スンバワ2012 特別編 「ワンナイトドリーム1993」

1993年にバリ島へ行った時の話です。雑誌『カメラライフ』(玄光社)2010年の連載から。

「ワンナイトドリーム」

 アジアで泊まるなら1泊3000円くらいの宿がちょうどいい。形ばかりでもサービスを提供するという考えがあるし、3000円なら大概のことは諦めがつくというものだ。
 
 ある年、僕はバリ島ウブドゥの3000円の宿に泊まっていた。緑の中にあるコテージ作りの宿は涼しくて居心地がいい。その部屋で1冊の本を読んでいた。吉本ばななの『マリカのソファー/バリ夢日記』(幻冬舎) 。多重人格患者のマリカと主治医が治療のためバリ島を訪れるといった内容だった。物語に合わせて今まで知らなかったバリの精神世界のことが書かれていた。バリにいてバリの話を読むと、文中の空気感や湿度までリアルに伝わってくる。
 
 後半の『バリ夢日記』は、作者吉本ばななが取材で訪れたバリ体験記になっている。その中で極めて印象的なエピソードがあった。「ワンナイトドリーム」。1泊だけ、バリ島ウブドゥの最高級リゾートホテル「アマンダリ」に泊まろうという話だ。そこは当時アジア最高のリゾートホテルと言われていた。プールが2段構造になっていて境界線が空と繫がるインフィニティプールは、ここがオリジナルだったと思う。アマンダリはその時泊まっていた3000円の宿からすぐだ。
 
 翌日宿から自転車をこいでアマンダリに向かった。今思えば貧相な身なり、案の定ホテルのガードマンに制止されたが「今日から泊まるんだ」と言い張ってフロントに向かった。
 「1泊したい。部屋はあるか。料金はいくらだ」。拙い英語で訊ねたら、料金は当時で最低でも税別1泊5万円! たしかにワンナイトドリームそのものだ。でももう本を読んでいるから心は決まっていた。1泊の滞在を告げると「スタンダードタイプの部屋は満室だから」と、同じ料金でジュニアスイートにアップグレードしてくれた。
 
 僕はそこで初めてリゾートサービスというものに触れることになる。部屋の大きさや設備以上にサービスと言うものを実感できるのが宿泊者に対するスタッフの接し方だった。たとえば全てのレストランやバーにおいて料金チェックのためのサインの必要性がない。「チェックして」とスタッフを呼ぶと笑顔で「その必要はありませんミスターワタナベ」と返ってくる。
 
 翌朝、庭を掃除していたおじさんが「グッドモーニングミスターワタナベ」と声をかけてきたときに、そのホテルの本当の凄さを感じた。宿泊者の名前をスタッフ全員が知っている。こんなささいな、そしてもっとも難しいことが特別感を作り上げている。

 僕はこの話を帰国後何人に語っただろうか。「アマンダリではね……」。1泊5万円の「ワンナイトドリーム」。今思えば決して高くなかったと思うよ。