大型カメラという祝福の装置

時間ができるとエイトバイテンという大型カメラで江古田を撮影している。フィルムの大きさはB5ノートくらい(20センチx25センチ)もある。

撮っているのはごく普通の駅前とか商店だ。何か特別なものではない。来年この町を離れることになったので撮りたくなった。ノスタルジーの感情とは違う。

カメラも重いが三脚も重い。カメラをセットし た状態で持ち歩くとバランスが悪くてふらふらする。担いでいると鎖骨にぶつかって痛くなるし、翌日は体がギシギシしてくる。フィルムコストは1枚あたり1600円だ。笑ってしまう。

自分の暗室ではエイトバイテンフィルムの引き伸ばしができないので、プリントはベタ焼きになる。ネガフィルムを直接印画紙に載せて上から光を当てるだけ。

そんな大きなフィルムを使ったからといって仕上がりがとんでもなく素晴らしいかというとそうでもない。フィルムの質が悪かった40年前ならいざしらず、今なら67カメラ(6センチx7センチ)からプリントした方がエイトバイテンのベタ焼きよりずっときれいだ。

つまり仕上がりのクオリティを求めて使っているのではない。

多くの写真家がいまだに大型カメラを使い続けている。軽くて使いやすくて性能がいいカメラが普及しているのにもかかわらず、大きくて重くて使いづらいほうをあえて選んでいる。

そういえば僕がポートレートを撮ろうと思った時も、最新のカメラの方が仕上がりは良いと分かっていながら出来るだけ使いづらいカメラを使おうとする。

ストリートスナップを撮る写真家も目立たないカメラではなく、大きくて使いづらいカメラを選ぶのだそうだ。長いこと路上を撮っている人ほどその傾向にあると聞いた。今なら音がしないカメラもあるのに使おうとはしない。

なぜ多くの写真家は面倒なことを好むのだろうか。そこには現代アートのロジックとは違うものがあるように思えてくる。

「写真家である」と自らを規定するものにとって、カメラは表現に使う便利なツールとして利用しているのではなく、祭事のための儀礼の道具と考えているのではないだろうか。

中国に「賦」と呼ばれる詩の形がある。そこにメロディをつけると唱歌と呼ばれるものになる。小学校で習うやつだ。

「早春賦」
春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず
氷融け去り 葦はつのぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空
春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思いを
いかにせよと この頃か
いかにせよと この頃

ただただ春の状況を描写しているだけだ。作者の我はそこにはない。この詩はなんのために作られたのか。

春への祝福である。冬が終わり春の到来への祝福の思いなのだ。

賦と写真は似ている。何も足さない、何も引かない。ただそのものを描写する。

もうひとつ

「ふるさと」
兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

如何にいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいずる故郷

こころざしをはたして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷


これはただのノスタルジーなのか?違う、ふるさとの山河を祝福している詩なのだ。失われたものへの追憶の感情だけはない。祈りすら感じる。


そうか、僕が江古田を撮るのも、ポートレートを撮るのも対象への祝福なのだ。

つまり写真家とは祝福を与える人たちのことなのだよ。

そして時にそれは鎮魂であり、祈りとなる。決して対象を呪う装置としては用いない。だからどこか宗教的な要素を持ち合わせているように感じられるのだ。

ただ生きるためではなく、よりよく生きるために儀礼や祭事は必要であり、そこには大がかりな装置が必要になる。簡便な儀礼というものは存在しない。

そう思うとカメラのシャッター音は、お参りのときの柏手(かしわで)と似ている。パシンと響く音が対象への呼びかけとなるのだ。

大きくて重くて使いづらいカメラを使うのは、祝福を与えるための儀式。僕はそう思うことにした。

呪ったり呪われたりして生きていくのは御免だ。僕は頼まれなくとも写真を撮ることで勝手に祝福を与え続ける。

写真を何かに利用したり、呪いの装置にはすまい。僕はひたすら祝福を込めて対象を撮るのだ。

それでいいのだ。