今日の朝はうどんらしい。

今日から朝起きたら布団の中で日記を書ことにした。

仕事がないとだいたい12時に寝て8時に起きる。でも30分くらい布団の中でボヤボヤしてるので、その時間を使ってみようかなと。

 

昨日食べたもの

朝 リンゴとイチゴとヨーグルト。レンチンで温めるのがポイント。

昼 東高円寺「とんき」のロースカツ定食

夜 鳥の胸肉のサラダ トマトと人参のスープ バケット 鯖のペースト リコッタチーズ

 

お昼ご飯を食べる前に公園で1月に買ったLUMIXS5と今月届いたGopro

Hero9のテスト撮影。もちろんYoutubeネタでもあるが、来月から仕事でも動画撮影が始まるので慣れておく必要がある。

 

でも最初だから設定はフルオート。Goproは走りながら撮影してもまったくブレない。さんざんYoutubeで作例を見ていたけど、実際使うと感動レベル。

 

条件が良いところ、つまり明るいところでは、S5とさほど遜色がない。ただ色味もコントラストも高いから後処理での調整は無理っぽい。

 

S5で驚いたのが内蔵マイクの性能の良さ。かなりクリア。比べるとGoproはこもって聞こえる。

 

家に戻って編集作業。だいぶ慣れてきた、以前は3日くらいかかっていたのが今は5時間くらいになった。それでもかなりの時期だけど。

 

最後の最後、書き出しの時点でなんとエラー。大元の外付けハードディスクのファイルが壊れてしまって、リンクエラーになっている。

 

でも慌ててない。明日対処することにして、夜10時からは宮藤官九郎のドラマ「俺の家」を見る。長瀬智也主演で「タイガーアンドドラゴン」と同じ感じ。これが唯一見てるテレビドラマ。毎週っていうのがいい。

 

今日は娘の誕生日で二十数年前もすごく良い天気だった。

 

 

 

今日の朝はうどんらしい。

今日から朝起きたら布団の中で日記を書ことにした。

仕事がないとだいたい12時に寝て8時に起きる。でも30分くらい布団の中でボヤボヤしてるので、その時間を使ってみようかなと。

 

昨日食べたもの

朝 リンゴとイチゴとヨーグルト。レンチンで温めるのがポイント。

昼 東高円寺「とんき」のロースカツ定食

夜 鳥の胸肉のサラダ トマトと人参のスープ バケット 鯖のペースト リコッタチーズ

 

お昼ご飯を食べる前に公園で1月に買ったLUMIXS5と今月届いたGopro

Hero9のテスト撮影。もちろんYoutubeネタでもあるが、来月から仕事でも動画撮影が始まるので慣れておく必要がある。

 

でも最初だから設定はフルオート。Goproは走りながら撮影してもまったくブレない。さんざんYoutubeで作例を見ていたけど、実際使うと感動レベル。

 

条件が良いところ、つまり明るいところでは、S5とさほど遜色がない。ただ色味もコントラストも高いから後処理での調整は無理っぽい。

 

S5で驚いたのが内蔵マイクの性能の良さ。かなりクリア。比べるとGoproはこもって聞こえる。

 

家に戻って編集作業。だいぶ慣れてきた、以前は3日くらいかかっていたのが今は5時間くらいになった。それでもかなりの時期だけど。

 

最後の最後、書き出しの時点でなんとエラー。大元の外付けハードディスクのファイルが壊れてしまって、リンクエラーになっている。

 

でも慌ててない。明日対処することにして、夜10時からは宮藤官九郎のドラマ「俺の家」を見る。長瀬智也主演で「タイガーアンドドラゴン」と同じ感じ。これが唯一見てるテレビドラマ。毎週っていうのがいい。

 

今日は娘の誕生日で二十数年前もすごく良い天気だった。

 

 

 

上海角煮カレー

2月というのに暖かい。

 

3月の仕事のための打ち合わせで新宿へ。

ほぼ初めての内容でちょっと嬉しい。

 

帰りにヨドバシカメラによって、そのあとに中野のフジヤカメラへ。

今週までたいした仕事はなくて、来週から詰まってる。

 

今日の買い物

パナソニックS5のバッテリー

S5のモニター保護フィルム

 

自由雲台

『シネマティック・フォトの撮り

方 』(玄光社MOOK)

上田 晃司

 

ヨドバシカメラでパナソニックS1を触ってみる。先月S5を買ったばかりだが、上位機種のS1が気になる。

ファインダーはやっぱりS1の方が圧倒的にいい。70-200f2,8のレンズがデカすぎて笑う。

フジヤカメラで何気なく手に取った『シネマティック・フォトの撮りの写真がすごくて驚いた。いったい誰が撮ったのかと思ったら上田さんだった。

フジヤカメラはカメラ館より動画館のほうが滞在時間が長い。10万円するゼンハイザーのマイクが3万円台で売っててグラっときた。

 

 

 

 

 

 

2021年になりました。気がつけば3ヶ月ぶりの投稿です。

あけましておめでとうございます。
 
というのもはばかられる時期になってしまった。
現在は個展開催中のため、毎日「ギャラリー冬青」に通っている。
非常事態宣言が出るかどうかで大騒ぎしていた18日からスタートして、130日まで。
時間は11時から19時で、日曜日と月曜日はお休み。
 
タイトルは「銀の粒」
これ以上ないっていうくらい、曖昧なタイトルだ。
 
「ギャラリー冬青」が始まったのは2005年。僕が初めて展示をしたのが翌年の2006年。
以来、毎年1月に個展をさせてもらっている。
実は、冬青は202112月で終わってしまう。だから僕がここで展示できるのもこれが最後。
 
初の展示が終了した日、冬青の社長から
「これからは毎年やってください。いい時もあるでしょうし、悪い時もあるかもしれない」
「でもずっと続けていくことを覚悟してください」と言われたのを覚えている。
 
今まで、ここでいろいろなことをやってこられたも、この言葉があったから。
「よく分からないけどやってみよう」という年があり、それをまとめる年もあり。
モヤモヤ期とスッキリ期が交互にやってきた感じ。
結果的に15年間で12回の展示と4冊の写真集にまとまった。
我ながら恵まれているといつも思う。
 
今回は、最後にふさわしく「まったくまとまりのない」展示になっている(笑)。
でも、やりたいと思ったことをやっているので、会場にいてもすごくスッキリしている。
毎年、必ず在廊しているけど、落ち着かないことがほとんど。でも今回は本当に楽。
 
ちょっと心苦しいのだけど、自粛期間にもかかわらず、たくさんの方が来てくれている。
その中で「いつも2BChannelを見ています」という方が本当に多くて驚いている。
もうすぐ登録者数9000人で、ありがたくも1万人目前になってきた。
始めたときに目標にしていたのは登録者数15000人。
これは、カメラ雑誌の実売数がそのぐらいなので、そこをかなり意識してのこと。
15000人の登録者がいるということはメディアになれることだと思ったのだ。
 
昨年はYouTubeに注力したため、この「写真日記」はずいぶんおろそかになってしまった。
僕はあることをし始めると、そればかりに集中してしまうところがあって。
ブログのことはずっと気になってはいたんだけどね。
今年はちゃんと更新しようと思っている。
 
どうぞよろしくお願いします。

週一度の銭湯通はもう2年になる。それだけは変わらないな。

 銭湯帰りには、高円寺の「フジ」で定食を頼んでビールを飲む。

 

 

 たった半年で今まで普通だったことが普通でなくなり、生活も随分変わってしまったな。

いかに「人を集め、密にするか」ということを考えてきた20年なのに、突然「三密禁止 」とか言われてしまって、あらよることができなくなった。

ワークショップHは7期目が始まる直前で中止せざるを得なくなり、予定されていたイベントや地方ワークショップものみなみ中止。さすがに当初はうろたえたけど、もう半年たってなれっこになってしまった。

ワークショップに使っていた部屋は模様替えを重ね、YouTube配信を考えたレイアウトになってしまった。たまに相談に来る人がいるけど、基本ひとりだけだから、以前のように10人入ることを前提とした部屋作りをしなくていい。

 

昨年9月からYouTubeを始めたおかげでというか、ZOOMを使ったオンラインでの打ち合わせや講座に移行するのになんの抵抗もなかった。

今打ち合わせで外に出ることはない。全部ZOOM。そして企業イベントに呼ばれるときも、基本人を集めるのではなく収録後に配信、もしくはライブ配信になる。

 

となってくると、デスク周りは配信用の機材でえらいことになってきた。カメラを切り変えるスイッチャー、音声をミックスするオーディオインターフェース、そしてマイク、マイク、マイクの山。余裕で10本くらいある。

YouTubeを始める前に「動画は絵より音」とは聞いていたけれど、マイク問題は「沼」の様相を呈している。

 

コンデンサーマイク、ダイナミックマイク、ガンマイク、ピンマイク、ワイヤレスマイクと用途が違うから集めざるをえない。とくに『2B Channel』はインタビューが多いから撮影状態が常に変わる。もう試行錯誤の繰り返し。

 

パソコンは2015年モデルのMacbookPro15インチで、写真を扱うにはまったく問題ないスペックのものを買っていたのだが、動画編集となると厳しいことが増えてきた。

そして決定的な問題として外付けのカメラをZOOMやライブ配信に使おうと思ったときに音声と映像の遅延がひどくて使えないのだ。3秒くらい遅れることがある。

これは間PCの性能が原因なのか?グラフィックボードが遅いからか?いろいろ試してみたけど解決策はないようなので、2020年MacbookPro16インチモデルを注文してしまった。

あまりの高額商品に一晩寝付けなかったくらい。しかも昨日はヨドバシに行ってソニーのコンデジVZ-1も買ってしまった。他にも椅子を注文してしまった。で、あと今年中に必要(欲しい)のはインクジェットプリンターかな。

 

『キヤノンEOS R5』をあきらめたので、その代わりだと言い聞かせてるわけです。

 

 

 

 

朝はベーグルとサラダ。夜は冷やしおろしうどん

昨年の9月にYoutube配信を始めてから、すっかりこの日記はおろそかになってしまった。

皆様お元気でしょうか。

自粛自粛で、「密」になるなと言われ続け、これまで「いかに密にするか」で生きてきたというのに・・・3月以来ワークショップは中止のまま。7期が始まる直前で自粛騒ぎになってしまった。

 

撮影仕事もないから、どうしたもんかと考えて、思いつきでこれまで対面形式でやっていた「美術史講座」をZOOMを使ったオンライン講座にしてみた。これが評判がすごくよくて、この半年はそれにかかりきりになっていので、けっこう忙しかった。

 

毎日判で押したように、朝ご飯を食べると事務所部屋にこもってオンライン美術史講座の資料を作り続けていた。

今までも美術史講座は対面形式でやっていたけれど、オンラインとなるとまったく勝手が違う。それまで図録や画像を直接見せていたものも、資料に取り込まなくてはならない。1本資料を作るのにかなり時間がかかる。

