三陸から送ってもらった牡蠣。生でおいしい。

ギャラリー冬青で飯田鉄トークショーを聞きに行った。

冬青は毎回作家のトークショーを開いている。作品を前に生の声を聞くことがきる。

今回作品となっているのは、すでに取り壊された目黒雅叙園旧館だ。撮影のいきさつや手法を聞くことができた。

雅叙園は、もともと加賀の人が銭湯事業で一山当てて建てた、浴場付き宴会場だったということだ。まさに「千と千尋の神隠し」そのものだ。加賀の文化が反映されていると思われる装飾の数々だ。

老朽化による消防法の問題で取り壊されることになり、それを記録するチームの一員として飯田さんは撮影を始める。

写真はシノゴとハッセルを使い、タングステンライトの照明で撮られている。フィルムは当事発売されたばかりのフジクローム64Tだ。20年前のポジでありながら退色もなく、当事の様子をそのまま伝えているように思えた。

トークショーの半ば、同時期に飯田さん自身が撮影した8ミリフィルムの上映が会場内であった。高感度フィルムで撮られた8ミリの映像の画質は荒く、お世辞にも美しいとはいいがたい。ところが僕は、その音声なし、編集なし、撮りっぱなしの映像に釘付けになった。

圧倒的なリアリティなのだ、動画の情報量というものの凄さを知ることになった。薄暗いチラチラとした映像から当事の雅叙園の様子が手に取るように分かる。エントランスがあってフロントがあって長い迷路のような廊下を通って部屋へと続く。その時間の流れがリアルな体験として自分の中に残る。

写真はそのある部分を切り取ることで、時間軸が失われていく。まったく別のものとして存在している。

ある現象を伝えるのならカラーの動画がいい。でも写真は写真として存在していくのだということをあらためて理解した。

質問の時間の時、飯田さんに「たくさんのフォーマットやカメラをお使いですが、それは作品製作のための必然ですか、そいれとも写真を撮る上での生理的なものですか」と聞いてみた。

以前写真家高梨豊に同じ質問をしたことがある。その時は一言「すべて必然の上になりたっている。生理的なものではカメラを選ばない」ということだった。

飯田さんは「多分に生理的な要素が多いと思う。自分が主体より、被写体に寄り添うと気持ちがある。その被写体に一番合ったカメラを選ぶ」という答えだった。

前々から僕と飯田さんは、どこか似ているような気が勝手にしていた。僕がその質問をされたら飯田さんと同じように答えるだろうな。