恵比寿から目黒市民ギャラリー、そこから新宿ニコンサロン

9月の東京は国立近代美術館でトーマス・ルフを、東京都写真集美術館で杉本博司を見ることができる。

2年間の改装後今月から再オープンした東京都写真美術館はTOPギャラリーという呼称になったという。TOPねえ。最初は違和感があるが、いずれ慣れるのだろうか。大江戸線は慣れたが、E電はどこかに消えた。

ともかくこけら落としだ。杉本博司だ。

ここしばらくワークショップ内などで、写真を壁に並べるだけの写真展は徐々になくなっていくだろう、特に美術館での展示では物や音や映像といったものと合わせてレイヤーを構成するように展示されるようになるはずだと言ってきた。今回の杉本博司展はまさにその通りだった。

杉本博司は古美術品コレクターとして知られている。貴重な美術、骨董品から、美術という概念がなかった頃の造形物、例えば化石ゃ、美術品としての認識がない日常雑貨まで大量のコレクションを持っている。

横浜美術館村上隆が自身のコレクションだけで展示をしていたが、著名なアーティストの多くがコレクションを持つ。これは「踏む」という行為の実践なのだろう。過去がどうやってできてきたかを理解する方法として、見る、知る、より積極的な行為として集めるがある。

今回の展示では3階と2階を使っての展示だった。3階の展示では彼の膨大なコレクションを通して「今日 世界は死んだ 昨日かもしれない」という現在の在り方を提示している。これを「今日 僕は死んだ 昨日かもしれない」と言い換えてみると面白い。人類の死滅を想定し、遺物となった歴史や文明について、「比較宗教学者」「宇宙物理学者」といった33の視点から考察している。

杉本博司は長年時間という概念を写真を通して制作している。写真は常に過去であるということを利用しているように見える。

トーマス・ルフはネットやアーカイブから抽出したもので作品を作り、今回杉本博司はコレクション、つまり自分の手で制作していないものを再構築することで写真展の空間を作り出している。写真はもはや獲物を狩る行為ではなくなった。狩猟から農耕へ変化している。

アートは作者自らの手によってのみ作られるものではない、「作者の解体、作者の死」「作品とはさまざまなものが引用された織物のような物である」という示唆が目に見える形で写真にも及んできている。

今日 写真は死んだ 昨日かもしれない