(第2回目は9月13日(日曜)スタート。ただいま募集中)

http://satorw.hatenadiary.com/entry/2020/08/29/165608

 

それが終わると「2B Channel」の収録。これも1本作るのに最低2日はかかる。1年間で120本もアップしたけど、未だに下手くそでコメントでよく叱られる。

 

こんな経験、カメラマン時代にもなかったから新鮮と言えば新鮮。ちょっと哲学的な考察になると「そんなに単純なものではない」と怒られる。

でも反応がダイレクトで面白い。この日記は「日記だから」ということでコメントはつけられないようにしている。あくまで日記なので。でも「2B Channel」はもうちょっと外に接続している感じ。

 

1年前に写真系のYouTubeが少ないというか、なかったので始めたけれど、まだそんなに増えていない。カメラレビューや撮影ノウハウはあるんだけど、写真表現でいうと、トモ・コスガさんや鈴木心さん、若手では「ハマチャンネル」くらいかな。ベテランだと野村誠一さんもやっている。僕の同世代はいないかな。

 

1年経って登録者数は約6000人。これが多いのか少ないのかはわからないけど、1年間120本あげてどのくらいの収益があるかというと1本あたり、バイトで稼げる1時間の時給くらい。YouTubeで儲けるのは難しいね。

 

まあ「2B Channel」は収益化が目的ではなく、チャンネルを持つことで得られるメリット、例えば、いろいろな人に「こういうチャンネルを持っているので、ぜひインタビューさせてください」とか言えるのが大きい。意外と仕事にも結びついている。

 

もっと多くの写真系YouTubeができると活性化していいのに、といつも思っているんだけど、中々増えない。

 

直接は儲からないけど「風が吹けば桶屋が儲かる」感じでリターンはあるので、やってみようかなと思っている人は相談にのります。

 

今日はご近所の超有名造形作家のアトリエを覗かせてもらった。あれも、これも知っているものばかり。人のアトリエはその人の頭の中が現れているので面白い。

今は、近々大きなプロジェクトの納期が迫っていて多忙のようなので、時間ができたらインタビューさせてもらおうと密かに思っている。

 

そういえば「100回飲むより1回のインタビューのほうがその人を知ることができる」ってある有名雑誌の編集長が言っていた。

さてこれからご飯を食べて、それからオンライン「美術史講座 写真編」の最後の配信。

 

 

 

 

 

 

 

第2回 オンライン美術史講座 募集開始

渡部さとる主宰 第2回zoomオンライン「美術史講座」 ご案内

 

zoomオンライン有料講座

(全13回 2020年9月13日~12月19日/毎週 日曜、土曜2回配信)

「美術館に行くのが楽しくなる美術の歴史講座」

 

本講義は、「歴史は苦手です」という方や、「美術史は初めてです」という方にぜひ学んでいただきたい講座です。ひとつの作家や作品を詳しく解説するのではなく、その作家や作品が生まれた時代、社会的な背景をその時々の事件を交えてお話します。美術の歴史はそのまま世界史と繋がっています。

 

日本には各地に様々な美術館があり、世界中から毎年いろいろな作品がやってきています。美術史の流れを知っておくと、びっくりするくらい美術館に行くのが楽しくなります。人生をかなり“お得”にしてくれる講座です。

 

本講座の特徴は、見逃しが無いように、同じ内容を日曜日と土曜日にリアルタイムで2度配信し、その後、編集動画をアップします。資料は事前にダウンロードでき、予習をすることもできます。各回の講座では、最後30分ほどフリータイムを設けますので、zoomのチャット機能により質疑応答も可能です。

 本講座を修了後は、さらに詳しく解説する「写真史講座」へと繋げていく予定

 <受講料>

全13回 28000円

 

<申し込み方法>

 「第2回美術史講座受講」と明記の上、下記アドレスまで。

  workshop2b10th@yahoo.co.jp

氏名・電話(緊急時用)もお願いいたします。受講料の振り込み(下記参照)が確認した上で、視聴アドレス等をお送りします。

 

<支払い方法は以下の2通り>

@クレジットカード払い 「BASE」から

https://2bh.base.shop/items/27504169

(リンク先で価格表示がでない場合は、中央の画像をクリックしてください)

@銀行振り込み払い

三菱UFJ銀行 江古田支店 普通 4896183

口座名 ワタナベサトル

(振り込み手数料はこちらで負担します)

 

<全講座予定(毎週 日曜と土曜)> 

*時間 20時~22時 *<再>=見逃した方の再講座(土日ともリアル配信)

(講座は、こちらで録画したものを後日、受講者限定で配信)

 

 <日程と主な内容>

■1回目 9月13日(日)/<再>9月19日(土) 「ざっくり美術史」 

 一度おおまかに全体像を把握。今回の講義では、美術の歴史=西洋史

 

■2回目 9月20日(日)/<再>9月26日(土)「ルネサンスってなんだ?」

 商業の発展とキリスト教の世界観 

 #ダヴィンチ#ボッティチェッリ#メディチ家#ローマ教皇

 

■3回目 9月27日(日)/<再>10月3日(土) 「荒ぶるバロック」

 調和が優先されたルネサンス絵画から、動きのあるバロック絵画へ。突如花開き、あっという間に散ったオランダ絵画たち。#カラバッジョ#ルーベンス#レンブラント#フェルメール

 

■4回目 10月4日(日)/<再>10月10日(土)

「フランス革命が変えた世界観」産業革命とブルジョワの誕生が生んだ絵画の変革。写真の誕生。意識改革が興った時代。#印象派#ゴッホ#ゴーギャン#超重要画家セザンヌ

 

■5回目 10月11日(日)/<再>10月17日(土)

「二度の世界大戦がすべてを変えた」ダダイズムがもたらしたものとは。現代美術がここから生まれた。#デュシャン#ピカソ#ロシアンアバンギャルド#バウハウス

 

■6回目 10月18日(日)/<再>10月24日(土)

「アメリカファーストの時代へ」なぜアートはパリからニューヨークへ移ったのか。抽象表現主義の時代。#ポロック#ロスコー#CIA

 

■7回目 10月25日(日)/<再>10月31日(土)

「コンセプチュアルアートってなんだ?」概念こそがアートになる。ミニマリズムと禅。大量消費社会へ。#ジャスパー・ジョーンズ#ウォーホール#リキテンシュタイン

 

■8回目 11月1日(日)/11月14日(土)

「ついに何がなんだかわからなくなる現代のアートへ」多様性と社会との関係生。すべては今の時代を反映している。だからこそ経済界の人は現代アートを好む。

 

■9回目 11月15日(日)/11月21日(土)「ざっくり日本アートの歴史」

日本の美術の歴史をいっきに解説します。日本独自の美術から西欧化へ。#狩野派#浮世絵#明治の近代絵画#藤田嗣治#岡本太郎#オノヨーコ#草間弥生

 

■10回目 11月22日(日)/11月28日(土)「ざっくり写真史」

テクノロジーが変えた表現の革命。写真の誕生から現在まで。#ニエプス#アジェ#スティーグリッツ#キャパ#シャーマン#杉本博司

 

■11回目 11月29日(日)/12月5日(土)「思想と哲学」 

難しいと思っている人が多いけれど、かなり楽しい思想と哲学の世界

#プラトン#デカルト#ニーチェ#フロイト

 

■12回目 12月6日(日)/12月12日(土)「現代思想」

ここがとっても大事。近代の理解がないと、脱近代(ポストモダン)が分からない。これさえ知 っていれば、いま行われていることは大体理解できる。#サルトル#レヴィ=ストロース#バルト#ソシュール

 

■13回目 12月13日(日)/12月19日(土) 「宗教」

宗教とアートは密接に繋がっている。世界を動かす宗教の力。

#ユダヤ教#キリスト教#イスラム教#仏教#神道

 

なぜ熊谷直子の写真を          「うまい」と言ったのか

www.youtube.com

 

渡部が言う「うまい写真」って何? 

 

今朝、最初に奥さんと話したのはアインシュタインの「E=mc²」でした。

なぜ朝っぱらからアインシュタインかというと、僕がいまオンラインでやっている美術史講座に、思想や哲学編もあります。その資料をつくっていたときに、出てきたのが「E=mc²」です。

どうして美術史の講座に、この物理が必要かというと、科学や宗教、思想などが美術史に大きな影響を与えているからなんです。

 

それと僕自身、なぜ『E=mc²』が原子力と関わるのか、いまひとつわかってなかたんですが、資料をまとめるにあたって、調べてみたら、「あー、そうか!」と納得した次第です。それで嬉しくて朝からアインシュタインの話になりました。

 

さて、今回の本題は『E=mc²』の話ではないので安心してください。

渡部が考える「うまい写真とすごい写真」のお話しです。

 

先日「2B Channel」にこんなコメントをいただきました。

「渡部さんは、『写真集を読む003』の回で、熊谷直子さんの写真を“すごい”“上手い”とおっしゃっていましたが、渡部さんが言ううまい写真とは、どのようなものですか」。

 

とてもいい質問をありがとうございます。これについての話は、現在の僕の写真に対しての考え方、ひいては「2B Channel」の方針とも関わってくる大事なことがと思っています。

 

まず質問された方は、熊谷直子さんの写真を見ても“うまい”とは思えなかたんでしょうね。それなのに渡部は「うまい、すごい」と言っている。「これはどういうことになんだ?!」ということでしょうか。

 

たしかに熊谷さんの写真を見ると、いわゆる一般的に言われる「うまい写真」とは離れているように見えますよね。

 「なにも考えないで、ただシャッターを押しているだけじゃないか」、「全然いいとは思えない」という意見がたくさん聞こえてきそうです。

 

では、なぜ僕が熊谷さんの写真を“うまい”“すごい”いいと言ったのか。

 僕は高校生の頃から毎日写真に触れていて、職業カメラマンとして40年も携わっています。だから、どのように被写体に光を当てて、どのような構図で撮れば見ている人が共感するか、納得してもらえるかといったことは、だいたいわかっています。毎日毎日、仕事でやってきたわけですから、うまい写真は撮れるようになりますよね。

 

ここで言う「うまい」というのは、「エステティック」で考えてみたいと思います。「エステティック」とは、「美しい」という意味ですね。

 「美しさはどこからくるのか」ということは、ほぼ解明されていて、写真の場合は“どこをどうすれば人は感動するか”ということがわかっていると言われています。

それを言語化することもできるので、多くの写真撮影のためのノウハウ本には、そのことも書かれています。

 つまり、エステティックがある写真とはどういうものかということは、だいたわかってきてしまったわけです。

 

ところが、この「うまい」というのは、“味”というものによく似ているんですが、たとえば料理では、同じ味が続くと飽きてしまいますよね。たとえそれが美味しいごはんでも、“味”というのは、常に前に食べた何かとの比較なわけですよね。だから絶対的に美味しいというものは存在しません。

 

