?ネットならもっとたくさんの人に見てもらえるじゃない?」

彼女は首を大きく横に振ると衝撃的なことを言った。

「だって私のお母さんは雑誌も読まない、ネットもしない、でも美術館へは行くわ。そこに見に来てくれた人が、このことを家に持ち帰って、今現実に起きている問題を皆で考えて欲しいの」

その瞬間、現代美術館の存在意義が初めて理解できた気がした。たしかに欧米の現代美術館に行くと、おじいさんが孫と一緒にきていたり、老夫婦が手をつないで見ていたり、家族で来ているのにも出くわす。そして作品を前によく話している。

現代美術館とは「今世界でおきている問題を考えるきっかけを作る場所」という解釈なんじゃないだろううか?そう考えてみると美しいだけのファインアートやノスタルジーは、考えるきっかけを奪うことになるから必要ないし、無表情なポートレートはその状況を悲しんでいるのか、苦しんでいるのか、受け入れているのか考えようと、見るほうが能動的になる。そこでステートメントでその状況を説明することでより深く考え、その問題を皆で考え「共有」しようと思うのではないか。

ここで「共有」という言葉が大事になる。「SHARE」とは情報を共有するのではなく、ある問題を皆で考えることなのだ。

そして現代美術館はそのために存在し、見るほうも見せるほうもそこから始まっているのではないか。だから考えるきっかけとして評論が存在する。それは単なる作者の紹介や写っているものの説明であるべきではないのは明白だ。

彼女が自分で撮らなくても、問題を提起して考えてもらうことができればいいのだ。若いアーティストと話をしていて、アメリカを代表するある古典的で美しいプリントの写真に対し「退屈でつまらないもの」と表現していたのも頷ける。そこには何も新しい考えをもたらす仕組みが見えてこないからだ。

ということは哲学とアートは同じことだ。どちらもただ生きていくには必要ない。しかし「よりよく生きよう」と考えた瞬間に必要となる。どう生きるかを考えるきっかけを作るのが哲学でありアートなのだ。

彼女の言った「だって私のお母さんは雑誌も読まない、ネットもしない、でも美術館へは行くわ。そこに見に来てくれた人が、このことを家に持ち帰って、今現実に起きている問題を皆で考えて欲しいの」この言葉は僕の人生観すら変えてしまうほど衝撃的だった。

現代アーティストというのは常に社会性をはらんで制作してきているというのはこれで理解できる。だからそこには色濃く時代性が残る。工芸やエンターテイメントが現代アートと区分されるのは「美しさや娯楽は考えるきっかけを奪う」からではないか。

彼女がネットではなく美術館を選ぶのも、ネットでは深く考えるきっかけを作らず、現在においては美術館が一番発表媒体として優れているからだ。

欧米で現代アートが盛んなのは人種的、宗教的にたくさんの問題を歴史的に抱えていて常にそれを考えているからだろうし、その問題が少ない日本のアーティストは生と死(川内倫子)老と若(やなぎみわ)高と低(野口里佳)に代表されるように、もっと根源的なものを突き詰める人が多い気がする。そこが魅力となっているのではないだろうか。

ある写真家がこんなことを埴谷雄高氏の講演会で聞いたそうだ。

太古の昔、祈りが祈禱師による1声部モノフォニーの頃に生け贄と言う行為が続けられていた。

そこに複数の人々の声部を用いたポリフォニーが産み落とされて聖歌隊や囃子により歌い奏で、それに合わせて舞うダンスやらが生まれると人の間に瞬く間広がり宗教と言うモノが派生した。

それにより生け贄と言う行為が無くなり同時にカニバリズム(食人)も消えたと言う。

これが地球上初めて「新しく存在する事で変革が起きる意味の提示とその共有」芸の術・ARTだよ。

アートとは「いかに良く生きるかを皆で考えるきっかけになっている」のがここからも分かる。「共有」が大事なのだ。そのための仕組みが現代アートと呼ばれていて、写真においてポートレートが多いのも大型展示が多いのも、今起きている問題を共有しやすい仕組みなのだ。そしてそれは時代とともに、問題が変わるたびに仕組みは変化していくことだろう。

それは欧米だけではなく、日本においても多くのアーティストはそれを前提としてもっているに違いない。たいていのことはそれで説明がついてしまうからだ。なんだそんなこと当たり前じゃないかと若い人には笑われるかもしれない。でも写真だけを考えていた僕はそこのことを、本を読んだり話を聞いたりで頭で理解していていても、実体験で受け止める機会が今までなかったのだ。


そこまで気が付いたら今回のレビューで美術館の人に「展示をしてみたい」という何の提案もないオファーをかけていたことがものすごく恥ずかしくなってきた。

個人の、認められたいとか、褒められたいという欲求では何も動かないということだし、ここにきて「あなたは何を写真でやりたいのですか」ということがもっとも大事だということも理解できた。



ある写真家と会ったことでアートに対する僕の前提ができた。

52歳でようやくスタートラインにつけたということはこういうことだったのだ。