指先の羅針盤

ロラン・バルトの「明るい部屋」という本は写真関係者なら一度は聞いたことのあるはず。

 

そのバルトが言語についても別の本で熱心に書いていて、言葉にはラング、スティル、エクリチュールという3層があると言っている。

 

簡単に言うとラングは日本語や英語といった国語のこと。これを使うことで世界を認識し得る。スティルは発音の仕方や書きかたの癖と言った個人的な偏りのこと。

 

最後のエクリチュールは社会的に規定された言葉の使い方。少年が大きくなって、自分のことを「ボク」と言っていたのに「オレ」と言うようになると、それまで母親を「ママ」と呼んでいたのに「かーちゃん」とか「おふくろ」と「オレ」に合わせた言葉づかいになり、接しかたも変わる。甘えづらくなるのだ。

 

不良仲間に入り仲間内の言葉を使うようになると、思考も態度もそのようになる。言葉の運用は表情、感情表現、服装、髪型、身のこなし、生活習慣、さらには政治イデオロギー、信教、死生観、宇宙観にいたるまでが言葉に影響される。

 

バルトはそういったエクリチュールから離れた文章がいいと言っている。それを「白のエクリチュールまたは透明のエクリチュール」と呼び、最高の文章として芭蕉の俳句「古池や蛙飛び込む水の音」をあげている。

 

この文章には作者の意図や意思は何も入っておらず、ただ目の前のものを写生しただけ。社会的運用から離れているゆえに、まったく古びることなく現代まで語り続けられている。

 

前置きが長くなったが、今週銀座ニコンサロンで行われている千葉桜洋「指先の羅針盤」にその「透明のエクリチュール」を感じたのだ。

 

「何も言わない、何も足さない、何も引かない」

 

静かなモノクロプリントが並んでいる。コンセプトもストーリーも作者の意図や被写体の背景とかも見る上でまったく必要がない。

 

ただ見るということだけでいい。ひとりで見て、その後にだれかに話したくなる写真だ。

 

今月29日まで。

 

写真集も同時発売している。

http://yo-chibazakura.com/wander-in-the-silence/