写真の「うまい」もそう。

誰かと比べて「うまい」ということなんです。

 さらに、この「うまい写真」というのは、やればやるほど、追求すればするほど、「手癖」がついてしまいます。自分の経験でしか撮らなくなってくるんです。自分の経験値を最大限に発揮して「うまい写真」を撮ろうとします。

 

これがやっかいなんです。

経験を積めばつむほど、自分の首を絞めてしまうところがある。これは長年写真やっている人は、必ず経験すると思います。

 

もちろん、写真がうまくなる途中過程というのは、とても楽しいですよね。モチベーションも意欲もどんどん湧いてきますからね。

でも、ある程度のところまで行くと、「うまいって何だ?」って思うようになってしまう。つまり、一旦うまくなってしまう、どうしても“他人との比較”になってしまうからです。

極端なことを言えば、経験を積んで積んで、一旦うまくなってしまうと、恐ろしいことにその先には何もないんですよ。

「いや、もっと先はあるだろう」と思われるかもしれませんが、なかなかそう感じることはできないんです。

 

経験と知識で作り上げたうまい写真には、限界値がある気がします。あるとき、これに気がついて呆然としてしまいました。

 2014年、僕は写真集『prana』(プラーナ)を作ったときに、本当にそれを強く感じてしまったんです。これ以上何をすればいいんだとね。

モノクロプリントをもうこれ以上積み重ねても、次に新しいことが生まれる気がまったくしなかった。これについて、1年以上悩んでしまったほどです。

 

そのあたりから、僕はうまい写真にはまったく興味がなくなってしまいました。うまい写真をみても、「すごい!」と思える気持がまったく起こらなくなってしまったんです。あれだけ好きだったグルスキーの写真させも面白く見られなくなりました。僕は2000年代の初頭、グルスキーの写真がものすごく好きだったんですけどね。

 

熊谷直子さんの写真集に対して「すごい!」「うまい!」と言ったのは、そこです。つまり彼女の写真には、積み重ねのうまさをまったく感じなかったからなんです。経験に依存していない。上手さを全部捨てている。

 

彼女はプロカメラマンとして大きな仕事もしているとお聞きしました。にもかかわらず、そのうまさや経験の反映がまったく出ていないんです。

 これは、できないんですよ。本当に難しいんです。

一旦うまくなってしまったものを手放すというのは、ほとんど不可能に近いんです。これは、川内倫子さんの回でもお話していますが、そこがとても大きい。僕は、このうまさを消した写真に、ものすごく可能性を感じました。

それは凄いことだし、僕はそれが究極の上手さかもしれないと思っています。

 

「写真は経験が邪魔をする唯一の表現である」と言われることがあります。

「経験をまったく使わない写真をつくれるか」と、僕自身もよく考えていますが、その殻をどうしてもやぶれない。

だから、それをやすやすと超えている写真が目の前に出てきたら、「わー、上手い!」「すごい!」という言葉が自然に飛び出してしまいます。

 

今の若い写真家たちも、それをやすやすとクリアしているように見えます。彼らは上手い写真に全然こだわっていないし、そういう写真を撮ろうとも思っていないのかと思うくらい、編集のときにそれをあっさり捨てている。

単なる時代性では括れないものが、そこにありそうです。だからいつも注目しているんです。

 

僕はモノクロをやっていたせいもあるんでしょうね。

実はモノクロの写真やプリントは、どうしても積み重ねがないと完成しないんです。

だから、モノクロをやっている限りは、そこから抜け出せないんじゃないかという気がしたので、いまの僕の最新作「IN and OUT」シリーズでは、モノクロをやめてカラーにしています。

でも、それでもまだフィルムに依存しています。そこからは抜けられないというのが、自分の中では忸怩たるところ。

 

さて、最後にもう一度言います。

熊谷さんの写真は、知識と経験に依存してない写真をつくることができているので、「うまい」「すごい」んです。

だから、常に新しいことができる、先が広がっている写真なんです。

 

 

「ノーモアノスタルジー」と酷評された写真集『da.gasita』

youtu.be

 

 今回は、僕が2012年に出した写真集『da.gasita』(ダ・ガシタ)を紹介します。これまで出した写真集の中で、いちばん重要な1冊です。

 

『da.gasita』といえば、僕の中では「ノーモアノスタルジー」ということになるんですが、何のことか分からない方が多いと思うので、まずはその経緯を説明していきます。

 

『da.gasita』は、ローライフレックスで撮られた正方形のモノクロ写真41枚で構成されています。舞台は生まれ育った山形県米沢市を中心に、東北各地の風景が収められています。『da.gasita』というタイトルは、米沢の方言「んだがした」という軽い相づち。地元では、日常の会話の中でよく使われる「そうですね」というような意味合いの言葉です。

そしてこの写真集は、僕の幼い頃の記憶を元にしていますので「ノスタルジー」がべースになっているというわけです。

 

出版は2012年ですが、僕は2010年頃から現代写真というものがさっぱりわからなくなっていて、アメリカ留学を本気で考えていました。というのも、当時の日本では、まったくといっていいほど現代写真の情報は入ってきませんでした。

雑誌『IMA』が創刊されたのが2012年ですから、それ以前に現代写真に触れようと思ったら、ヨーロッパかアメリカに行く必要がありました。

 

そのため、語学の勉強も本気で取り組んでいて、寝ても覚めても英語漬けの日々。家族があきれるほどにやっていました。

しかし、それもあの2011年の東日本大震災の影響や様々なことがあって、結局は断念せざるを得ませんでした。そこで考えたのが、「もしアメリカ留学をしていたらできなかったことはなんだろう」ということ。

そのとき唐突に「そうだ写真集を作ろう」と思い立ちました。

 写真は2004年から撮りためていたものが200枚から300枚程、プリントした状態でありました。それを冬青社に持っていき高橋社長にプレゼンを行い、なんとか本を作ってもらえることになりました。

 

それがこの『da.gasita』です。

出版直後から評判もよく、いろいろなメディアに取り上げてもらうことができ、大きな写真賞の最終ノミネートまで残ることもできました。

僕自身にとっても、とても満足のいく写真集となりました。発売2年ほどで、初版はすべて売り切ることができました(現在は新品での購入ができなくなっています)。

 

『da.gasita』発売の翌年2013年、僕はこの写真集を持って、アメリカの西海岸サンタフェで開かれる「レビュー・サンタフェ」に行くことにしました。

 

「レビュー・サンタフェ」とは、世界中から応募を募り、100人の写真家を選んでアメリカの主要な美術館やギャラリー、出版社などの写真関係者が、その作品をレビューするという大きなイベント。

アレック・ソスやロス在住の渡邊博司さんが「レビュー・サンタフェ」をきっかけに世界デビューを果たしたことでも有名です。

 留学できなかったリベンジというわけでもないんですが、僕はアメリカの写真関係者に『da.gasita』を見せたいと思ったわけです。

 

ネットで行われた審査を通過し、僕は100名の中に入ることができたのですが、実はのちにわかったのが、その100人中7人が日本人だったんです。通常、毎年審査に通る日本人は、一人か二人ぐらいなものなんですが、僕が参加した2013年は異例の年だったようです。そう考えると、この年がいかに日本の写真が注目されていたかがわかりました。

 

さてサンタフェで、僕は9人のレビュワーに写真を見てもらうことができました。内訳は、6人が美術館関係者、2人が出版社、1人がフリーのキュレーターでした。

レビューは概ね評価で、僕自身も満足できる状況だったのですが、実はある1人の女性キュレーターだけが、僕の写真を見ると怒ったように「なんで日本人っていうのはこうもノスタルジーが好きなの? ノスタルジーの写真に何の意味もない」と言うと、さらに語気を強めて「ノーモアノスタルジー」と叫んだんです。

 

これには正直驚いたし、腹ただしくも感じました。

そうですよね、自信作を一刀両断に切られたわけですから。しかも、作品の善し悪しではなく、ノスタルジーかノスタルジーじゃないかで判断された。

 

でも同時に、とても不思議に感じたことがあります。それは、レビュワーは参加者に対してネガティブな意見を言ってはいけないんです。「優しく対応しなさい。相手のやる気をそぐような発言は絶対にしないこと」という申し送りをされているのを僕は知っていたんです。

にもかかわらず、この女性キュレーターは僕の作品をバッサリ切ってきた。しかも彼女は怒りすら僕にぶつけてきた。

だから僕は「これは絶対ノスタルジーに隠された何かがあるはずだ」と確信しました。

一般的に、ポートフォリレビューでの褒め言葉は、直接のオファーに繋がらない限り、あまりあてにならなかったりします。

 

帰国後、僕は“ノスタルジーとは何か”ということを調べるようになりました。

そこで驚いたのが、ノスタルジーという概念を持たない、もしくはそれを疎む社会、民族があったことです。

ここでそのことについて詳しくはふれませんが、以前はノスタルジーを「悪魔の神経症」だと診断されていたこともあったそうで、常に前を向くフロンティア精神のアメリカでは、ノスタルジーというのは、あまり好まれるものではなかったようです。

ただし、最近の研究資料によると、アメリカ人にもノスタルジーという意識が芽生えてきたという記事もありました。

 

日本におけるノスタルジーはというと、昔々から文学に取り入れられてきたし、“大好物”と言ってもいいかもしれませんよね。それはほぼ同じ言葉、同じ生活習慣から生まれた共通の認識というものでしょう。「わかるわかる」の世界です。

 

でも多民族、多言語、多宗教の国では「わからない」ことが前提になるから、共通のノスタルジーなんてないわけです。

それなのに僕は、他の国ではわからないノスタルジーをベースにした写真を持っていてしまったんです。あのキュレーターが叫んだのは、「あんただけ分かるもの持ってきてどうする」ということだったんでしょう。

 

おおげさですが、僕はこの「ノ−モアノスタルジー事件」をきっかけに宗教、哲学、歴史をあらためて勉強し直すことになりました。

 

さて、ここからは『da.gasita』の話です。

 この写真集のカバーは真っ赤です。ちょっと珍しいかもしれませんが、表紙には写真も使っていません。タイトルが入っているだけです。

 

実は僕は当初、カバーは白のイメージで考えていました。デザイナーにもその旨を伝えて何種類か見本をつくってもらいました。そして出来上がってきた見本を前に、冬青社で編集会議をしたところ、「悪くはないけど、よくもない」という印象でした。「イメージは白」と言った手前、いまさら変更するのもどうかとためらっていたら、冬青社の高橋社長が、写真集のダミー本にクルリと赤い紙をまいて「これはどう?」と言ってきたんです。

 

これには驚きました。同時に「これはありだ!」と直感しました。僕は、自分では考えつかないものが提示されたら、それを受け入れたほうがいいと常に考えています。だから今回もそうしました。想像外の提案には、面白いことが多いんです。

『da.gasita』のカバーが赤になったのは、そんな経緯がありました。この表紙は本当に気に入っています。

 

『da.gasita』を作るときは、流れをかなり意識しています。映画のように、スタートがあってエンドがあるようなつくり方です。だから、バラバラと見るよりも、最初の1ページ目から見るように構成されています。

まずちょっとおどろおどろしい風景で始まります。

ここは青森県八甲田山の麓にある「地獄池」。

 その後は、黒っぽい写真と白っぽい写真が交互になるように並んでいます。でもあまり違和感はないはずです。なぜかというと、どちらの写真も、最大の白から最大の黒までの差、いわゆるコントラストの幅が同じにしてあるからです。連続して見ても違和感はないはずです。

 

この写真集は、コントラストの幅を使って構成しています。

頁のスタートは初冬です。コントラストは低く、黒もあまり黒くなくて白もあまり白くない。それが徐々に季節とともにコントラストが上がっていき、春の写真では白はまだあまり白くはないんですが、黒は段々深くなっていく。それが白はより白く黒はより黒くなっていき、最後の1枚、大きな吊り橋がかかっている写真は、同じ黒っぽい写真でも、最初の1枚目とはコントラストが大きく違います。

『da.gasita』は、コントラストが低い状態から始まって、コントラストが高い状態で終わりになっている写真集というわけです。

 

さらに、最後の大きな吊り橋の写真の後には、「雪の日」と題したテキストを入れ、そのあと唐突に、1枚だけ冬の電車の写真を入れています。

 

実は、このシリーズが始まったきっかけはこの1枚だったんです。なので、どうしても入れたかったのですが、コントラストが他と合わなかったので、入る場所がなかった。それで、最後の最後にもってきました。

 

そして、そこに誘導するように、「雪の日」には僕の幼い頃の冬の記憶を書いています。そうすることで、初夏の写真で終わっているイメージを、テキストでもう一度冬に戻し、電車の写真に繋げています。

これもひとつの流れをつくっているということになると思います。

 

頁のところどころに短いテキストも挿入しています。写真は見開きの右側だけなので、デザイン的にバランスをとる役目をこのテキストに与えました。さらに言うと、テキストを読んでもらうことで、その頁で目をとめて時間を費やしてもらいたいとの狙いもあります。

つまり、僕が「見る人の頁をめくる速度をコントロールしている」ということにもなります。つい、読んでしまいたくなるように、テキストは一瞬で読めるような短さにしています。すると自然と時間の流れを誘導することができるわけです。

 

その頃僕は、写真集というのは作者が読者を誘導する、リードするのがいいことだと思っていたんです。作者には伝えたいことがあって、それをどのように伝えるかが構成だということです。

 でも、どうもそれだけではないことに、徐々に気がつき始めました。

そのきっかけになったのは、先に話した「レビュー・サンタフェ」での経験でした。

 

あのときサンタフェで、僕は直接的な結果を残せなかったので、数十万円をかけてアメリカに行ったレビューとしては失敗だったかもしれません。

でも「ノーモアノスタルジー」のおかげで、それ以上のものを手に入れることができたといまは感じています。

 なぜなら、あのときの「ノーモアノスタルジー」をひっぱり続けて、現代写真を考えるまでになり、結果的に『じゃない写真』が生まれたわけですから。

 

その後の僕は「ノスタルジーに依存しないで写真集を作るには」ということも考えるようになりました。

 

それで生まれたのが、5冊目の写真集『demain』(デュマン)ということになります。その話も次回してみたいと思います。

川内倫子写真集を読む『AILA 』(アイーラ)編

 

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今回は写真家の川内倫子さんです。

彼女の写真は短い言葉では語れないところがありますが、写真集『AILA』から川内倫子さんの写真を見ていきたいと思います。

 

この写真集は、2004年にリトル・モアから出版されていて、その後、同じものがFOIL(フォイル)から出ていますが、どちらも現在は絶版のようです。そして『AILA』は、両社を立ち上げた竹井正和さんのプロデュースになっています。

 

彼女の写真の特徴として、まずひとつは、ローライフレックスを使った真四角の写真であり、ネガカラーを使ったプリントだということが上げられます。

 

川内さんは、間違いなくいまもっとも注目されている写真家ですが、日本だけではなく、世界が注目しています。むしろ、海外での評価が高いと感じています。

 

僕は、海外の作家やキュレーターに会う機会があると、必ず「日本の写真家だと誰が好き?」と質問をします。

すると、10年前までは荒木経惟さんや森山大道さんの名が挙がることが多かったのですが、最近では深瀬昌久さんの話をする人が増えてきました。

 

そこで「若手では?」と重ねて尋ねると、「ナオヤがいい」と返ってきます。そう、畠山直哉さんですね。その他にもいろいろな写真家の名前が出てきますが、唯一、誰の話からも必ず出てくるのが、川内倫子さんです。

 

僕自身、ヨーロッパ系、特にフランスの写真家に知人が多いのですが、彼らはうっとりしたような口ぶりで「リンコはいい、リンコはいい」と言ってきます。

フランスのアルルに国立の写真学校(国立ですよ!)があるのですが、一時期そこの卒業制作が皆、「川内倫子のようになった」と言っていました。

 

写真家はもちろん、キュレーターも大絶賛で、中には「私は彼女のプリントを購入した」という人までいました。

古本屋のオヤジまでもが、僕が日本人だと分かると、「リンコの写真集はよく売れるんだ」と彼女の話を始めます。

僕は当初、あまりの“リンコ、リンコ”の大合唱に少々面食らっていました。

 

川内さんは、2002年に木村伊兵衛賞を受賞しますが、そのときの国内の印象はというと、さほど大きな衝撃ではありませんでした。「ネガカラーを使って、何か雰囲気のある写真を撮っている人」と捉えていたように思います。

 

しかし、川内さんの写真は早い時期からヨーロッパでの評価が高くて、僕は「リンコ、リンコ」と語る彼らに、「いったいどこがそんなに好きなの?」と聞いてみたくなったのです。

 

「ポエティック」「ミステリアス」という意見もあるのですが、それより多くの人が「言葉では語れない」とか「短い言葉では彼女の魅了を表せない」と言っていました。

そして頻繁に耳にしたのが、「彼女の写真はすばらしいコンポジションだ」というものでした。

 

「それは1枚の写真に対して言っているの?」と聞き返すと「もちろんそれもあるけど、写真集のコンポジション、構成がすごくいい」と言うんです。

どうやら彼らは、川内さんの写真を1枚で見るのではなくて、写真集として見ていて、こちらの方に強く惹かれる何かがあるようでした。

 

2020年現在、世界中で写真集の価値がとても高くなってきましたが、2000年ぐらいまでは、欧米の写真集は、どちらかというと、ギャラリーや美術館が出している「レゾネ」と呼ばれるカタログなようなものが多く、写真集はそんなに大きなウエイトを占めていませんでした。

作家の評価はギャラリーや写真館での展示でした。

 

意外かもしれませんが、日本はその逆で、写真集の評価が非常に高い。だから写真家は、展示よりも写真集を大事に考えています。日本は、多くの写真集が出版されている珍しい国です。これは、1960年代から続いている、ある意味、日本独自の写真における文化・歴史でもあります。

 

こうしたいわゆる、世界からは「ガラパゴス的」と言われる日本独自の写真集文化を欧米に紹介したのは、イギリスの写真家であり評論家のマーティン・パー。そして川内倫子の写真集を見いだして欧米に紹介したのもマーティン・パーです。

 

ここで少しだけ川内倫子さんのキャリアをご紹介します。

川内さんは1972年滋賀県生まれ。短期大学で写真ではなく、商業デザインの勉強をしています。

卒業後、関西の広告制作会社にカメラマンとして入社し、その後上京するとコマーシャルスタジオのアシスタントを3年経験しています。

 

1997年に「ひとつぼ展」(現在は「ワンウォール」)のグランプリをとります。そのときのタイトルが「うたたね」。

それは、そのまま最初の写真集のタイトルにもなっています。作品もやはりローライフレックスを使って撮られたネガカラーの写真でした。

 

2002年には木村伊兵衛賞を受賞し、パリ・カルチェ財団美術館での個展やアメリカの「アパチャー」から写真集が出るなど国際的な活躍が続いています。

 

そして2009年にはニューヨーク写真センター“ICP”のインフィニティアワードで新人賞を受賞しています。

 

2012年には、東京都写真美術館で大規模な個展「照度 あめつち 影を見る」を開催しました。これは見に行った方もいると思いますが、開館以来もっとも入場者数が多い展示となりました。最終日には人が入りすぎて、たいへんなことになったそうです。

 

川内さんは、ネガカラーで撮影して、自分でカラープリントをつくっていますが、このカラープリントが個人で手軽にできるようになったのは、1990年くらいからです。これは、自動現像機、ラッキーのCPという機種なんですが、それが普及したことによります。

1995年ぐらいから、ネガカラーの性能が一気にあがって、色の再現性がとてもよくなったというのも一因だと思います。2000年近くになると、ファッション写真を中心に多くのカメラマンが使うようになります。

 

それ以前のネガカラーのプリントというのは、ちょっと濁った感じがありました。前述した川内さんの「ひとつぼ展」のときの写真をみると、ちょっと黄色味が強く、濁った感じを受けます。これはフィルムのせいもあるんですが、彼女はその当時、自動現像機を使っていないので、暗室にバットを並べて手現像していたせいだと思われます。バット現像は、温度管理が難しいんです。

 

川内さんの「ひとつぼ展」での受賞作を見たときの僕の最初の印象は、「うまい人だなあ」という感じでした。

その後、彼女の名前はコマーシャルの世界でよく耳にするようになります。

「ひとつぼ展」の審査員だったアートディレクターの浅葉克己さんと多くの仕事をしていたのを覚えています。超売れっ子カメラマンでした。

 

これは浅葉さんとではなかったかもしれませんが、たしか「ポカリスエット」のCMも撮っていたような覚えがあります。

 

ところが、彼女が木村伊兵衛賞を受賞した写真集「うたたね」と「花火」を見ると、僕が最初に感じた“うまさ”が消えていました。

 

これはとても重要なポイントだと思うんですが、彼女は一度キャリアをリセットしています。大学で商業デザインを勉強して、カメラマンのアシスタントを経験し、広告制作会社でカメラマンとして仕事を始め、その分野で活躍していたにも関わらず、それまで得てきたテクニックやキャリアといったものをあっさり捨てているんです。

 

これは簡単にできることじゃないはずです。なぜなら、川内さんは仕事としてカメラマンという職業を選んで、決して短くない下積みを経験して成功したわけですから。それを手放してしまう理由は見当たらない。それでも彼女は写真を使った表現者になろうとしたということです。

 

これはなかなは捨てられるものではないんです。カメラマンとして、手に入れた上手さやテクニックを捨てるのは非常に難しい。

 

実は、これは森山大道や荒木経惟にも同じことが言えます。

森山さんは細江英公のアシストとして当時最高のテクニックを習得していたはずです。特に暗室でもプリントは相当上手かったと聞いています。

細江英公の初期の傑作である三島由紀夫をモデルにした「薔薇刑」のプリントを最初にしていたのは森山さんだったそうです。

 

荒木さんも電通の写真部に7年も在籍し、毎日毎日広告写真と関わっていたわけです。間違いなく上手くなります。でも、ふたりとも写真を使った表現者になろうとしたときにその“上手さ”を捨てています。

 

写真とは不思議なもので、表現として考える場合は“上手さ”は足かせになることが多いと僕は考えています。残酷ですが、単純に上手さを積み重ねても写真の表現の中で評価されることはないんです。写真は「経験が邪魔をする唯一の表現」だとも言われています。

 

そして矛盾した言い方になりますが、この“上手さ”がなければ、それを捨てることもできない。

川内倫子さんは、表現者になろうとしたときに、その“上手さ”を捨てた。

 

彼女が木村伊兵衛賞を受賞したときには、先ほど言ったように、「流行りのネガカラーを使って、雰囲気のある写真を撮っている人」といった認識だったわけですが、でもそうじゃなかったわけです。

 

 ここで写真集『AILA』を見ていきます。この写真集は日常的な風景の他に、誕生のシーンがたくさん納められています。

リトル・モア版ではなくて、フォイル版の表紙では、いま正に卵が孵ろうとしている瞬間の写真が使われています。

 

その他にも、生まれたての雛や子牛、人間の出産シーンも入っています。そしてそれと呼応するように、死を感じさせるようなイメージも散りばめられています。それは単純に死を扱ったものではないけれど、あきらかにそれを意識させるものがたくさんある。

 

初期作『うたたね』にもそうした要素が入っているんですが、『AILA 』はそれがより色濃くなっています。

「アパチャー」から出版された写真集『ILMINANS』 になると、非常に洗練されていて、川内さんの代表作ともいえるものですが、僕は『AILA』のほうが生と死ということを強く感じさせてくれるので、見ていて面白いと感じます。

 

そして、この写真集の構成には大きな特徴があります。それは写真1枚1枚ではなく、見開きをひとつの単位にして考えていることです。

写真集だから当たり前だと思うかもしれませんが、よく見てください。見開きで使われている2枚の写真には、あきらかな共通点が見つかるはずです。

 

それは形であったり、質感であったり、とても単純なものです。見開きに使われている2枚の写真には、言葉を利用した概念としての結びつきではなくて、単純な触感的なものとして並べられています。2枚の写真の中には、何か言語的なストーリーがあるわけではないんです。

 

よく、「写真集にはストーリーがあって、作者はそのストーリーに沿って物事を伝えようとしているから、そのストーリーをくみ取る」ということが言われますが、この写真集はそうではないようです。

 

単純に形と質感。

でもそれが実にたくみに組み合わされているのが分かります。

 

たとえば、「生まれたてのヒヨコと子牛」とか、「女性の太ももと蛇」とか、この写真の組み合わせは本当にすごい。ちょっと考えつかないことをやっています。

 

川内さんは、撮影を「狩猟」、編集作業を「料理」に例えています。もともと写真を撮る行為を、英語では“SHOOT”というくらいですから、身体性が必要なわけです。

 

そして編集作業では、「なぜこの写真を撮ったのか」ということを考え続ける。これは哲学的要素が含まれてきます。

 

川内さんは、日常的な具象を撮っているんですが、それにも関わらず、編集作業では、それが抽象化してくるのがわかります。

 

彼女の作品でずっと一貫しているのは、意識と無意識の狭間。

まさに“うたた寝”の状態ですよね。うたた寝というのは、熟睡しているときと覚醒しているときの間の状態ですよね。これを表現しようとしているんだと思います。そこに欧米においての反近代、反文明の要素が見えてきます。

そしてそこが、欧米の写真関係者方たちが好きな理由なのかもしれません。川内倫子さんの写真の面白さもここにあると感じます。

 

僕は、前述した東京都写真美術館で行われた彼女の個展を見に行って、衝撃的を受けたことをいまでも覚えています。それは写真ではなく、同時に流されていた動画を見てのことです。

並べられた2面のスクリーン上に、ワンシーン数秒の動画が、なんのナレーションも、テロップもないまま流れていました。

 

20分くらい経ったとき、僕はあることに気がつきました。

 最初は、2面で別々の動画が流されていると思ったのですが、実は時間差をおいて同じものが上映されていたんです。そのため不思議な既視感を覚えてくるんです。当然ですよね。同じものをもう一度、数分後にみていたわけですから。僕は40分程のその動画をずっとみていました。

 

そして衝撃的と言ったのは、展示されている写真とまったく同じシーンが動画でも撮られていたことです。

 

つまり彼女は、目の前のものが面白そうだからローライでちょっと撮ってみたというわけではないんです。撮影の順番としては、気になるシーンに遭遇したので、まずはビデオカメラを取り出し、三脚に据え、構図を決め、録画ボタンを押す。そしてようやくローライフレックスを構え、被写体を撮るということになるわけです。

 

つまり、写真とまったく同じシーンを動画で流すということは、写真を撮ることよりも動画を優先しないとできないことです。

川内さんはこれを初めからずっとやっていたんだと思います。なぜなら、初期の写真集で見た、様々なカットが、その動画に出てきていたからです。これに気がついたとき、僕は軽いめまいを覚えました。

 

動画を見るとよくわかりますが、彼女はキラキラしたものを追っています。フレアーやゴーストが出ようが、お構いなしで逆光でもキラキラしたものを追い求めています。

 

これは、静止画の写真より動画のほうがキラキラ感ははっきり出てきます。もしかして川内さんは、写真よりも動画の人なのかもしれません。

 

そのときの展示の最終ブースでは、正方形のフォーマットではなく、大型カメラのシノゴを使った作品が展示されていました。これは、「あめつち」と名付けられたもので、熊本の野焼きを撮ったものです。

 

『AILA』を見るとわかりますが、この写真集では、被写体までの距離はだいたい1メートル前後のものが圧倒的に多い。ピントがいちばん奥、無限遠で撮られているものは、極端に少ないです。

 

しかし『あめつち』のシリーズでは、ほとんどが無限遠でピントが合っています。この話は、またどこかでやりたいと思いますが、フォーマットと撮影距離には、密接な関係性が隠されています。

 

写真家がフォーマットを変えるということは、「世界をみるスタンスを変える」ということに等しいんです。「私は世界をこの距離で見る」ということを、フォーマットで変えているといってもいいぐらいです。

だから撮影後にトリミングして整えるということではないんです。

 

いまでも写真家がフィルムカメラを大きな理由のひとつとして、この“フォーマットを選べる”ということがあると思います。

 

僕は、川内倫子さんの作品を初期から見ているのですが、重要なキーワードとして、やっぱり、初期写真集のタイトルに使われた“うたた寝”にあると思っています。

“うたた寝”という意識と無意識の間、現実と夢の狭間のようなものを川内さんは撮ろうとしているんではないかと。

 

彼女がインタビューのなかで、「夢をみた。その夢の中で見たシーンがテレビに出てきた。それはどこだろうと思って調べたら、熊本の野焼きだった。だから撮りに行く」ということを語っていました。

 

“うたた寝”は、川内さんの写真を見るときの重要なキーワードになるのではないかと思っています。

 

 

 

 

 

 

『PROVOKE』(プロヴォーク)

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『PROVOKE』(プロヴォーク) 

 

 今日は、『PROVOKE』を取り上げます。この3冊は、日本の写真界の分節点。非常に大きな切れ目になったものです。

 

『PROVOKE』は1968年、美術評論家の多木浩二、写真家の中平卓馬と高梨豊、詩人の岡田隆彦の4人が集まって創刊された同人誌です。

第2号目からは、森山大道もメンバーとして参加し、第3号まで続きますが、それで一旦は終了。その後、1970年に総括集『まずたしからしさの世界をすてろ』の刊行を最後に、グループは解散しています。

 

僕自身、以前から『PROVOKE』の存在は知っていました。しかし、すでに稀覯本となっていて古書店のガラスケースの中でしか見かけることがなく、持っている友人もおらず、「日本の写真を変えたムーブメントだった」と写真史の中で語られていても、中身を知ることは叶いませんでした。

 

2001年にドイツの出版社シュタイデルから出た『JAPANESE BOX』の一部に、この『PROVOKE』の復刻版も入っていたのですが、これも手に入れることができず、ずっと幻の本でした。

 

それが2018年、創刊50年を記念して二手舎から完全復刻版が出版されて、僕は始めて3冊の『PROVOKE』を手に取り、その内容をじっくり見ることができました。

ちなみに、2020年4月現在、二手舎のサイトを見たところ、残念ながらすでに販売は終わってしまっているようです。

 

 僕が写真に興味を持ったのは、中学3年生でした。

1875年に初めて『アサヒカメラ』を買いました。きっかけはカメラが欲しくて、その広告を見たかったからです。その雑誌の中で、一番かっこよく見えたのが、オリンパス「OM-1」。それが決め手になって僕にとっての最初のカメラとなりました。雑誌広告の力は絶大だったわけです。

 

さて、当時の『アサヒカメラ』の記事はというと、いまのように、手取り足取り撮影のノウハウを教えてくれるような感じではなく、いわゆる写真の啓蒙が中心でした。“写真とはどういうものか”“写真が果たす役割は”というようなことが盛んに論じられていましたから、中学生の僕には、その書かれていることの半分も理解できないほどでした。

 

そんな中でも印象に残っているのが、中平卓馬と篠山紀信の「決闘写真論」。これは毎号巻頭に掲載されていたのですが、文章をいくら読んでも何一つ理解できず。その頃は高校生になっていましたが、何の知識も経験もなかったので当たり前ですよね。それでも「これは読まなくてはならないもの」だという、強いエネルギーのようなものを感じていました。

 

僕はそれから写真に興味が湧き、毎月『アサヒカメラ』を買うことになります。

その時代に誌面を飾っていたのは、やはり篠山紀信、中平卓馬、高梨豊、そして森山大道でした。ほぼ固定と言っていいくらいです。当時の若手は第一回木村伊兵衛賞を受賞したばかりの北井一夫です。

 

そして僕がいちばんに影響を受けたのは森山大道。何も知らずとも単純に“カッコイイ”と思えたからです。

僕も森山さんの真似をして、荒れた粒子を出したくて、自分でフィルム現像するようになり、それでますます写真にのめり込み、それが高じて日芸の写真学科に入学したというわけです。とにかく刷り込みみたいなものですから、そこに出ている写真が僕のベースになったわけです。

 

大学で写真の勉強を始めると、この『PROVOKE』という同人誌がとても重要だと言われていました。しかし残念なことに、その当時で発刊から10年以上経っていたので、実際に見る機会はありませんでした。

 

それに、僕が大学に入った1980年は、すでにそんな時代ではなかったんです。森山大道も中平卓馬も、友人の間で話題に上がることはありませんでした。それよりも、当時は華やかだった広告カメラマンの話をしていた気がします。

 

でも僕は、ずっと『PROVOKE』のことは気になる存在で、いつか見たいと思っていました。これが写真史に重要なものだと知っていましたから。

 

先ほどもお話しましたが、たった3号で終了したこの『PROVOKE』。これがいまでも語られるのはなぜか。今日はこれをお話していきたいと思います。

 

その前にまず、戦前から前後にかけての日本の写真について触れておきます。

戦前から戦中にかけて、名取洋之助が設立した「日本工房」というのが、非常に大きな存在でした。これは日本のプロパガンダのための雑誌をつくっていて、後にそのなかで土門拳も働いていました。

その他にも、グラフィックデザイナーの河野鷹思や亀倉雄策といった、戦後の写真やデザインの中心的存在になる人たちがいました。

 

戦後になると、写真雑誌が次々と創刊され、そのなかで、木村伊兵衛と土門拳が「リアリズム写真宣言」をします。

情報のない時代に、雑誌は絶大な影響力を持っていました。だから戦争中はプロパガンダ雑誌を使って、写真で嘘をついていたわけです。

この「リアリズム写真宣言」は、「写真の真実性を取り戻さなくてはいけない」という運動のひとつだったんだと思います。

 

そして、“写真を撮る場合には、何か手を加えてはいけない、演出してはいけない”という考え方が、「絶対非演出の絶対スナップ」という言葉になって、広まっていきます。この時期の日本の写真はあきらかに多様性を失い、戦前に関西を中心に盛んだった芸術写真は姿を消してしまいました。

 

その次に現れるのが『VIVO(ヴィーボ)』です。

これが新しい写真の時代をつくっていきます。

『VIVO』は、川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明、奈良原一高、細江英公が集まって、セルフエージェントグループをつくりました。これは写真家の権利を守るために集まった『マグナム』と同じ発想です。

 

いまでもそうですが、個人で企業と渡り合うにはいろいろな問題が出てきます。そこで、エージェントシステムを組むことで、個人の権利、写真家の権利を守ろうとしたわけです。

 

このメンバーの中で、当時もっとも人気があったのは、東松照明。バリバリの若手で、雑誌で非常に人気がありました。彼は、戦前から戦後にかけて写真界のボスキャラ的な存在だった名取洋之助に対して、『アサヒカメラ』誌上で喧嘩をふっかけたことがあります。

 

その時の論点を要約すると、名取洋之助が「東松の写真はいま人気だけど、主観が入りすぎていて、ジャーリズム写真とは言えない」というものでした。

それに対して東松照明は次号の誌上で「そんなもの、やっているつもりはない」と反論します。

つまり、「写真は雑誌に載せてたくさんの人に情報を与えるものだから、カメラマンの主観は排除すべきだ」という名取の意見に対して、「主観で写真を撮って何が悪い」と反論した東松照明。これが「名取・東松論争」として、けっこう話題になりました。

 

ここで「主観」という言葉が出てきます。

まず、東松照明が当時活躍していた場所は雑誌です。雑誌における写真の役目というのは、情報を伝えることなので、それをたくさんの人に見てもらうのが使命。だから、その情報を伝えるときに、カメラマンの主観が入ってはいけないというのが、当時の考え方でした。客観的に物事を捉えようということです。

 

それに対して、『VIVO』の世代というのは、「主観を出していこう」という考え方。わかりやすく言うと、『VIVO』は主観写真の時代と考えていいと思います。

 

これは世界的な流れとも連動していて、その当時、作品に自分の感情や意識を入れていこうという動きが出てきています。戦前のドイツでは、すでに「主観写真」という言葉が生まれていて、それが日本にもやってきていたわけです。

 

いまとなっては、当たり前にように思えるかもしれませんが、戦争直後は「主観」は「じゃまもの」と言われていました。なぜなら、日本全体が一斉に復興に向かわなくてはいけない時に、「我が我が」という考え方は歓迎されないですよね。

 

それが1950年になってくると、一旦落ち着き、そのあとに「主観」という話が出てきたわけです。それが『VIVO』の時代。

 

 さてその『VIVO』と、今回紹介する『PROVOKE』は、完全に連動しています。

というのも、メンバーのひとりである森山大道は、東松照明に憧れて関西から上京し、同じ『VIVO』メンバーの細江英公のアシスタントをすることになります。

 

そして、中平卓馬は、左翼系思想雑誌『現代の眼』の編集者で、東松照明に原稿を依頼したことがきっかけで写真家になります。どちらも東松照明に大きな影響を受けていることがわかります。

 

1960年代、中平卓馬と森山大道は常に行動を共にしていたくらい身近な存在で、お互いに影響を与え合っていたそうです。

 

先ほど、中平卓馬は思想雑誌の編集者だったと言いましたが、1960年代は日本でも思想と哲学の時代だと言えます。

 

フランスの哲学者サルトルが、来日して講演を行ったことがありますが、まだインターネットのない時代なのに、3回の講演はすべて超満員だったそうです。サルトルの話を皆が熱く聞いていたそうです。1960年代というのは、思想や哲学が非常に有効なものだったんですね。

 

そしてその時代に新たなる思想として、「構造主義」が生まれます。この構造主義は物事の見方、考え方をひっくり返してしまうんです。

 

サルトルが「主観」だとすると、「構造主義」は「客観」。

これは非常にざっくりした言い方ですが、そこで物事の捉え方が変わるという時代が1960年代に起こります。

 

この時代、ニューヨークではポップアートが盛んになり、アンディー・ウォーホルが一躍時代の寵児になります。このポップアートは、それまでの美術の考え方をガラリと変えてしまいました。

 

そして、同時期につくられたのが『PROVOKE』です。

そう、彼らも間違いなくそれまでの考えをひっくり返そうと考えて出したはずです。そうでなければ、『PROVOKE』を発行する意味がないんです。商業的に儲けようという考えでつくったのではないでしょう。“いちばん新しいことを写真でやってみたい”ということだったのではないかと思います。

 

ただ、『PROVOKE』の発行当時、多くの人に受け入れたれたかと言えば、おそらくそうではなかったでしょう。

世の中というのは、どの時代においても、新しいことをすぐには受け入れないし、馴染みのないものに、人は拒否反応を起こしますからね。

それでも、“いちばん新しいことをやらなければならないない”という時代の中にあって、動かざるを得なかったのではないでしょうか。

 

さらに日本の1960年代というのは、10年に渡る学生運動がおこった時代でもあります。政治も思想もそして写真も変わろうとしている時代だったわけです。

 

以上のことを踏まえたうえで、ここからようやく本題です。

 

まずは『PROVOKE』の判型からご紹介します。A4よりひと周りくらい小さい簡易製本の小冊子です。1号目は正方形のサイズですが、2号目と3号目は縦長サイズになっています。

 

本の副題には「思想のための挑発的資料」とあります。

序文には、なぜそのような副題がつけられているのかを、参加者連名の形で書かれています。

 

冒頭の数行を紹介しましょう。

 

「映像はそれ自体としては思想ではない。 観念のような全体性をもちえず 言葉のように 可換的な記号でもない。しかしその非可逆的な物質性 ————

カメラによって切りとられた現場————は言葉にとっては裏側の世界にあり それ故に時に言葉や観念の世界を触発する。」

 

「可換的な記号」というのは、たとえば、「カメラ」と言った場合、聞いた人は、カメラの形と機能を思い浮かべますよね。つまり発語することで、何かと結びつくということです。これを「記号」だとすると、“そういうものは写真にはない”と『PROVOKE』の冒頭で述べているんです。

これが『PROVOKE』を見るときに、重要なキーワードになっているようです。

 

創刊号に森山大道は参加していません。初期メンバーは高梨豊、中平卓馬、多木浩二、岡田隆彦の4人で、首謀者はどうやら中平卓馬だったようです。

高梨豊、中平卓馬、森山大道は写真家ですが多木浩二は批評家で、岡田隆彦は詩人です。しかし多木浩二は3号とも写真で参加しています。

 

1号目は、岡田隆彦の文章から始まっています。何度も読みましたが、非常に難解で未だにその意味を把握することはできていません。

 

続いて多木浩二の写真で、タイトルは『1968・夏・1』。同じタイトルで『1968・夏・2』で高梨豊、『1968・夏・3』で中平卓馬と続きます。タイトルに意味がないということですね。ただの年代と数字が書かれています。

多木浩二の写真は、キャプションを読むと、どうやら東京のドヤ街、山谷を撮ったもののようです。

 

冒頭の文章で、「可換的な記号ではない」と述べているにもかかわらず、1号目では、何が写っているかは、まだはっきりわかるような写真です。

写真のトーンはコントラストが高くて、黒っぽいものが多いです。これは、当時の印刷のクオリティの問題もあるのでしょうが、中間調があまりなくて、ハイライトとシャドーがはっきりわかれたような写真です。

 

続いて2号目。表紙は白からグレー、判型は縦長に変わります。そして、この2号目だけ、黄色い帯がついています。そこには「大股びらきで堪えてさまよえ! 特集エロス」とあります。

 

紙質については、1号目はマット系に対し、2号目は光沢のあるコート紙になっていて、そのせいで前号より印刷は良くなっています。

この号から、森山大道が参加しています。ページの順番は中平卓馬、森山大道、高梨豊、多木浩二、そして岡田隆彦のエッセイと続いています。

 

中平卓馬と森山大道の写真は黒が基調で、高梨豊、多木浩二はハイライトが目立つような印刷になっています。

 

2号目は、1号目の延長のような感じがします。2冊を比べてみても、特別変わったようなイメージはありません。ただ、1号目よりも2号目のほうが「何を撮っているのか」「どこで撮っているのか」「何の意味があるのか」というものが徐々に消えています。そして、いかにきれいに現像するかを考えていた時代に、ザラザラとした粒子のノイズ感が、確かに1号目より目立つようになってきます。とはいえ、当時から見ても“挑発”とまではいかない気がします。

 

ところが3号目になると様相は一変します。

表紙は赤となり、まさに「PROVOKE」の意味するところの、“挑発感”が増してきます。紙質も2号の光沢紙から、完全なマット紙になり、中間調をまったくなくしたといってもいいぐらい、手にインクがつきそうな真っ黒な印刷になっています。

写真が写真としての機能をほとんど果たしていない感じで、白と黒のふたつのトーンしかない。

 

これは、おそらくですが、プリントしたものを当時のゼロックス(コピー機)に何度もかけることで中間調を削って、黒と白だけの荒れた画像を作り出しているのではないでしょうか。

 

これはなんでもそうですが、コピーを何度も繰り返すと情報量は減っていきますよね。それを利用して写真の情報量を減らしているということです。

そのため、写真のグラデーションは消えていきます。情報量を失うごとに「何かを伝える」といった写真の役割もどんどん失われていきます。

 

当時、写真は「何かを伝えるもの」と考えられていたときに、そうした写真の機能・役割を、どんどん削っている。それが失われるギリギリの部分はどこかということを模索しているように見えます。

 

多木浩二は執拗に顔のアップの写真を並べます。わざわざ「観音開き」という、印刷上コストのかかることまでして、連続性を重視しているように思われます。

 

「顔」というのは、顔認証というくらい、その人を特定するもの。本人を特定するものとして使われますよね。つまり顔写真は、特定の人と結び付けるというのが写真の役割なわけですが、それを壊しているのが、多木浩二の写真です。

情報量を消して、白と黒だけにすることで、顔として認識できなくなっている。ある写真では、風景にすら見えてきます。

 

森山大道はスーパーの棚に整然と並んでいる缶詰を撮っています。缶詰に貼ってあるラベルが、わかるかわからないかギリギリのところまで情報量が落とされています。商品のラベルというのは、中身がどんなものであるかを現す、いわば「記号」なわけですが、ここでもその役目を消そうとしています。

 

これを見ると、アンディー・ウォーホルの「キャンベルのスープ缶」を思い出さざるを得ません。彼は1960年代、当時のアメリカで大量に消費されるものを、多くの作品に残していて、キャンベルのスープ缶の絵もそのひとつです。

 これを森山大道が知らないわけがないし、その後、森山大道はシルクスクリーンでも作品をつくっています。このシルクスクリーンも、アンディー・ウォーホルがアートの中に持ち込んだもののひとつです。

 

こうして見ていくと、『PROVOKE』が3号通してやろとしていたのは、「写真が何かと結びつくことを拒否する」「何者にも依存しない写真をつくりだす」ということだったのではないかと思います。

 

写真が写真として自立するにはどうしたらいいかと考えたときに、彼らは情報量をどんどん削っていって、写真的な役割から離れようとしていたように思えます。実はこれは、現在においても常に考えられていることです。

 

繰り返しますが、『PROVOKE』は3号目で終わり、1970年に総括集『まずたしからしさの世界をすてろ』の刊行を最後に、グループは解散しています。

 

確かに、もうこれ以上やっても、次に繋がるものは見いだせないようなものになっています。これ以上情報を削ってもしょうがないところまで3号目は来ています。これで終わりにするしかないという感じがします。1号、2号の延長ならいくらでもできたでしょうが、3号目をつくったことによって、『PROVOKE』は終わってしまったのでしょう。

 

ところが、皮肉なことに、次世代にとって、『PROVOKE』がやろうとしていたこの“荒れ、ブレ、ぼけ”という反写真的な行為が「カッコイイ」スタイルになってしまいました。写真のことをまだ知らなかった高校生の僕にとっても、森山大道や中平卓馬の当時の写真というのは、真似をするほどかっこよかったんです。

『PROVOKE』は反写真的なことをやりたかったのに、これは皮肉なことですね。

 

『PROVOKE』終了後、中平卓馬は、1973年に『なぜ植物図鑑か』という評論集を出します。彼は、写真が写真として存在するには、「植物図鑑のようなものがいい」という言い方をしています。つまり、これまでの「荒れ、ブレ、ボケ」といった主観的な写真から、客観性が求められる、図鑑写真のような写真を目指します。

 

とはいえ、この「客観性」は、その前の世代がいう「客観」とは違います。

“新たなる客観性”を中平卓馬は考えようとしていたんです。当時、その片鱗はあるんですが、中平卓馬の写真は、やっぱりかっこいい写真でした。

 

その後、中平卓馬は泥酔して昏倒、記憶のほとんどをなくしてしまいます。あのレトリックに満ちた文章は二度と書けなくなります。そのかわりというのもへんですが、『なぜ植物図鑑なのか』で語られているような写真を撮っています。それは、彼が記憶を失う前に模索していた“新たなる客観性”というものがわかるような写真だと僕は感じます。

 

森山大道も『PROVOKE』終了後、床に落ちていたネガや偶然映ったものなど、自分が意図してないものを集めてつくった写真集『写真よさよなら』を出します。作家の主観や意識をすべて取り払って写真を成立させることはできないのかと考えてつくったものです。

 

森山大道はその後、長いスランプに至りますが、それも必然と言えるかもしれません。つまり、作家の存在性自体が必要とされなくなるわけですから。それを取り戻すのに、長い年月がかかっています。

 

『PROVOKE』は、いまでも日本の写真を語るときの分節点として必ず出てきます。海外の評論家も日本の写真を紹介するときに、『PROVOKE』を引き合いにだします。

 

2020年木村伊兵衛賞を受賞した横田大輔もそうだと思います。彼の写真を語るときには、必ず『PROVOKE』が出てきます。“『PROVOKE』がやろうとしたことを、横田大輔さんが受け継いでる”といったようなことを、評論家たちが語っているのをよく目にします。

 

ですので、この『PROVOKE』の存在を知らないと、横田大輔の写真は面白く見られないということになるかもしれません。

 

『PROVOKE』がやろうとしたこととは、「新しい写真の客観性」です。

『PROVOKE』が終わったあと、日本の写真界はそのことについて言及しなくなります。そして、長い長い時間を経ていま、2020年になって再び『PROVOKE』の延長をやろうとしているのかもしれません。

 

僕は、現代写真を理解するには、この『PROVOKE』から始めるのが一番わかりやすいような気がしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鬼海弘雄『PERSONA』

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これまで、ロバート・フランクやウイリアム・クライン、ソール・ライターなど、海外の写真家の写真集の話をしてきましたが、今回は日本人です。

 

どの写真集を紹介しようかなと迷ったのですが、やっぱり一番好きな写真集にしました。僕が主宰する「写真のワークショップ」の初回に、必ず皆さんに見てもらう写真集があります。それが鬼海弘雄『PERSONA』です。

 2003年に発売され、2004年にこの写真集で土門拳賞を受賞しています。

 

今では鬼海さんの写真は世界中の美術館に収蔵され、アウグスト・ザンダーやダイアン・アーバスと同列で語られる日本を代表する写真家です。

 

鬼海さんは40年以上に渡り、浅草の浅草寺でポートレートを撮り続けています。写っているのは、浅草寺に来ていたごくごく普通人々。変わった仕草をするわけでもなく、表情が豊かであったりするわけでもなく、美しい光の中で撮られているわけでもない。一般に教えられているポートレートに撮り方とは、正反対。そして背景は同じひとつの壁です。

 

地方に講演に言った際、主催者が用意してくれた何冊かの写真集の中に『PERSONA』がありました。するとある参加者から「鬼海さんの写真のどこがいいのか教えてください」と声があがりました。その方にとって、この写真集は「全然面白くない」というんです。そこで『PERSONA』を開きながら、鬼海さんのことについて話をしました。

 今日は皆さんに向けて、お話ししたいと思います。

 

僕はたまたま鬼海さんと同じ山形県出身ということもあって、直接、お話を伺える機会が何度もありました。

鬼海さんは、写真を専門的に勉強したことはないそうです。ただ、写真家になりたいと思ったときに、現像とプリントを学ぶためにラボで何年か働いたことはあるそうです。

 

山形の高校を出ると、県庁で働くことになったそうです。でも鬼海さんにとって、その公務員の仕事がとても退屈だった。これはご本人がおっしゃっているのですが、「まったく実務能力がなかった」と。

 

それですぐに県庁を辞めてしまいます。では何をやろうかと考えたときに、自分は仕事をしてみて、あまりにも役立たずだったから「役に立たないことをやってみよう」と思い、一番役に立たなそうな学門として哲学を選び、法政大学に入学します。そこで運命の福田定良先生(哲学者)と出会い、それが鬼海さんの人生を大きく変えてしまったそうです。

 

福田先生と鬼海さんは、その後30年以上のお付き合いがあったそうで、鬼海さんが写真の道に進みたいと言った際に、まだ給料が数万円の時代に「これでハッセルブラッドを買いなさい」とポンと30万円を出してくれたそうです。

 

福田先生からは、哲学のこと以外にも多くのことを教わったそうです。特に映画は福田先生のフィールドのひとつだったので、鬼海さんも映画に興味を持ち、特にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(2016年死去)が大好きで、『PERSONA』には、ワイダの文が寄せられています。鬼海さんはワイダに会えたことが人生で一番嬉しかったと僕に話してくれたことがあります。

 

映画監督の道を目指そうと思った鬼海さんですが、映画は大勢の人が関わって、大きなお金も必要なので、なかなか厳しい世界です。その点写真はひとりでできる。

鬼海さんは、1970代の初頭にダイアン・アーバスの写真に出会って、写真家の道に進むことを決めたそうです。鬼海さん曰く、「見ても見ても見飽きない写真がこの世の中にあるんだと知って、衝撃を受けた」と話していました。

 

それから鬼海さんの写真のほとんどは、福田先生からいただいたお金で買ったハッセル1台で撮られています。レンズも標準レンズ1本だけ。被写体によって機材を変えたりすることはなくて、このカメラとこのレンズだけで撮れるものを撮ろうと決めたそうです。フィルムバックも長年、ひとつだったそうです。

 鬼海さんは、今でもそのハッセルを大事に大事に使っています。

 

実は海外の写真集もあり、特に『INDIA』が有名ですが、インドに行くときは35ミリを持っていくそうです。なぜかとうかがったら、一度はハッセルを持って行ったけれども、それが盗まれないか心配で心配で、それで35ミリにしたとおっしゃっていました。

 

鬼海さんは、たくさんのフィルムを使いません。大学を出てからしばらくは肉体労働をしていたそうで、その時に遠洋のマグロ船に興味をもって、280日も乗っていたのだとか。それなのにフィルム8本しか撮らなかったそうです。

ところが、このときの写真が『カメラ毎日』(現・廃刊)の編集者山岸章二さんに認められ、写真家になるきっかけのひとつになったそうです。

 

インドも同様に、半年以上も撮影に行っていたのに30本も撮らなかったそうですが、撮った写真の半分は作品になっています。

 

そういえば以前、鬼海さんと話している最中に、僕のカメラに興味を持ったようで、「触らせてくれ」とおっしゃったときがありました。

そのカメラにはフィルムが入っていたので、「鬼海さん、撮っていいですよ」と声をかけると「いや、減るからだめです」というんです。

思わず「何が減るんですか?」と訪ねたら「人間はシャッターを押せる回数が決まっている。無駄なシャッターを押したら、肝心なときに押せなくなる」と真顔でおっしゃった。

 

鬼海さんは、なんとなく撮った写真は1枚もないそうです。“撮って撮って撮りまくる”というのが当たり前だった時代でしたが、鬼海さんの場合は、“考えて考えて、考え抜いてシャッターを切る”ということを真剣にやっていた。ノリで撮るようなことはしないんですね。

 

「撮りたい物を探し当てるのが一番大事で、それが決まったら、あとは淡々と撮るだけ」という鬼海さん。

 

浅草寺のポートレートもそうで、浅草寺の境内で撮りたい人がやってくるのをずっと待っているそうです。

この「やって来る」とはどういうことかと言うと、鬼海さんはわざわざ探しに行かない。ある所で待っていて、そこにやって来た人を見て、「あ、この人撮りたい」と思ったら声をかける。でも、成功する確率は10回トライして1、2回だそうです。

 

わざわざ電車賃を払って来ているから、何か収穫をあげないと思うのが人の常ですが、鬼海さんは撮れない日が続いても、我慢する。この我慢が「凄く大事で絶対に妥協はしない」と。

 

面白いのはね、1日で2人撮れたらその日はおしまいにするんだそうです。そして浅草寺裏のお店に行って、煮込みで一杯やって「あー、今日はいい日だったな」と思って帰るのが楽しいとおっしゃっていました。2人以上撮らないのは「運は使い尽くしてはいけない」というポリシーからだそうです。

 

撮影スタイルは至ってシンプル。最初に声をかけ、二言三言話しかけると、ハッセルブラッドを構え、たんたんと撮る。ハッセルのフィルムは1本12枚撮りですが、1本で2人を撮っています。初期の頃は、1本につき3人撮っていたそうですから、シャッターを切る枚数は一人あたり4枚。ほとんど撮ってないですよね。撮影は5分もかからないぐらい短い。

 

ポーズはつけません。ただ立ってもらうだけ。立ち姿勢にだけはこだわるそうです。鬼海さんに「ポートレートで大事なのはなんですか?」と聞いたことがあるのですが、「首が大事だ」とおっしゃっていました。「首の座り方を見るとその人がわかる」とね。

 

鬼海さんは絵画も大好きで、特にイタリアの画家アメデオ・モディリアーニの話をよくしていました。

モディリアーニの描く絵は、首に特徴がありますよね。「あのろくろっ首のような長い首に、その人の人生が隠れている」と鬼海さんから聞いたことがあります。

浅草寺で鬼海さんが撮影している場所は、数カ所あるそうです。でも主によく使っているのは、中門横の社務所がある建物の壁。

当初は、境内のあちこちでスナップ写真のように撮っていたそうですが、あるとき、その壁の前で撮ったら、人物がものすごく映えたんだとか。それ以降は、この壁を使ってポートレートを撮り続けています。

 

『PERSONA』をずっと見ていると、あることに気がつきます。背景にしている壁にある柱が、人物の右横になっている場合と左横になっている場合があります。

ここに鬼海さんの写真の重要なポイントが隠されています。

 

実は、この壁は、とても撮影条件がいい場所なんです。上は中門の張り出した屋根が被さっていて、なおかつ社務所建物の軒下。でも、左右からは大きな光が入り込んでくる。これはポートレートを撮るには、うってつけの光が入ってくる場所です。

特に、晴れた日は、向かって左側の壁にきれいなグラデーションが生まれます。人物がとてもかっこよく撮れるんです。

 

でもそういうとき、鬼海さんはあえて右側の壁で撮っています。そうすると、光がフラットになって、人物の陰翳がなくなります。なぜなのか。

 これが『PERSONA』で最も大事なポイント。

もし1枚のポートレートとして成立させるのであれば、グラデーションが豊富な左の壁を使うほうが圧倒的にいいんです。

 

でも『PERSONA』は、長い時間をかけて作り上げている作品です。あるときはよく晴れて、すごくいいグラデーションでかっこよく撮れる人物がいた。でも、ある人は曇り空だったからそうは撮れなかった。そんな差があってはいけないんです。いつも一緒にしたい。40年の時間を積み重ねるためには、1枚1枚が同じほうがいいということです。

 

鬼海さんは常々「人間を撮りたい」とおっしゃっています。

とても哲学的な話です。

人間を撮りたいということは、ある特定の人物ではなく、人間そのものですから、ひとつひとつに差異をつけない。この人はよくてこの人はよくないというような序列を付けず、「すべてを等しい価値にして扱いたい」ということ。これを「等価」といいますが、この考え方は哲学では非常に重要なキーワードになっています。

 

人間を「等価」に撮影するためには、距離も光も常に一定の条件化にすること。もちろんカメラもフィルムも、印画紙も常に同じす。おそらく露出もほとんど一緒なはずです。これによって、一人ひとりに差を付けない撮り方ができる。

 

実はこれ、ドイツの写真家として有名なベッヒャー夫妻が撮った給水塔や工場のシリーズとまったく同じアプローチです。

ベッヒャー夫妻も、それぞれの写真に差が出ないように天候を厳密に選んでいるし、被写体に対しての角度も同じになるようにアングルを決めています。

 

鬼海さんが浅草に通い始めたのが1973年からで、この壁をバックにポートレートを撮るようになったのは1985年頃からだそうです。

 

ベッヒャー夫妻が、世界的な評価を受けたのは、1975年。ジョージ・イーストマン・ハウス美術館で行われた「トポグラフィクス」展でした。

 

物事を「等価に扱う」という考え方は、脱近代美術の中でも非常に重要なポイントになっています。

 

鬼海さんの作品は、こうした世界の写真の動向と同じように作り上げています。人の写真はほとんど見ないとおっしゃっていたので、直接の影響はないのでしょうが、時代がそうさせたのかもしれないですね。

 

僕は、これまでに運良く2度、浅草寺で鬼海さんにお会いしたことがあります。僕が主宰しているワークショップのカリキュラムの中に、浅草寺実習という講座があって、そのときには「鬼海さんの壁」でポートレートを撮るのを恒例にしています。そこでばったり遭遇し、鬼海さんの方から「渡部さとるさんではないですか?」と、どこか山形訛りで声をかけていただきました。

 

2度目に声をかけていただいたときには、こんなチャンスは二度とないと思って、鬼海さんに「鬼海壁」に立ってもらい僕のローライで撮らせてもらいました。

 

その日は晴天でした。僕は鬼海さんに「右、それとも左ですか?」と尋ねるとニコッと笑って「今日は右」とおっしゃいました。「露出は?」と尋ねると、「1/125秒で11と半くらいかな」とも。

 

でもね、僕は1/125だとブレそうな気がしたので、1/250で絞りは8と1/2で撮りました。慎重にピントを合わせ、シャッターを切ったのは4枚。

緊張というよりも、何かが溢れてくるような感じで鬼海さんを撮影したのを今でも覚えています。

 

さて、『PERSONA』の楽しみ方のもうひとつ重要なことは、写真1枚1枚に添えられている文章です。

文字数で言えばわずか数十字。でもそれを読むと、写真がとても深く見えてきます。その背景が、その数十文字で伝わってくるんです。

 

たとえば、“中国製カメラ「海鷗」を持った青年 1986”という写真があります。これだけで見ればなんの変哲もない1枚ですが、その隣り合うページに“四十歳になったという、中国製カメラを持っていたひと(15年後)2001”があります。

まるで別人のようですが同じ人。ふくよかだった青年は随分やつれて見え、15年の間に、いったい何があったのかと思わざるを得ないような変貌ぶり。そこに流れた時を考えてしましまいます。

 

これを見てびっくりした僕は、鬼海さんに「よく同じ人だと分かりましたね」と尋ねたら、「最初は気がつかなかったけど、ちょっと右足を引きずるような歩き方やしゃべり方、そして一度撮られたことがあると言っていたので、後日、ネガを探して顔をアップにしてプリントしてみたら、同じところに傷があった」そうです。

 

鬼海さんは常々「写真にできることは時間の堆積だ」とおっしゃっています。この堆積をよく現しているのが、まさにこの2枚の写真だと思います。

だからこそ、常に同じ条件で撮られているということが、非常に重要になる。

 

たとえば、青年のときにいい光の下でかっこよく撮れていて、40歳のときにはいい条件のもとで撮れなければ、その差が出てしまう。でも、同じ条件で撮られていたら、そこで変わるのは時間だけということ。

この2枚の写真の面白さというのは、同じ条件で撮られているからです。

 

そのほかにも、“真新しいスニーカー履いている男 2002”とか“二十八年間、人形を育てているというひと 2001”などなど、様々なキャプションがついていて、それを見ていると本当に楽しくて、見飽きることがない写真集です。

鬼海さんは文章も上手で、著作も残しています。ストレートな表現なのに、その奥に潜んでいるものが浮き上がってくるような文章です。

 

僕は鬼海さんにお会いするたびに言われるのは、「写真家というのは、写真が写らないというのを自覚しなければいけない」ということと「1本の川の流れのように生きなさい」ということです。

「雨が降って小さな流れになって、それが合わさって川になって、それが上流から下流までひとつの筋になっている、そういう写真を撮るのが大事だ」とおっしゃいます。

 

僕はこれを、本当に重い言葉として受け止めています。

 

実は、このチャンネルをはじめるときに、いちばんに話を聞きたかったのが鬼海さんでした。今なら鬼海さんの言葉が少しは理解できるかもしれないという思いです。

残念ながら体調を崩されていて、それは叶わなかったのですが、鬼海さんの体調が戻られたら、是が非でもインタビューしたいと考えています。

 

そういえば「鬼海さんって、どうやって食べているのですか?」と、ぶしつけな質問をしたことがあります。

 そんなときも真剣に「写真で食べていこうなんて思っていなかったから続けてこられたんだよ。ずっと新卒の会社員より稼ぎ少なかったから」と答えてくださいました。

 

写真集はwebで見ても、なにも伝わりません。

これで見た気にならず、是非とも実際に手に取って見てみてください。残念ながら、『PERSONA』は絶版になっていますが、2019年に『PERSONA最終章』が出版されています。これも非常にいい写真集なので、手にとって、その重みやページの感触や印刷の良さといったものを感じてください。

 

鬼海さんが、ダイアン・アーバスの写真は「何度見ても見飽きない写真」とおっしゃっていますが、僕にとっての『PERSONA』が、まさにそれです。

 

おまけのお話です。

僕が持っている『PERSONA』は、鬼海さんが土門拳賞を受賞されたときに行われたニコンサロンでの記念写真展で、ご本人から直接買いました。

値段は1万円程で、それに見合った印刷のクオリティとボリュームなんですが、

「こんな高い本買ってくれてありがとうね。サイン入れるよ」と言っていただいたので、僕は芳名帳に書いた自分の名前を指さして「渡部さとるです」と言ったら、鬼海さんは「渡辺」と「部」じゃなくて「辺」の方を書きました。

 

「まぁ、しょうがない、よくあることだし」と思っていたら、なんと鬼海さんが続けて「とおる」と書くではありませんか。

 

まったく違った名前になってしまいました(笑)。

鬼海さんらしくていいか、とそのまま何も言わずに受け取りました。

 

すると翌日、ある編集者から電話がありました。

その方は鬼海さんと僕の共通の知り合いで、「鬼海さんから、渡部さんに名前を間違えてごめんって謝ってほしいと電話がありましたよ」と笑って伝えてくれました。

 

そうです、鬼海さんは名前を間違ったのは気がついたのだけど、1冊1万円の本ですから、引くにひけず、そのまま渡しちゃったそうです。

 

僕はその電話に爆笑してしましました。

それから鬼海さんの大ファンになりました。

鬼海さんとお話する機会が増えたのも、この『PERSONA』のおかげです。